2020年12月28日月曜日

二◯二◯年の暮れ、育児に没入し「正義」を想う

 もし眼前に、兵隊が大挙して押し寄せ、子供や老人を嬲り殺す光景があったら、私は生涯忘れないし、それについて他者に語ろうとすることだろう。搾取やパワハラ体質の「アート」と、それを擁護する者も、消費する者も、加担する者も、根っこで同じことなのではないか。人間の業について何か述べたいなら、それに相応しい状況を自分で設定すればいいだけのことで、「パフォーマンス・アート」はそれに適しているのだから、搾取もパワハラも剽窃も、好きなだけ行えば良い、と半ば諦める。そして思考を終わらせて、ちょっと一息。

 インターネットは自分の活動に馴染まないし、というのは、自分が作品を発表してきた場には大小差があれど、立ち会う人間に共犯になってもらっていたのですから。瞬間視聴率を、今度は目指さなくてはいけないなんて、莫迦げたことだよ、過去の自分と、ひいては歴史への裏切りだよ。

 とは言うものの、想うことはある。「正義」は実践の中に於いてしか存在しないと確信してはいるのだが、その実践については問題だ。

 育児がこの上なく、そうなのではないか、そうでないはずがない、と仮定してみるものの、育児は他者に開かれているのか、どうかな、乳児は、他者か、パートナーは他者だな。その意味では、自分史上最も自閉してない世界にいると言える。他者に晒されない正義の実践は、成果主義的にはNGでも、自分にとって意味があると思える限りOK、なぜなら他者への強い動機を産むから。と言う志向でここまで自閉と開示を繰り返してきたけど、それでは追いつかないくらいには、育児に勤しんでいます。

 佐々木中さんの講義録を読んでいる。

 それは、本当に素晴らしい仕事なので、私が何かしらその領域に追いつける可能性が残されてるとしたら、感性の実践についてだけだ。そこについて彼は、一歩譲ってくれてるから、私は、その吊り橋を渡れるかと自問してみる。

 今は育児で疲れています、と答えた。フェイスブックの自動翻訳のような文体が自分の中で興る。コロナ流行の歳が暮れる。そう、現在は次を待つ時間だ。

2020年12月4日金曜日

Yo La Tengoを聴いています、音楽と自由について語ります

今、Yo La Tengoを聴きながら、文章を綴っている。どうしてこんなにアメリカのロック、特にパンク・ムーブメントの再来と言われた90年代のロックが好きなのか、自分でもよくはわからない。多分、そこには日本の音楽にはない鷹揚さと肯定感が溢れている気がする。もちろん、音楽家を名乗ってますし、今は様々なジャンル、時代の音楽を聴きますが、自分の心に響く音楽には通底している色があると思う。今日はそんなお話をば。

13歳で、お受験したボンボン中学に入学早々通えなくなった私は、地元の図書館で借りたセックス・ピストルズとレッドホットチリペッパーズのCDに、字義通り心踊った。自身の感情を自由に表現する人たち。怒りと音を直結させる人たち。何かを強制されたりしない。歌詞がわからなくても、自由になろうぜ、と言われた気がした。世界が啓けた。「この人、歌下手じゃない?」と姉にバカにされても、気に留めなかった。

そんな原初体験から始まる私的音楽史は、高度な計算や技術より、率直に響く音に魅せられてきた。(scscsのバンド時代をご存知の方には信じがたいかもですけど)

しかし、率直に「響く」ってなんだ?自身で作曲を始めてから、すぐにその問題にぶつかる。今持っているボキャブラリーで表現するなら、「自分が出したい音が明確にイメージできている」状態と「周囲の状況を受け入れて、自分の音が周囲に溶け込んでいく」状態とが、相互に作用しながら同時進行している瞬間に、率直に「響く」音が奏でられると思う。

なぜこんな回りくどい言い方で精確さを求めるかというと、「ロックは魂の叫びだから」とか「ヘタウマだよね」とか「ノリが命」とか「その良さは言葉にできないんだよ」とかとか、抽象的な神格化にウンザリしてきたからなのだけど、まだまだ言語化が遅れている分野だとは心から思う。(だからと言って、それが自分の仕事だとは思ってないけど)

イメージやモチベーションという概念は、完全に三上賀代、平田オリザ、岡田利規、山田うんなどから学んだので、私がライブハウスからいわゆる「舞台芸術」に活動を移したことは自分の中では繋がっているのです。

しかし。それでも一線引いて、音楽家を標榜しているのには理由があって、「自分が周囲に溶け込んでいる」状態というのが演劇やダンスに於いて起こり得るのか、まだわからないのだけど、音楽においては確実に存在する感覚で、自分でも手が届くことがあるので、やはり音楽にこだわりたいと思っている。

自由になりたい。自由とは?哲学でたくさん議論されてきたトピックであることは知っているけど、私は直にそれを体験したい。その意味に於いて、一見ストイックに見えるソロ・パフォーマンスも、"棚と白熊"というバンドも、劇伴音楽で舞台に関わることも、繋がっています。

2020年10月15日木曜日

久方ぶりに、舞台に立つ

11月に堀企画という演劇団体の『水の駅』で、音学を担当する。

 堀企画『水の駅』

太田省吾『水の駅』はご存知の方も多いかと思いますが、無言劇(セリフ一切なし!)で、終始舞台上の水道から水が流れ続ける演劇作品です。堀企画・主宰の堀夏子さんは、過去に山下彩子の作品で共演し、自分のソロ活動も忙しい合間を縫って来てくださっていて、なので、「演劇に音楽をつける」というより、いつもの佐々木の演奏を、その時空間に並置する、というイメージだと思っている。

蛇口から流れ続ける水の音と、演者が無言で芝居するというだけで、私としては他に何も必要としない感じがするけど、時間を刻んだり、空間に波紋を生じさせたり、という自分の表現の延長にある得る手札の中で、どれがベストか探り続けている。

堀企画の前作『トウキョウノート』は、平田オリザの『東京ノート』を大胆に編集(というよりもはやカットアップ)して戯曲のセリフは一言一句変えずに、そこからナラティブな制約を漂白したような時間で、私は音楽のように感じた。

だから、『水の駅』も、「無言劇」から連想されるような重苦しさや難解さよりも、緊張と弛緩のみがゆったり波打っている、極限まで削ぎ落とされた時空間になると思う。

そういった現場にお声をかけて頂いて本当に光栄です。

もっといろんな現場でも仕事をしてみたい。よろしくお願いします。


さて、守屋パヤとのデュオバンド、棚と白熊もライブが決まりました。自分の子供(0歳)を正式メンバーに迎えたのだけど、出演時間が夜の為、今回はお休みです。

11/22(日)、大久保の水族館というライブバーです。水族館アクセス

18:30スタートのイベントで19:15〜棚と白熊の出演になります。詳細

コロナ対策を万全にしつつ、自分ちに集まってリハーサルを重ねています。パヤが新しい楽器を購入し、猛特訓中。新曲もやります。

前回のライブとはまた雰囲気違いますぜ。ぜひ、よろしくお願い致します!


2020年9月17日木曜日

純粋な存在をただ信じている、それに触れたい

もどかしさがある。触れたい物があるのに、手が届かない。手を伸ばせば、バランスを失い転ぶ。それでも触れたい。感触を確かめ、知りたい。自分に新しい色を吹き込んでくれる物、時間、空間。

育児は忙しく、持病の調子もままならないし、仕事にも行かなきゃいけないし。転んでる場合ではないと、手を伸ばすことをついつい諦めてしまう。それでも尚、自分の中に燻る想いは消えない。家族をどんなに想っても、この想いは消えない。


この感覚は、鬱が今よりもっとひどくて何も手につかなかった時代にもつきまとっていた。友人や当時のパートナーが私を様々な遊びに誘って過ごしてくれたが、一時どんなに楽しくとも、彼らには申し訳ないけど、後には虚しさと惨めさが残った。

私は自分が何を求めてるかわかっていたが、動かない体と共に、擦り切れた心は指一本動かすことにさえ臆病になっていた。

心の底を揺さぶってくれるような、感覚。私が中学生の頃からずっと求め続けている、その感触。私の一生を軽々と飛び越えて、颯爽としている圧倒的に純粋な存在。それを求めることさえできない苦しみ。あがき、もがき、手探りで触れようとする、探そうとする、その行為すらできないこと。その自身の無力さが、生活のあらゆる隙間に虚しさと惨めさを呼び込んでいた。


幸い今は、体が動かないわけではない(動かない時もままあるけど)。ただ時間が以前より自由にできないこと、そして家族への気兼ねや遠慮を自らに枷として課してしまっている。あの時とは違う。大切に思える家族の存在は決して自分の想いと相対しないはずだ。

このコロナ禍で、自分自身の活動の見通しは暗い。色々と助成金、給付金もあるし申請もしているが、それでももう一度「舞台」を創れるかはまだわからない。

そんな中でも同輩たちや下の世代が果敢に作品を発表し続けている。それに立ち会えないのはもどかしいが、彼らの必死な歩みに励まされると同時に、いつでも敬意と謝意を贈っているつもりだ。あなたが大切にしてくれたそれは、私にとっても大切な物です、永らえさせてくれてありがとう、と。

(余談だが、私の芸術観って宗教っぽいね)


そして、私も歯を喰いしばって歩むつもりだ。生活を。創造を。未来を。まだくたばっちゃいないぜ。

手始めに今日は良い本屋に詣でて本をたくさん買う魂胆。出版物に関する悪法がまかり通りそうだしな。

2020年9月3日木曜日

詩を書くことと私的なこと

 詩を書くのが好きだ。中学生の頃から詩を書いていたので、かれこれ20年以上になるけど、つい最近までそれを人目に晒すことはしなかった。

きっかけは、コロナ禍で自分の活動の先行きが見えなくなった時に、思考や感覚を外部に接続する手段が他になかったからで、止むに止まれずTwitterで公開しはじめた。そうすることで少しバランスを取り戻せた。

もちろん、反響などなかったが。(リプやファボしてくれた知人たち、どうもありがとう)それでも1ヶ月くらい毎朝、詩を投稿していたら、それまでの、自分の為に言葉を綴っていた感覚が変わってきてしまって、最終的に詩が書けなくなった。

今日気づいたこととして、自分は質素に暮していると思い込んでいたが、時間に関しては贅沢したい人間だったんだとわかった。

詩を書く時間は、それの象徴のようなもので、ゆったりした時間の流れにドップリ浸かって、少しずつ、感覚に言葉をあてはめては、薄皮をめくるように自分の内面を剥がしていていく作業だった。

その言葉を与えられた感覚たちは、羽化したばかりのセミの羽のように繊細であったし、そうあるべきだった。

人目に晒すという自意識のフィルターを通すことで、段々と言葉は強くなれてたかもしれない。でも以前のような言葉の紡ぎ方を、忘れてしまった。

いまは育児が忙しいから、時間が贅沢には使えない、というのもある。しかし、自分の中に大切にしまっておくべき物と、外部との接続の手段は、きちんと分別をつけるよう気をつけよう。僕とは自明なことではない。それを維持する時間を、タイトに選べるクセを身につけようと思った。



2020年7月15日水曜日

"with コロナ"でも主張し続けること

6月から週1回だけバイトが再開され、7月の頭には家族に会いに県外移動をしてきて、7月中の家族の帰京を目指して8月から保育園を利用するための諸々の手続きをしたり、ゆくゆくは自動車免許を取りたいのだけど取り急ぎ原付免許を取得したりなど、最近起きたことを羅列するだけで、結構な分量になる。

まだ情報公開できないのだけど、知人が演劇作品の音楽を依頼してくれて、非常に救われた気持ちになった。もちろん、東京でコロナ感染者は増加傾向で一筋縄ではいかないことは承知しているのだが。

それでも創造的な作業に関われるのは有難いことだ。発表は二次的なもので、作業自体が好きなのだと思う。

誘ってくれた知人は同年代であり、何か問題を感じた時は遠慮なく言ってくれと言ってくれた。いまは自分は音楽家という特殊な立場で舞台に関わるので、前のブログで述べたようなパワーハラスメントなどの危険には晒されにくい立場というのもあるのし、同年代同士の気安さというのもあるとは思うのだが、やはり上の世代からの「負の遺産」を引き継がないように心がけている世代であるように思う。こうしてハラスメントの類が駆逐されてくれれば、何も言うことはないのだが。

それにしても、コロナの影響は自分の活動に大きく影響し、正直、先行きが見えない。仕事の依頼を受けるという、わずかな光明が見えた今だから気づけるが、"with コロナ"というような言葉に誤魔化されず、政府や行政の無策や失政はきちんと監視し、批判し続けることを忘れないでおきたい。少なくとも自分の活動に関しては死活問題なのだから。

ソロ活動でも、棚と白熊でも、都内のライブハウスにはお世話になっているが、現在営業再開はしているものの、常に綱渡りの状態であるように思う。次にクラスター感染を出したら、行政からの指示を待たずとも、「悪」の烙印を押され、次々に閉店に追い込まれるだろう。どのライブハウスも、ステージ上にアクリル板、入場者数の制限、消毒や換気の徹底などの対策はしているし、今の所効果は出ているようではあるが。

もちろん、営業の再開自体は喜ばしいことだと思う。scscsがバンド時代に大変お世話になっていた秋葉原CLUB GOODMANは閉店してしまう。ここで育ててもらったという思い入れの深い場所が失われることはとても寂しい。また、アクリル板にプロジェクションをするなどのポジティブな捉え方をするアーティストも既にいるようである。私は、ライブハウスの真摯な対策、対応による変化を厭う訳ではない。

私が危惧するのは、ライブハウスや小劇場などのスペースが「文化そのものを支えているのだ」という主張が、その外部に全く浸透せずに、第二、第三のコロナ禍の波に晒されていくことである。先日、アイドルが主演する演劇でのクラスター感染も報道されたが、主催側に問題があったにせよ、その舞台の必要性を踏まえた上で冷静に問題点の改善を議論する姿勢が、マスメディアにあっただろうか。

経済的にも、世論的にも、後がない状況で再開するスペースやアーティストに、逆風が吹いていることは、今一度危機感を持って認識し直したい。再開を喜ぶことも大事だが、自分たちの存在や居場所が、首の皮一枚で繋がっていることの危うさを、対外的に主張する声を弱めないことが大切と思う。そういう姿勢を持ち続けることが"with コロナ"ということではないだろうか。

2020年6月18日木曜日

自分を記述する試み(2

昨夜は全く眠つけなくて、開き直ってブログを書きはじめた。12時過ぎても夜更かししたのは何年振りだろうか。

最近、年上の知人と話していて、私の持病について、具体的な落とし所もなく責められた。その知人とは信頼関係を築いて来たつもりだったし、自分も心を開いていたので、その不意打ちにとても傷ついた。結局、その件は共通の知人が間を取り持ってくれて、なんとか収まったのだが。

しかし、その時感じた「自分で自分を把握できない苦しみ」「それを周囲が理解してくれない苦しみ」が持つ痛みの味わいには、懐かしさがあった。私はこの痛みを知っている。

10代の頃、小6最後の頃〜中学〜高校という時期、「引きこもり」として過ごした。中3以降は体調がいい時だけ、無理ない時間に登校したので、学校に友人はいた。

家では親が「何故学校に行ってくれないのか」と苦しんでいるし、学校ではクラスメートが「佐々木ってなんで学校こないわけ?」と無邪気に茶化しながら聞いてくる。

きちんと敷かれたレールを踏み外したのだから、何か理由があるはずだ、それを説明しろ、説明しないなら努力を見せろ、迷惑や心配をかけてすまなかったと周囲に謝れ、などと言われ続ける暴力は、10代から30歳頃まで続く。そんなに長い間、同じことを言われ続けると、自分には致命的な欠陥があって「普通」に生きることができないのだと思うようになった。そのような暴力を器用にかわしたり、抗弁するということが、生来下手なのだと思う。

そんな中での救いは、音楽を聴くこと、散文を読むこと、映画を見ること、などなど。引きこもりの時期と被るように始まった、文化的な創作物に触れる時間で、私はようやく、深夜にひとり、息ができた。そしていつか自分も作品を創りたいと思っていた。他人が私という人間を理解することは未来永劫起こり得ないが、「作品」を媒介に私は他人と繋がれると直感していた。

そして、その直感が確信に変わる時が来る。2017年から始めたソロ・パフォーマンス"a440pjt"で、観客の全員ではないけど少なくない人数が集中して興味を持って見守り、惹きつけられている、と実感できる瞬間が、複数回の公演の中で起こった。私は自分の内側と外の世界との接点がようやく生まれた感じがした。

自分が美味しいと思ってる料理を振る舞ったら、黙々と夢中に食べてくれる人がいたという発見に近いかもしれない。味の感じ方は人それぞれだし、歓声などでリアクションしてくれるわけではないけど、自分が良いと信じて紡いだ時間と空間に夢中になってくれているのは伝わる。

初めて他人とつながれた。その手応えは、何ものにも代え難い経験になる。ライブでしか起こりえない、その実感は、私には生きていく上で必要不可欠なのだ。つながりが持てなければ、他人とは相入れなくなってしまう。多くは書かないけど、自分がつながりを持てないままだったら、他人から受けてきた暴力を暴力で返すしかなかっただろう。私はただただ幸運だったという他ない。

2020年6月6日土曜日

観測気球

昨日ブログを書いて、これは沼に足を踏み入れるなと思いながら公開した。
近況をなるべく「美しく」描写しようとしてみる

沼と言うのは、私が関わってきた演劇やダンスにおいて労働問題を取り上げることの難しさ(敬遠とか、黙殺とか)のことでもあるけれど、自分が今まで半生を捧げてきたものを疑うというのは、なかなかにしんどい。

何に感動し、信奉してきたのかについて語るのは非常に難しいので、今の違和感を、なるべく簡潔に述べることにしようと思う。

ー観客の視線について
観客の前に晒されれば、自分が今、視線を惹きつけているか、そうでないかは、どんなパフォーマーでも感じると思う。観客側だった視点から言えば、仕方ないことだと思うのだけど、パフォーマー側からすると一瞬一瞬成功と失敗のフィードバックが起こっている。高所で綱渡りしてる快楽や恐怖と似てるだろうか。もちろん、そこに快楽もあるから何度も舞台の上に立ち続けるのだけど。果たして、それに見合うだけの「対価」を得ていたと言えるだろうか。

ー「犠牲」の多さ、大きさについて
そして、そのフィードバックに耐え得る為に、アーティストは自分を開示し、晒し、破壊し、時に搾取し、時に売り渡し、綱渡りの精度を上げる。それが生活を侵食していることは、果たしてアーティスト側以外に広く共有されていたのだろうか。もしそれをわかった上で観客席に座り続けるなら、それに見合うだけの対価を支払っていたと言えますか?

ー「村人全員が犯人」
以上のことは当たり前すぎて、アーティストやパフォーマーは受け入れて、舞台に立っていた。そこに付随する暴力的な構造について、誰も批判しなかった。批判できなかった。より面白いものを無邪気に求めた。助成金が下りなかったからと言って、チケット代は高くできなかった。しわ寄せは誰にいった?プロジェクトにお金がないのは当たり前すぎて、「仕事」の多くは金額を明示されないのも当たり前だった。より面白いものを無邪気に探求し晒し続けるのが当たり前で、暴力的な構造、理不尽さに目を瞑った。


では、私に何ができるだろうか。今は過去を振り返り言語化することだけだ。まだ今後どういった活動ができるのか、自分でも確信を持てずにいる。だからといって、やめないしあきらめない。当面は考え続けたいと思う。

2020年6月5日金曜日

近況をなるべく「美しく」描写しようとしてみる

2月に子供が誕生したのだけれども、今はコロナ疎開で離れて暮らしている。毎日ビデオ通話越しに見る成長は眩くて、自分の目が少しタレたと鏡を見て知る。そして、恐らく今まで人生で経験してこなかった種類の笑顔を獲得していると思う。

PCがクラッシュしたこと、コロナ禍で自分の創作活動の先行きが見えないこと、そしてバイト休職による多大な時間は、私自身の中に潜んでいた様々な制約を溶かしていっている。制約と表現したけれど、それは極めて暴力的であるという意味で、差別や偏見に近いものなのではないかと、#black lives matterの動向や、日本国内の反応、カナダのトルドー首相の会見などを見て思う。

「舞台芸術」という言葉は、音楽は後塵を拝しているというか、往往にして漏れてるのが当たり前で、音楽をベースとする自分としては使い難い時もあるのですが、今はその、音楽が漏れ落ちた文化のお話をしたいと思います。

昨今話題になったリアリティ番組の、犠牲者のことを全く知らないのだけど、パートナーがその番組を見ていて「プロレスラーのまっすぐな女の子」という情報だけで、胸が痛い。そして、翻って「舞台芸術」の作家、演者、愛好者と、それに携わる人間の中でどれだけの人が、この事件を我が事として捉えられたか。私には、この犠牲者への誹謗中傷とその苦悩を全く知らずに「番組を無邪気に楽しんでいた人たち」と同質のメンタリティが、あったことを告白したい。

リアリティ至上主義、とでも言えようか、演者が舞台上で「我が身を切って立っている」ことへの、「感動」だと呼んでいたものについて、同質だと直感している。「いま、この場で、我が身を切った」という感覚は、単に服でも脱げばいいというようなお話ではなく、膨大な量の時間と労力をかけながら尚、何かに接近しようとする「純粋な」意志だと、仮に説明してみる。もちろん、これは観客としての視点だけでなく、作家、演者としても、そのように感じていた。

現代的な演劇やダンスの公演を観ていて、そのような評価軸を自分の中に置くのは、非常に意義があるように感じていた、すなわち「いま、この場に」いなければ感じられなかった感覚だったので、無邪気にそれに酔い、また、それへの接近を目指していた。

しかし、それを「小劇場ならではのライブ感」と置く評価軸は、文字通り、生命への危険を孕んでいたのではないか。そして、その危険の可能性をわかった上で、たかだか3,000円くらいのチケット代で提供したり、享受してきた。いや、料金の多寡ではない。が、いま、それを反省するべき時だと思う。

それを「感動」と呼び作家や演者を賞賛しながら、人ひとりの生活というコストを支払わせている事実は、「暗黙の了解」と呼ぶには、あまりに暴力的な上、なんの保証も補償もない世界だということを、みんな熟知していて、そこに与していた自分は主犯だったと思うのだ。

そのことへの反省を、恐れを、そこに与してなかった人にも伝わるように描きたいとは思うのだが、まだ冷静には書けずにいる。なので、少し、これからのことについて考えてみたい。

まず、「雇用」ないしは、「契約」を明文化しなければならない。そしてそれを実施していない集団、プロジェクトは実名で糾弾されることが当たり前にならないといけない。かくいう私も、今まで自分が中心になって作ってきた、他の出演者がいる作品の全て、それを作成しなかった。自分が一番多くコストを支払っているという、一方的な「フェアさ」を演出し、甘んじていたに過ぎなかったと反省している。

付け加えると、「毎日のように時間を指定されて稽古という名目で拘束されたら、それは明文化されてなくても雇用契約は成立する」という司法書士の友人のアドバイスがあった。なので、ハラスメントの危険性については、誰でも知っておこう。参考:パワハラ防止法とは何かを徹底解説

次に、生の舞台を見て「胸に迫りくる感覚」に訴えかけるような作品を評価しないことだと思うのだが、これは自分も全く言葉を獲得できていないので、指摘に止める。とりあえず自分はもう、その類に「感動」することはないだろう。

あと、「フェアさ」について、作家も演者もよく知る必要があると思う。舞台芸術の狭い世界では、作家と演者は常に不平等であることを、まず前提として広く共有しなければならない。少なくとも、そのことについて全く言及しない作家に価値はない、という常識が出来上がるまでは。そして「フェアさ」は、その不平等な権力関係を抜きにした場をいつでも設けることができるという開かれた姿勢と、双方の合意によってのみ担保されると、今は考える。

その意味において、全ての舞台関係者は、今まで「フェアさ」に関して消極的だったと言い得ると思うし、その誹りを私は受け入れなければならない。そして「フェアさ」を無視した創作活動は、「フェアさ」を無視する次世代を、簡単に生んでしまうだろう。火の手があがる時、それは常に対岸の出来事ではない。

さて、そろそろこの文章を終えよう。最後に付け加えたいのは、簡単な言葉であるが、非常に困難な作業です。「フェア」であることは「美しい」と言い得るような文化を私は担いたいです、以上。

2020年5月5日火曜日

自分を記述する試み(1

昨日、5/4は久々に持病の鬱がひどくて、一日伏せったままだった。低気圧が主な原因だったと思うのだけど、頓服で飲む薬もほとんど効かず、音楽を流しておくことすら苦痛という時間が続いて、ただ布団に横たわって過ごした。

私は鬱を患っている。通院は2012年からで、今の病院で二つ目、1日3回4種類の薬を服用している。鬱がひどい時というのは、自死を望むエネルギーさえなく、ただ布団で横になっていることしかできないのだったと、思い出させられた。私は鬱の時は過眠と過食があるので、昨日は今の生活リズムを崩さないためにもとりあえず起きていたのだが、昼までは倦怠感ぐらいで済んでいた感覚も、午後には逃れられない苦痛が絶えず体内に燻っている状態になった。

エネルギーがないということはそれだけで苦しいことだと思う。昨日に関しては苦しみに具体的なイメージはなく、身体が重く動かすだけで一苦労、頭の中が泥水のように鈍い、などの表現が今は浮かぶが、最中はただただ心を万力で締め付けられるような苦痛があるだけである。その苦しみを表現するには身も心も沈みきっているのだ。

今朝、起きたら鬱は去っていてホッとしたのだが、これを機にそれらを記述して、自分の症例を元に少しでも鬱について周囲に知って欲しいと思った。

2012年から1年ぐらいは、上述したような感覚が日常だった。本当に毎日、布団で横になっていることしかできなかった。親に収入があったから仕送りをもらって生活はできていたが、この先どうやって生きていったらいいかわからず、ただただツラく苦しかった。

2013年くらいから少しずつ回復していたが、一人の「人間」として生きていくには調子の好不調がありすぎて、社会とのギャップが大きすぎたし恐ろしすぎた。障害者雇用という制度も知らなかったし、知っていたとしてもあの時、自分を障害者だと認めることは、さらなる混乱と自己否定の深みにハマっていっていたと思う。この時期の自分は自分が回復してきている、などと思えなかった。「生きていけない」ことに変わりはなかったから。

2014年の始め、横浜赤レンガ倉庫で捩子ぴじんさんの『空気か屁』を観た。何もできないことの惨めさ、情けなさと共に、「価値づけ」から解放された世界が繰り広げられていた。それは、その時の自分をも解放してくれた。自分が今まで触れてきた「芸術」とは決定的に質が違っていた。だから、自分がいかに狭い「芸術」にしか触れてこなかったか、いかにその中で狭い価値基準に自分を縛り付けていたか、少し何か変わっていける兆しを作ってくれた。

2014年には9月にもう一つ。自分がリーダーを務めていたバンド、scscs(スクスクス)が新たなメンバーを迎え、再始動した。そして、千代田芸術祭というコンペティションに出した5分ほどの小作品で山川冬樹さんに賞を頂いた。客席から何度も観ていた山川さんに評価されたことは本当に嬉しかった。

そこで自分は、アーティストとして生計を立てられないかということを、模索し始めた。この模索を手伝ってくれた第二期scscscメンバーの秋本ふせん、守屋パヤ、両氏には今ではとても感謝している。しかし当時は彼らにはツラく当たってしまっていた。助成金やAIR事業への企画書が一向に通らず、公演をする度に赤字という状況が続き、自分はまた狭い基準で自分を縛り付けるようになっていた。そしてそれをメンバーたちにも強要していたように思う。

そのような状態では共同体はうまく維持できず、そして再度自分自身に絶望し始めていた私の自暴自棄な振る舞いもあり、scscsは2016年秋に再び私一人になった。その頃、私はデッサンモデルのバイトをしていたが、不安定な収入や将来のことを考えて、障害福祉の仕事を始めようと考えていた。それはまたいつか書けたらと思う。

こうして俯瞰してみると、自分はとかく自分を狭い基準、狭い視野に押し込み勝ちで、それが鬱と関係ないわけがない。そして、その狭い基準や視野は、優れた作品を発表する為には必要だと思っている自分が、いる。自覚がある。自分や他者に厳しく「なければならない」、そうしないと感動は起こせない、のか。もっと鷹揚な設計の中に、緩やかに存在したいと思い始めている。

2020年4月23日木曜日

"alive"と"survive"の間で

作品は見てないけど気になっているアーティストの一人、百瀬文さんのインタビューを読んだ。あと、哲学者ティモシー・モートンを紹介する記事を読んだ。

この投稿のタイトルはティモシー・モートンの記事から引用している。「活発に生きる」と「生き延びる」ことのジレンマということが記事の中では取り上げられていた。今、金武良仁の沖縄民謡を流しながらブログを書いている。

パラダイム・シフトが必要だとして、それに乗り切れない人や活動を淘汰していくような社会システムを僕は望まない。もちろん、自分は今までチケットを買ってもらって人を集め作品を発表するという作品発表の形式を取ってきたから、淘汰される側の当事者でもある。

「どうやったらコロナ以降の世界で生き延びられるか」ということは、多分、そんなに難しいことではない。僕なんかがここで特筆しなくても、億単位のリソースがそこに割かれるだろうし、あくまでまだ「答え」らしきものが留保されているにすぎないと思うのだ。

それより「どうやったらコロナ以降の世界で"他者"を生かせるか」を考えていくほうが、難しい。あまりにも難しくて、どこから手をつけたらいいかわからない。

でも、僕が信奉している「アート」は、「答え」を見つける為ではなく、「過程と実践」についての営為だと思っている。これは、アーティストとは共有できても、なかなかその外部の人とは接続しにくい考え方だと思う。

それは一つには、どれだけ売れたか×いくらで売れたか=アーティストの価値というようなアーティスト観が、この社会には満ちているからだと思う。それは近代資本主義発達以降の(今M・ウェーバー読んでいます)データを「客観的事実」とみなし評価するような人間観とイコールなので、"他者"に対し「成果」を要求するようになってしまっているのだろう。

往往にして自分自身にも、その要求の刃を向けてしまうはずで、だから、生きづらくなるからそんな考え方とは距離を取りましょうよ、というところにコロナ以前の自分はいた。

しかし、今はもうちょっと焦点が明瞭になってきたというか。もう生活の中で何を感じたかを、日々積み重ねるだけで、いいことにしませんか?と思う。

そして、その前提は少しでも発信して行きたい。自分にとって生きやすくなる社会は"他者"にとっても開かれている、と信じている。

2020年4月10日金曜日

私には一生を懸けてわかりたいことがある

2017年から障害福祉の仕事をしているが、今はカプカプという施設で働いている。非常に骨の太い活動をしている施設なので、興味のある方は一度訪問してみることをオススメします。私はそこでまだ2年の新米ではあるが、コミュニティの在り方や人間関係の多くを学ばせてもらってきた。

その詳細はここでは述べないが、この状況下でもひかりが丘の本店は開店している。とにかくそういう場所なのだ。もちろん、感染については細心の注意を払いながら。

しかし、2週間くらい前から私は通勤できずにいる。この状況下で発熱したことや病院で軽いコロナの可能性があると言われたことも多分に影響しているが、うまくは説明できない。もちろん、単純にコロナに感染して死にそうで働きたくないという気持ちがあるのは事実だが。

この2週間家に篭りおる。何をしているかと言えば、ずっと棚と白熊のバンドアレンジを録音したり編集したりしていた。朝も昼も夜も、動ける時間ずっとだ。パートナーと赤ちゃんは青森に疎開していったので、ちょうど自分だけの時間が久々に生まれたタイミングとなったこともある。が、なぜここまで盲信的なまでに自分が創作に集中しているのか、自分でもよくわからなかった。

今朝ようやく、WEB上に「積ん読」になっていた文章が読めるようになって、その一つが心に響いて何かは氷解した。その文章はこちら。
夜の果てへの旅だ。準備はいいか? 斎藤潤一郎『死都調布南米紀行』を読む

斎藤潤一郎さんという作家の新作を紹介する体のブログのようなのだが、おそらく書き手も射程距離をそこに絞っていないので、簡潔化させてもらうと、「芸術家は非常時に何も創れないかもしれないけど、それでもいい。オールOK。でも、創れたら、それは社会インフラの一部だから誰にとっても必要なものだよ」という、ロシアの大飢饉を目の当たりにして何も書かなかったチェーホフを引用しながら、芸術家に寄り添う視点で書かれたプロットであったと思う。

自分の、このバイトに行けなさみたいな感覚を肯定されたように思った。「つまり自分は本業であるところの創作にのみ全エネルギーを放出したいのだ」と今は解釈している。アウトプットの良し悪し、もしくは有無ではないのだ。ただエネルギーを放出したいと全身が願っている。現在、堰を切ったようにWEB上で友人たちが各々の活動を紹介し出していることへの違和感も、まるで「芸術は役に立ちます(だから私を救ってください)」と声高に述べているように感じてしまっているからだと思う。

ただ創れよ、というのが過言なら、ただ創ろうぜと思う。それは観客がいなくても創作は成立するという意味ではなく、私たち作家は「役に立つか/立たないか」なんぞ関係なく没頭してきたのではなかったか?と自分は信じているからだ。(だから一律にWEB上での発信を否定したいということでもない)

私はただ創りたいのだ。どこまでも深みに嵌りたい。そうやって理解できたことを少しだけ身体に蓄積していきたい。それはとても愚かしいことかもしれないが、私は受け入れてきた。これからもそうするだろう。バイトには行ける気持ちになれますように。

最後に宣伝ですが、友人でアメリカ文学研究・翻訳をされている坪野圭介さんが"Sound Sample Market vol.2"のレビューを書いてくださいました。
こちらも創造する行為そのものを肯定してくれるような温かみのある文章です。
よかったら、ぜひ。
期待と不安のあいだにあるリズム——“Sound Sample Market vol. 2”について


2020年2月6日木曜日

子供が生まれたことと自分のやりたいこと

2/3、午前10:48に子供がひっそりと世界に生まれ出てきた。生まれたての赤ちゃんというのは、泣いたり笑ったりモゾモゾと動いたり、ままならない存在である。ただ「存在」することが大事な仕事であり、周囲は慌てたり笑顔になったりする。

正直、自分は今生では子供を持てないだろうと長い間確信していたこともあり、赤ちゃんに対して自分がどのような感慨を抱くか、もっと言えば愛情を持てるかどうか不安があった。

その不安は初対面で吹き飛んだ。こんなに愛おしいものが、自分と地肉を分けて、こんなに愛おしいものが、必死に母体から離れて、存在できた、それは奇跡でしかなく、不覚にも涙目になっていた。

幸せになろう、と生まれて初めて思った。パートナーと子供と3人で、飛びきり幸せになってやろうと思った。物事に執着せずにいつでも捨て身になれる身軽さを、自身の根底を貫くポリシーとして35年間生きてきたが、身軽さ、他者へのヨスガ、執着、全て抱きかかえて生きていきたいと思った。

30代半ばの音楽家としては決して華々しいキャリアがあるわけでもなく、第一線を退けばすぐにでも忘れ去られるような存在でしかないが、私は何も諦めない。もっと何かできるはずだ、という自分の衝動に率直であり続けたいと思う。

「何か」はまだ遠くて、ギリギリ視認できるくらいですが、ようやく見えてきたところでもあります。これからも歩み続けますので、皆様のお力添え、どうぞよろしくお願い致します。

2020年1月16日木曜日

"Sound Sample Market vol.2"を終えて

去る1月12日に"Sound Sample Market vol.2"が無事に終わりました。たった2日間3公演という短い間でしたが私にとってとても大切な時間となりました。ご来場くださった皆さま、出演者、スタッフ、関係者各位のお陰です。どうもありがとうございました。

今回初めの試みとなったアフタートークは、当日制作と出演と接客とで非常にテンパりながらだったので、お聞き苦しい点も多々あったかと思うけど、やって良かったと心から思えた。ゲストを快く引き受けてくださった細田成嗣さんは、的確で重要な視座を観客にも出演者にも与えてくれたし、出演者同士のトークでは、ただ呼ぶ側/呼ばれる側としてだけでは達成できない交流を生む時間になった。3回目の正直とのアフタートークでは、だいぶ余裕のあるトークを披露しつつ(笑)、なぜ自分が今回の出演者に声をかけさせてもらったかなどの話を通して自分のリスペクトを伝えることができたように思う。

また、2日間3公演という音楽ライブとしてはレアな形式に、必然性と意義があることを確信できた。正直も山下哲史さんも3公演を通してアプローチがどんどん変化していき、嬉しいことに、最終回は3組で一つの時間を紡いでいるという感覚が自分にリラックスと集中を与え、ポテンシャルを強く引き出したように思う。昨年は3組でのグルーヴ感を創り出すことは叶わなかったが、今回は抜群に相性の良い3組となったと胸を張って言える。

手応えに比して、SNS上などの感想がほとんど見られないのは(個人的な連絡で感想を丁寧に伝えてくださった方々、どうもありがとうございました)、偏に作品を表現し得るような言葉がまだまだ足りていないからだと思う。自分がまず自分の作品について雄弁で有りたいと思う。少なくとも、自分のイベントに来てくださった方々は知的な面でも好奇心の強い方だと思うので、自分が先ず言葉を探し当てて行けば、どういう言葉で表現するのが適切なのかみんな各々探し出して行くように思う。

「批評が機能していない」という言葉は、あらゆるアートのジャンルにおいて散見されるように思うけど、何かしら新しいことに踏み込むならば、率先してそこに必要な言葉を見つけていきたい。と同時に、その作業にも皆さんの助力を必要としています。よろしくお願い致します。

2020年1月4日土曜日

アーティストの30代

アーティストにとって30代というのが、実力・感性・体力などの面で、最も充実した時期なのではないかと思う。40代以降というのは勿論未経験だが、自分を振り返っても、同年代の友人たちを見ていてもそう感じる。

20代の頃は、まず自分のことがよくわからなかった。当然、どこに向かうべきかもわからなかったし、力無き身でガムシャラにしがみつくので精一杯だった。

30歳で鬱が深刻化して何もできなくなった頃、自分は人生を失敗したのだと勘違いした。もうどこにも進めないと絶望し何も手につかなかった。こんな日が来ること、自分のやりたいことをハッキリと理解し、アプローチの手段、ネットワーク、積み重ねて行けば状況が変化していくことなど、全く想像できなかった。

だから後進に何か渡せるものがあるとしたら、とにかく状況も可能性も変化し続けるから、諦めなくて良いということだけは断言できる。

自分はまだ何も為してはいない。それが達成されずに追い求め続けられることは恵まれているということなのかもしれない。

自分が障害福祉の仕事をしながらアーティストとしての活動も並行していること、友人たち以外に名前が知られるような立場にはいないこと、未だ20人程度のキャパで作品を発表し続けていることは、社会的な見地からは一見不遇に思えるかもしれないが、面白い人たちと知り合えて一緒に仕事をしたり交流したりできる今の状況は、誰も安直に結論づけてはいけないと思う。

さて、昨年末から「落々」のリハを再開している。相変わらずの部分と、反復する中で見出していく新たな世界との出会いがある作品です。まだどういう作品なのかは言語化できませんが、私がアーティストと自称できる根拠は、この飽く無き探究心、好奇心、そして自身の衝動に率直であり続けること、それは13歳の頃から変わっていない、ということです。

Sound Sample Market vol.2は今月の11,12日です。よろしくお願いします。
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