2018年11月20日火曜日

「コンテンポラリー」な「作品」を創ること

私は、バンド時代からずっと「コンテンポラリー」な表現に関わって来ていると思っていて、つまりは何かしらの同時代性や先鋭性というものを裏に標榜して創作してきた。

それは、他ジャンルも含めた同時代の作家たちから影響を受けたり、自分の中を掘り進める道を探り当てたりする作業で成り立っているように思う。

しかし、どんな形であれ自分は舞台上に「作品」を乗せてきたし、それは評価や実績などの対外的な理由以外に、まず自分自身にとってたくさんのものを享受させてくれる行為であったことは、今一度確認したい。

しかし、それでは自己満足と言われても致し方ない。自己満足が、大切ではないかという思いもあるが、それはここでは置いておこう。

今日、JR横浜線に乗っていると、障害があると思われる人が乗って来て、ひたすら独り言を喋っていた。その空気。自分は障害者には慣れていると思っていたが、やはり彼の行動はその場にそぐわなかった。なぜか肩身が狭い思いをした。

と、同時に、自分がやりたいこととはこういうことではないかと思った。暗黙の規範に入る亀裂に気づかせる事。もしくは規範自体が脆く危ういということに気づかせること。

それはまるで障害者の行動を街中で模倣すれば可能であるかのようにも思ったが、しかし。「愚者」を模倣することは「愚者」を真に「愚者」として扱うことに他ならないのではないか、或は、障害者は自身の生まれ持った特性が規範に当てはまらないのならば、規範の中にいるかのように振る舞える自分は内側からアプローチする必要があり、それは彼らとは別の道を取るべきではないのか。などなど。決してそれがいい手段には思えない。

ここで文頭に戻る。昨今、「コンテンポラリー」な「作品」というものが疑問視されているように思う。自分は現代美術は齧っている程度なので、ダンスについてしかわからないが、現にコンテンポラリーダンスは劇場用コンテンツを商品として如何に洗練させるかという競争になってしまったように思う。劇場や共同体の規範を問い直すより、その規範の中でいかに「価値」のあること(異文化交流、高度な技術の駆使、適切な謎かけと抽象的な回答、など)をやって助成金をいかに獲得するかを最優先しているように思えてしまうのだ。

そこに規範の問い直しはない。規範は暗黙のまま承認されている。これは好機でもある。そう思い、『ヒト、ヒト、モノ』を山下と創作し、せんだい卸町アートマルシェで上演してきた。劇場という空間のルールを「平和的」に脱臼させることを試みる「作品」だった。

無論、劇場、疑似劇場的な場以外において何かを仕掛けて行く方が今日、最も「コンテンポラリー」なのではないか、という問いは有効だと思う。劇場に来ている人間が限定され過ぎているし、仮にそこで規範の亀裂を見せたところで、「アート」という枠組みに回収されて現行のルールには何の影響も及ぼさない。

しかし、自分は敢えて閉鎖された空間の1時間程度のコミュニケーションに賭けてみたいと思っている。「フラット」とされる空間だからこそ起こりうる小さな爆発が誘爆し、同時代に伝播していく。そんな夢を諦められないでいる。まだ「作品」を創り続けたい理由は、それだけだ。