2020年5月5日火曜日

自分を記述する試み(1

昨日、5/4は久々に持病の鬱がひどくて、一日伏せったままだった。低気圧が主な原因だったと思うのだけど、頓服で飲む薬もほとんど効かず、音楽を流しておくことすら苦痛という時間が続いて、ただ布団に横たわって過ごした。

私は鬱を患っている。通院は2012年からで、今の病院で二つ目、1日3回4種類の薬を服用している。鬱がひどい時というのは、自死を望むエネルギーさえなく、ただ布団で横になっていることしかできないのだったと、思い出させられた。私は鬱の時は過眠と過食があるので、昨日は今の生活リズムを崩さないためにもとりあえず起きていたのだが、昼までは倦怠感ぐらいで済んでいた感覚も、午後には逃れられない苦痛が絶えず体内に燻っている状態になった。

エネルギーがないということはそれだけで苦しいことだと思う。昨日に関しては苦しみに具体的なイメージはなく、身体が重く動かすだけで一苦労、頭の中が泥水のように鈍い、などの表現が今は浮かぶが、最中はただただ心を万力で締め付けられるような苦痛があるだけである。その苦しみを表現するには身も心も沈みきっているのだ。

今朝、起きたら鬱は去っていてホッとしたのだが、これを機にそれらを記述して、自分の症例を元に少しでも鬱について周囲に知って欲しいと思った。

2012年から1年ぐらいは、上述したような感覚が日常だった。本当に毎日、布団で横になっていることしかできなかった。親に収入があったから仕送りをもらって生活はできていたが、この先どうやって生きていったらいいかわからず、ただただツラく苦しかった。

2013年くらいから少しずつ回復していたが、一人の「人間」として生きていくには調子の好不調がありすぎて、社会とのギャップが大きすぎたし恐ろしすぎた。障害者雇用という制度も知らなかったし、知っていたとしてもあの時、自分を障害者だと認めることは、さらなる混乱と自己否定の深みにハマっていっていたと思う。この時期の自分は自分が回復してきている、などと思えなかった。「生きていけない」ことに変わりはなかったから。

2014年の始め、横浜赤レンガ倉庫で捩子ぴじんさんの『空気か屁』を観た。何もできないことの惨めさ、情けなさと共に、「価値づけ」から解放された世界が繰り広げられていた。それは、その時の自分をも解放してくれた。自分が今まで触れてきた「芸術」とは決定的に質が違っていた。だから、自分がいかに狭い「芸術」にしか触れてこなかったか、いかにその中で狭い価値基準に自分を縛り付けていたか、少し何か変わっていける兆しを作ってくれた。

2014年には9月にもう一つ。自分がリーダーを務めていたバンド、scscs(スクスクス)が新たなメンバーを迎え、再始動した。そして、千代田芸術祭というコンペティションに出した5分ほどの小作品で山川冬樹さんに賞を頂いた。客席から何度も観ていた山川さんに評価されたことは本当に嬉しかった。

そこで自分は、アーティストとして生計を立てられないかということを、模索し始めた。この模索を手伝ってくれた第二期scscscメンバーの秋本ふせん、守屋パヤ、両氏には今ではとても感謝している。しかし当時は彼らにはツラく当たってしまっていた。助成金やAIR事業への企画書が一向に通らず、公演をする度に赤字という状況が続き、自分はまた狭い基準で自分を縛り付けるようになっていた。そしてそれをメンバーたちにも強要していたように思う。

そのような状態では共同体はうまく維持できず、そして再度自分自身に絶望し始めていた私の自暴自棄な振る舞いもあり、scscsは2016年秋に再び私一人になった。その頃、私はデッサンモデルのバイトをしていたが、不安定な収入や将来のことを考えて、障害福祉の仕事を始めようと考えていた。それはまたいつか書けたらと思う。

こうして俯瞰してみると、自分はとかく自分を狭い基準、狭い視野に押し込み勝ちで、それが鬱と関係ないわけがない。そして、その狭い基準や視野は、優れた作品を発表する為には必要だと思っている自分が、いる。自覚がある。自分や他者に厳しく「なければならない」、そうしないと感動は起こせない、のか。もっと鷹揚な設計の中に、緩やかに存在したいと思い始めている。