2022年5月26日木曜日

自己表現への反発、行き着いた果てに呼吸(1

昨日今日と朝5時から30分、呼吸音の即興しているのだけれど、家族はまだ寝てますし、マイク、ミキサーからヘッドフォンしてる。というのも、6月4日土曜日の19:30から出演します、渋谷のValleyって場所でライブのお誘いを受けたのだが、ヘッドフォンしてサイレント(!)ライブをするらしいのですよ。予約はこちらから。それの予行演習ということもあってヘッドフォンして即興しているのだが、まぁ集中しますわな、ほとんど瞑想。とても気持ち良い、深い状態に行ってしまう。

といって、楽しいばかりでもなくて、反省や気づきについて述べますね。呼吸をコントロールしようとすればするほど、それは身体の基本的な機能でもあるわけで、コントロールできない。というか、コントロールされた音に反映している自意識に耐えられないので、コントロールできるかできないかの辺りを手探りしながら、きりきりと即興。時間を構成するというか、紡ぐ感じ。紡ごうとしても酸素足りなくなって、音の構成とは無関係な呼吸をして途切らせてしまう。

なぜ自分をコントロールしなければいけないのか、逆にわからなくなってくる。

「自分」を表現、Expressionという概念への反発、それは近代的芸術観を超克、つながるだろ、とか考え。ジョン・ケージのチャンス・オペレーション、賽の目振ったり、占いで選ぶ音は、自分には先達ではあるのだが、アンチテーゼ以上のものを見出せなくて、現代音楽史には詳しくないけど、自分は物音、それも音を立てない物質の質感などに音を見出していくライブ・インスタレーションをやっていた。それももちろん、現代音楽史的には既知ですが、ということで、その次は空き缶の上に不安定に立ちながら小物を落とすパフォーマンスしたら、身体に注目されてしまったこともあり、結局行き着いた果てが呼吸音。

呼吸音には「うまへた」が自分の中にあって、「これはうるさい」「これはよき」などの判定している、自意識の問題だと思っているが、「聴こえる音に集中する」または「呼吸に集中する」などはマインドフルネス瞑想、観瞑想、物事をありのままに観察する瞑想法として既にあるらしい。

だから私は、これは上演を前提にしてやっているのですよ、と声高に言うのだが、上演を前提にするとはどういうことか。そして観瞑想が目指す無我とはどう異なるのか。

呼吸音で即興する時、呼吸している物質的な自分と、それの手綱を持っている、ちょっと引いた自分がいる。物質的な自分は楽器で、手綱を持ってる方が演奏している自分、というようなイメージ。楽器としての自分に不安定な音の出し方を強いることで、音に自分を映しこまないようにしている。逆に不安定な音でも自分が映し込まれていると、演奏時は自分が拡張される感覚があって大変気持ちよいのだが、あとから録音を聴くと「うるさいな」と思ってしまう。楽器である自分の快楽に任せずに、演奏している自分が即時的に良し悪しを判断しながら一瞬一瞬を乗り継ぐ感覚、時間を紡いでいく感覚があると、あとから録音聴いた時に「悪くないね」となる。

演奏している自分がいるということは、やはり無我とは程遠いのですね、というのは簡単ですが、演奏している自分が目指しているところというのが、物質的な快楽とは異なる場所を目指しているので、またややこしい。今日はここまでにします。

2022年5月21日土曜日

「表現」の垂直性は感性の鋒に宿る

5月初旬、旧友の原島大輔氏と二人で酒を酌み交わしながら、とりとめもなく雑談していた折に、原島が「垂直性」という語を使い始めていた。

私はそれを絶対的な基準への指向性、ベクトルというような大意で解し、原島と、実世界や芸術における様々な様相を挙げながら、その有無について意見を交わした。

私は芸術には垂直性がない(絶対的な基準は存在しない)と信じてここまでアーティストとしてやってきたが、原島は垂直性の存在を認めない世界に未来はないというようなことを述べていたように思う。

それからずっと「垂直」とは何であるかについて、頭の片隅に引っかかっていたのだが、さっき大崎清夏さんの『東京』という詩を読んでいて、出てきた一文に強く感銘を受けた。

詳述はしないけど、大崎さんの『東京』という詩は、日常の緩い、または冷たい空気感とそれへの距離のある眼差しによって綴られる文の中に、一閃する一文が紛れていて不意に心を打たれるという構造になっていて、世界にまだこんな風に捉えられる瞬間があったかというような鋭い目覚めが私の中に訪れた。

抽象的な表現、音楽やダンス、抽象画、詩には、その世界観が好きかどうか、響くか否かで反応が二分されるという側面は否定できない(物語的・論理的な整合性が必ずしも作品の強度を担保しない)と思うが、鋭い洞察に裏付けられた表現は、飄々とその二分を超越するような「垂直」を含んではいないか。

つまり、その作品や表現における世界観への共感か反感かではなく、ひとつ上のフェイズを貫通してしまうような一瞬が、ありえるのだ。この世界の不可思議さ(あるいは別の語を当てても良いのかもしれないが)が新鮮に蘇るような、一瞬が。

抽象的な表現ほど(評価しやすい、されやすい)技術を磨くことに執心する傾向があるように思うが、垂直性が宿るのは、作家の鋭く研がれた感性の鋒にこそ、と思ったのだ。

2022年5月13日金曜日

呼吸音での即興に、日々取り組む/考える

最近、呼吸音での「即興」というものが俄然面白くなってしまって、それも熱狂や混沌があるような種類のそれではなくて、いかに平穏に呼吸してる音だけで時間を紡いでいけるか、というようなことに日々取り組んでいる。

今日、リハーサルしてて自分が理想としてるような即興に一歩近づけたという手応えがあった。なんの制約も計算もなく、丁寧に時間のベールを重ねていった先に、結果も盛り上がりもない、冒頭を反復するなどの形式もない、取り留めのない38分間の呼吸音の演奏は、なによりまず自分が心地よいものであった。

作曲作品"kq"では、自分の呼吸を絞っていき、自信を追い込むことによってヤマ場を作るという構造に頼っていたので、自分自身が演奏して心地よくなれるというのは、それだけで収穫祭したいくらいだよ。

呼吸と音から連なる思考体系として、形式が決まっているある種の瞑想がある。禅では「数息観」というものがあり、噛み砕けば、呼気に合わせて数を数えていくという瞑想法なのだが、精神医学では脳波の測定などが行われ、副交感神経の活発化などの効果が実証されているらしい。

しかし、私が上演する呼吸音による音楽"kq"は、プレビューの時点では、私自身がまず自分の呼吸を追い込んでいく、絞っていくパフォーマンスであったことも大きく影響して、頂いた感想は「ハードコア」「自分も苦しくなった」「原初的なライブのようだった」というような激しい感想が多く見られた。

そういういきさつもあり、いまは呼吸音しばりで即興をやっている。

どこを目指しているのか、まだ自分でもわからないけれど、平坦な呼吸の持続によってもたらされる静寂、のようなもの、には触れてみたいと思っている。それは"kq"を上演し続けているだけでは至らないだろうという直感のもと、いまは即興をしています。そしてまた"kq"にも戻りたいと思う。

5/14(土)、水道橋Ftarriというユニークなお店でライブをします。20時開演です。

あと、"kq"のCDがBASEで買えます。税込1,000円+送料200円です。
https://scscs.base.shop/

私は、水平方向には小さな革命を繰り返し、垂直方向には鋭利に切り込んでいきたいと思っています。今後ともよろ。