2023年9月12日火曜日

自分を記述する試み(3

1995年にオウム真理教による地下鉄テロという特異点があっても、尚、90年代に10代を過ごした私が感じていた空気は「あらゆる思想は平等に扱うべき(絶対的な善悪などないのだから)」という価値相対主義的風潮だった。これの象徴として援助交際という言葉が流行語大賞に入賞したのが96年(Wikipedia調べ)で、当時小学生だった私にも「ヤバイこと」とわかっても、「誰にも迷惑かけてない(だからOK)」という(誰の?)主張に対して説得力のある抗弁できる大人も媒体もなかったように思う。

そういう空気の中で、中学受験を終えてボンボン私立に入学した直後から私は「不登校」「ひきこもり」になるわけなんだけど、自分にとって家族や家庭が安心できる存在じゃなかった、外部に助けを求める知識や技術や経験が全くなかったという環境下で、諸々のストレスから身を守る為、と今は説明できるけど、当時はなにがなにやら。

毎朝毎晩、自分のカラダが自分の意思では動かせなくなった、という問題に直面して、「脚がなくなった」「転んだ」などと自分だけが読むノートには記述していたが、それを周囲に説明できるわけなく、周囲も納得するわけなく、ただただ孤立を深めていた。

この時、出会ったのが「ロック」で、ジョジョの奇妙な冒険が好きだからという動機で、セックス・ピストルズやレッドホットチリペッパーズのCDを地元の図書館で借りてきて、衝動をそのまま音楽として表現している!ということが衝撃的であり、当時の自分にとっては救いだった。同時進行で90年代のアメリカ、イギリス映画や古い邦画を毎晩深夜にひとりで見続けている。『ナチュラル・ボーン・キラーズ』や『トレインスポッティング』、『日本のいちばん長い日』が特にお気に入りでした。

そこから少し時間を飛ばしまして、2001年に古谷実『ヒミズ』に出会う。『ヒミズ』には冒頭に述べたような、価値相対主義下での自己の非力さ、特別じゃなさが、生活全般に影を落としているような世相が背景に透かされていた。共感、心酔、貪るように読んだ。だからこそ、ヒロインの「弱っている人は周りに助けを求めないとダメなんだよ!」(もう手元にないので大意です...)という主人公への激励は、私にとって天啓のようだった。時代の暗雲を切り裂いていた。

また恥ずかしながらですが、高校時代は小林よしのりにも傾倒していた。価値相対的なものに対してナショナリズムの焼き直しを声高に主張する『ゴーマニズム宣言』は胸に響いた。補足すると、代ゼミで出会った講師や大学時代の吉田寮まわりでの生活のおかげで、ナショナリズムには免疫つきましたが。

私は今年39歳、まだまだ己が非力を日々噛みしめていますが、「論破」とか「ネトウヨ言説」とか「差別主義」に惹かれる人が存在するのは、どこか遠くで自分とつながっているという感覚がある。それらへの(当然の)見下しなんだけど、自らの非力、特別じゃない存在、という不安定さに耐えられないのだな、と思う。まるで、どこかに「特別な存在たち」がいて人生の美酒を堪能しているかのような錯覚に煽られて。私だってそうだったよ、と。INU『メシ喰うな!』が聞こえる。

もし、自分は特別じゃない、ということを幸いにも自覚できて処方箋が欲しい人がいたら、私は自分が好きな映画や音楽、文学、漫画をお勧めする。(舞台芸術はチケ代が高いのでお勧めしにくいが...)私が思うに「アート」は、そこにある存在を、あるがままに受け止める、その技術や直感、知見の集積のようなものであって、つまりは自分の特別じゃなさを受けとめる練習であり、あるいは単純にそれを保留して別の時間を味わう快楽なのだと思う。間違っても、「自分は特別だ」という欺瞞を主張する方便ではないのです。