2019年8月6日火曜日

あいちトリエンナーレのこと

まだうまく言葉にできないことですが、言葉にしないと苦しいので、言葉にしてみます。

事実関係はこちらによく整理されているので、もしまだよくわからないよ、もしくは、断片的にしか知らないという方がいたら、目を通してみてください。
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐって起きたこと――事実関係と論点の整理

この一件は、文化活動に対するテロによる脅迫の問題や、行政による検閲の問題として語られているように思います。また、憲法で保障される「表現の自由」の解釈の問題にもなっています。

あいちトリエンナーレ参加アーティストからの連名でのステートメントというのもあります。
あいちトリエンナーレ2019、国内外の参加アーティスト72組が声明を発表。「芸術祭の回復と継続、自由闊達な議論の場を」

細々ながらもアーティストとして活動をしている自分は、上記のステートメントに賛同します。
にも関わらず、なぜ、私はここまで苦しいのでしょうか。

これを読んでくださってる方は、私の政治的な立ち位置を普段から目にしてる方だと思いますが、今一度、少し自分の立ち位置について説明します。

ヘイトスピーチのカウンターに参加こそしたことはなかったものの、心情的には全く同意していましたし、価値観の多様性を否定する言論や表現にのみ、表現の自由はない、という観点からのブログも数年前に投稿しました。

また、2015年の安保法制あたりから、アンチファシズム、アンチ安倍政権を標榜して、ツイッター上での意見表明、リツートを繰り返して、フォロワーを減らしても、それは仕方のないことと割り切っていました。

ネット上以外では、2015年以降、デモには行ける限り行き(実質10回くらいだろうか)、それは意思表明である以上に、自分と同じ気持ちのたくさんの人たちと行動を共にして、自分の元気を取り戻す作業でした。

そのような小規模ながら、地道ながら、着実な作業だと信じていたものが、脅かされているように感じます。
自分の「表現したい」という根源的なエネルギーに暗い影が落ちているからです。

暗い影は、決してアタマのおかしな少数の人によるものではなく、この国のトップや中心に近しいところにいる人たちが率先して起こしている言動によるものです。

それが何を意味するのか。

「暗い影たち」の、「表現の自由への制限」に対しての誤った解釈を、論理的に正せば、私はまた、「表現したい」というエネルギーに身を委ねられるでしょうか。

私は、そうは思えなくて、苦しんでいます。

私がアーティストであることは、先天的な属性ではないので、ヘイトスピーチなどの暴力に晒されている当事者とは、本質的に異なるということは重々承知しています。

が、私は、いま、自分が「抑圧される側」だと思っています。それは想像していた以上に苦しいです。「表現したい」という自分の生活の根底に横たわる希望が否定されている。

どうしたらこの否定する力に抗えるのか、正直、わかりません。