2022年6月25日土曜日

落伍上等、ニンゲン下等

この一週間、"kq"譜面出版の為の序文を書き続けていたのだけど、今日はまるで頭の中で糸が何本か途切れてしまったように思考が動かない。昨日まで登り続けていた山から不意に醒めたように精神の灯火は消えてしまった。横になって深呼吸してみる。身体が重いときは手足の指先を意識して動かすと良いらしい。パートナーが教えてくれた。あと、耳のマッサージ。優しくくしゃくしゃと揉む。

家の外に出て玄関で喫煙するが習慣なのだけど、今日は暑すぎて息抜きにならない。物価のこと、選挙のこと、政治の行末。環境問題。戦争。思うだけで気が重くなる。

毎日毎日、研鑽し禁欲し創造し続けるのが、世間一般の「アーティスト」のイメージだとしたら、私は至って怠惰で落伍した者である。落伍者で結構だ、とも思っている。それこそ自分の領分だとも。しかし、その社会から抜け落ちた存在であることに甘んじてしまうこともままあるので、子供の為にも、この社会と世界を少しでも良くしたいと心がける。

私は「アーティスト」としての「務め」を果たす代わりに、「自分を引き受ける」ということを日々やっている。情緒不安定な自分を引き受けて、生活している。パートナーと、子供と、家族に助けられながら。それでも孤独を抱えながら。

なぜ社会は安定して勤労できるものしか認めないのか。なぜ世間は自立してるものしか認めないのか。寄りかかり合って、助け合って、それでも不安定に転がり落ちるのが「ニンゲン」ではないのか。

また気が滅入ってきたし、結論めいたことを述べたいわけではないので終わります。

詩人は呪われてはいるが盲目ではない、は誰の言葉だったか。

2022年6月18日土曜日

プレイリスト流すようにして"kq"を流してよ

音、そのものを聴こうとする時間を継続すると、何かしらの瞑想のように心が洗われるような、穏やかさ、そのような小さな火が熾るので、ジョン・ケージのように作曲者自身が音を指示しないということは、その目的に則した率直な手法だったと思う、かつては。

いまの世間的には、音、というより音楽は「聴く」より「流す」ものになっていて、場所や人の「モード」を象徴する、それはそれとして私も受け入れているし取り入れているのですが、どうしても時間の持続、誰かのプレイリストではなく、アルバム単位で自分との時間を共有して欲しくて、最新作の"kq"は敢えてCDという形式を採ったのでした。

多様な人が実践可能になるように、呼吸を素材にして音楽をつくる、ということを標榜しているけれど、音そのものを聴くという行為は、みんながみんなするものではない。だけど、自分が音楽=時空間を構成しているという自覚と共に音を出すと、音に対して鋭敏にならざるを得ないし、聴かせる為に音を出すのではなく、自分の出す音と向き合う時間になる、やはり実演される為の音楽なのだと思いますよ、"kq"は。

と思うけど、CDのように「聴く」もしくは「流す」行為でも味わえるよ、もちろん、そういう側面があるからCDにしたわけで、そう"kq"は流しても、聴かなくても、心地よく無意味に時間が流れていく感じがする。思考することを邪魔しない音楽なんだ、これは。えへん。

追伸、CDはBASEで通販してますよー

2022年6月11日土曜日

見知らぬ土地でだらだらと地図をつくる

最近思い立って、ブログを毎週更新しようと心がけているものの、今週は持病のウツが重くてほとんど横になっていたので、創作に向き合う時間をほとんど持てなかった。

ポップスを作曲するという趣味があって、全く発表する気なんかないし、傾向と対策で作った曲が仮に売れても全然喜ばない、私はやはり自分でもよくわからない土地に足を踏み入れ、自分の足で地図を作り、それを他者に差し出してみたいと思っていることに気づく。趣味は趣味として完結しているから心地良い。

知らない土地で自分の足で地図を作る、というと直感的という印象を持たれるかもしれないが、往々にして作家が通るような、歴史的な知識や経験の積み重ねを援用したり、発展させたりなどによって判断して作成している。知らない駅で降りて、街歩きすると同時に街づくりしているような感覚。「勘」とか「才」と呼ばれるものは、実は経験と知識に裏打ちされている。だから、たくさん作る、作っている(と同時に都度都度振り返りフィードバックを蓄積する)というのは、私の中で他の作品を鑑賞する時に信頼できるかどうかの一つの指標である。

子供が産まれたのとコロナとで、めっきり他人の作品に触れる機会が減ってしまい、特に、共感不能だが圧倒されるような、「他者」の作品にはなかなか出会えなくなってしまった。どうしても、知り合いだからとか、話題になっているからとか、妥当性が自分の行動基準に入ってしまう。知り合いの優れた作家の作品に触れることも大切な時間と労力だが、30代後半という年齢もあってか、観に行くものの打率が良過ぎる。ヒット、ヒット、二塁打、みたいな。ホームランか大振りの三振かみたいな作品に触れたいな。なんで喩えが野球なんだろ。

知らない作家が「助成金とってる演出家」という括りで「性加害」について勇気ある告発をしているのを、知り合いが炎上商法と断じてて、それは危険だろと思った。知り合いの意図は本人に詳しく聞かないことにはわかりかねるが、「舞台芸術」には多様な小島が無数にあって、全く聞いたことのない名前だけど助成金取ってる作家はいくらでもいる。そして、演者は「部分」「観られる」側であり、「全体」を「観る」演出家、振付家側とは、絶対的な権力勾配は常にあるので、集団クリエーションの場は往々にしてハラスメントが起こる、その危険性が常に内包されていると思ってるから、全く賛同できないよ。その危険性を回避しようと細心の注意で努めてないと、ハラスメントはすぐに起こるし、残念ながらそこに意識的な作家は、私の知ってる限りでも決して多くはない。

今週は家族に救われた。自分が寝込んでいる間、パートナーがワンオペで子供の面倒をずっと見てくれてたし、子供にも心配かけてしまった。私の調子が上向いたら、子供はとても元気よくおはよー!と言ってくれた。家族に助けられて私はなんとか生きている。生きていこうと思った。

2022年6月3日金曜日

自己表現への反発、行き着いた果てに呼吸(2

呼吸音での即興、日々精進、邁進、でも気づいてしまった。「自己表現」への反発は、とどのつまり、自意識の拡張、主張、膨張、そのものを「醜い」と思っているということで、自意識のない(はあり得ないけど、なるべく薄い)状態を「美しい」と思っている。だから、自分以外の「物」にパフォーマンスさせたり、自分が「薄く」なるような、不安定な足場に自分を固定して見せたりしてきたのだと思う。もちろん、覆われているだけで、その根底には自意識の過剰さがある、自意識が薄い状態、なんて、それはポーズ、虚構です。だって人前に差し出したいとは思って続けているわけですからね。

かつて気心の知れた友人と自意識について話していたとき、「障害が重い人は自意識がほとんど感じられなくて美しい」というようなことを友人が発言したが、いまの私は重い障害のある知人も、感情も意思もあるし、場合によってはふざけたりすることを知っているから、かつての友人の意見に間違ってるよと伝えたい。

大学に通って良かったと思っているのは、付属の図書館で三浦雅士の本を漁っていたときに、『メランコリーの水脈』という文芸批評の本に出会えたことだ。記憶は不確かだが、過剰な自意識が延々と自己言及し続けてしまうことを、合わせ鏡に喩えて書いてあったように思う。自意識の過剰さという、呪われたように付き纏われたトピックについて客観的に眺められたのは、三浦氏の冷徹かつ自己開示的な批評、論考のおかげであり貴重な体験だった。

自意識の過剰さを隠匿する為に、「自己表現」を回避して「自分」を極力薄くする状況を作ったり身体を追い込んでいく、という自分の思考パターンが読めてしまった。ので、次に進む。進もう。

ということで、呼吸音、それは「自己表現」に陥る危険と対峙する、せざるを得ないのですよ、たかだか呼吸とはいえ。というか、呼吸という単純かつ脆弱な素材であることで、より自己と向き合うことになる。これ(弱)でいいのだろうか、という不安と共に糸を手繰り続ける時間、不安に飲み込まれると、途端、また自分を追い込む芸をやってしまうのです。

最近、ようやく仄明るく見えてきた場所には、ダイナミズムの波を最低限見出し掬いとることで見えてくる道があったということです。いままで音のダイナミズム(強弱、長短、休符など)に頼ることは自己表現に属するものであり、禁忌のように思っていたのだけど、最低限を見極め掬いとることは、自分というより時空間の要求に応えている感覚。でも、その「最低限」は文化的・制度的に形作られていると思うので、やはりまだ脇が甘いと反省することしきり。次回はそろそろ「主観」について言及したいと思ってます。このシリーズの第一回はこちら

明日、6/4は渋谷Valleyにてライブ。ヘッドホン持参でサイレントだってよ。出番は19:30〜、詳細はこちら