2020年12月28日月曜日

二◯二◯年の暮れ、育児に没入し「正義」を想う

 もし眼前に、兵隊が大挙して押し寄せ、子供や老人を嬲り殺す光景があったら、私は生涯忘れないし、それについて他者に語ろうとすることだろう。搾取やパワハラ体質の「アート」と、それを擁護する者も、消費する者も、加担する者も、根っこで同じことなのではないか。人間の業について何か述べたいなら、それに相応しい状況を自分で設定すればいいだけのことで、「パフォーマンス・アート」はそれに適しているのだから、搾取もパワハラも剽窃も、好きなだけ行えば良い、と半ば諦める。そして思考を終わらせて、ちょっと一息。

 インターネットは自分の活動に馴染まないし、というのは、自分が作品を発表してきた場には大小差があれど、立ち会う人間に共犯になってもらっていたのですから。瞬間視聴率を、今度は目指さなくてはいけないなんて、莫迦げたことだよ、過去の自分と、ひいては歴史への裏切りだよ。

 とは言うものの、想うことはある。「正義」は実践の中に於いてしか存在しないと確信してはいるのだが、その実践については問題だ。

 育児がこの上なく、そうなのではないか、そうでないはずがない、と仮定してみるものの、育児は他者に開かれているのか、どうかな、乳児は、他者か、パートナーは他者だな。その意味では、自分史上最も自閉してない世界にいると言える。他者に晒されない正義の実践は、成果主義的にはNGでも、自分にとって意味があると思える限りOK、なぜなら他者への強い動機を産むから。と言う志向でここまで自閉と開示を繰り返してきたけど、それでは追いつかないくらいには、育児に勤しんでいます。

 佐々木中さんの講義録を読んでいる。

 それは、本当に素晴らしい仕事なので、私が何かしらその領域に追いつける可能性が残されてるとしたら、感性の実践についてだけだ。そこについて彼は、一歩譲ってくれてるから、私は、その吊り橋を渡れるかと自問してみる。

 今は育児で疲れています、と答えた。フェイスブックの自動翻訳のような文体が自分の中で興る。コロナ流行の歳が暮れる。そう、現在は次を待つ時間だ。

2020年12月4日金曜日

Yo La Tengoを聴いています、音楽と自由について語ります

今、Yo La Tengoを聴きながら、文章を綴っている。どうしてこんなにアメリカのロック、特にパンク・ムーブメントの再来と言われた90年代のロックが好きなのか、自分でもよくはわからない。多分、そこには日本の音楽にはない鷹揚さと肯定感が溢れている気がする。もちろん、音楽家を名乗ってますし、今は様々なジャンル、時代の音楽を聴きますが、自分の心に響く音楽には通底している色があると思う。今日はそんなお話をば。

13歳で、お受験したボンボン中学に入学早々通えなくなった私は、地元の図書館で借りたセックス・ピストルズとレッドホットチリペッパーズのCDに、字義通り心踊った。自身の感情を自由に表現する人たち。怒りと音を直結させる人たち。何かを強制されたりしない。歌詞がわからなくても、自由になろうぜ、と言われた気がした。世界が啓けた。「この人、歌下手じゃない?」と姉にバカにされても、気に留めなかった。

そんな原初体験から始まる私的音楽史は、高度な計算や技術より、率直に響く音に魅せられてきた。(scscsのバンド時代をご存知の方には信じがたいかもですけど)

しかし、率直に「響く」ってなんだ?自身で作曲を始めてから、すぐにその問題にぶつかる。今持っているボキャブラリーで表現するなら、「自分が出したい音が明確にイメージできている」状態と「周囲の状況を受け入れて、自分の音が周囲に溶け込んでいく」状態とが、相互に作用しながら同時進行している瞬間に、率直に「響く」音が奏でられると思う。

なぜこんな回りくどい言い方で精確さを求めるかというと、「ロックは魂の叫びだから」とか「ヘタウマだよね」とか「ノリが命」とか「その良さは言葉にできないんだよ」とかとか、抽象的な神格化にウンザリしてきたからなのだけど、まだまだ言語化が遅れている分野だとは心から思う。(だからと言って、それが自分の仕事だとは思ってないけど)

イメージやモチベーションという概念は、完全に三上賀代、平田オリザ、岡田利規、山田うんなどから学んだので、私がライブハウスからいわゆる「舞台芸術」に活動を移したことは自分の中では繋がっているのです。

しかし。それでも一線引いて、音楽家を標榜しているのには理由があって、「自分が周囲に溶け込んでいる」状態というのが演劇やダンスに於いて起こり得るのか、まだわからないのだけど、音楽においては確実に存在する感覚で、自分でも手が届くことがあるので、やはり音楽にこだわりたいと思っている。

自由になりたい。自由とは?哲学でたくさん議論されてきたトピックであることは知っているけど、私は直にそれを体験したい。その意味に於いて、一見ストイックに見えるソロ・パフォーマンスも、"棚と白熊"というバンドも、劇伴音楽で舞台に関わることも、繋がっています。