2019年9月14日土曜日

守るべきものがあるという美辞麗句について

今年の6月にパートナーの妊娠がわかり、それから2人(+1人)で生きていく為に八面六臂のバタバタの中で、はや3ヶ月、持病が大きくぶりかえしてしまった。

仕事をお休みにさせてもらって、親に金の無心を願い出て、将来への不安が大きく膨らんだところで、悪夢にうなされながら睡眠薬で明け方まで眠る日々の再来である。

これで本当に快復に向かうのかは、全く実感がない。とにかく休養をとるように努めるが、生活にメリハリがない為、なかなか気が休まない。いったいいつになったら動けるようになるのか、見通しのないまま、病院までの電車の中でふと考えた。

「守るべきものがある」という言葉はとても耳障りが良く、家庭を持つ多くの人にとって最も共感される言葉と言えるのではないか。かく言う私も、「守るべきもの」が、少しずつ形を成し、いつの間にかそれを遵守するという「気分」に巻き込まれている。

無論、それ自体悪いことはない。子供にとって親の庇護は必須である。

しかし、「守るべきもの」という美辞麗句の下に、何かを排除し、合法的に奪い、見栄え良く繕ってはいないか。「守るべきもの」以外を明に暗に、攻撃する。悪意すらなしに。

「気分」に巻き込まれるとは恐ろしいことだ。無自覚のうちに、攻撃される側だった自分が攻撃する側になっている。

「守るべきもの」を優先しつつ、心地よく閉じていながら誰もがすがれるヨスガがあるような場所を持ちたい、と思ったのでした。それはプライベートな問題に見えて、パブリックを考えていくことだと思うし、アートの在り方についても通底すると思う。