2019年1月28日月曜日

想像力という言葉より可能性という言葉を使いたい

自分の生活と人生において、大切な物は可能性で、つまりは病気や老後に備えて毎月保険をかけるより自分に投資して感覚を肥やした方が良いと考えているアーティスト人生である。

先日、現代美術の批評家として名高い某氏が「文系は想像力の為の学問だ」というようなことをTwitterで仰っていたが、私は想像力という言葉より可能性の射程距離という言葉に置換したい。理系的な言葉使いの方が、いま私が生きる現実に対して有効だと感じる。

私は夢見ている、というキング牧師の有名な言葉があるけど、この力の言葉の強さは夢見ると宣言することによって抑圧された人々たちとそこに連帯できる人たちに、共有可能な理想の未来像を示唆したからにほかならない。

それは想像力というより、可能性の種を蒔くような作業だったのではないか、と思う。想像力や夢という言葉も現実的な力を持ち得るとは思うのだが、「夢があっていいですね」が何かしら堅実に生きている人からの切断を意味する時代だから、至って静かに「なんの可能性もない人生をお送りですね」と返してやりたい。(嘘です)

可能性、ならば生きている全ての人に関わりのある言葉であるように思う。無宿者でも定職に就きたいのか、気儘に生きて行きたいのかで、可能性の定義は異なるし、そこに可能性を残さないと押しつけになるよね、ということも今一度確認する必要があるだろう。

つまりは、可能性の射程距離の狭さが私たちの選択の自由を狭めていないか、という空気を感じるのである。しかし、その空気をなんとかしましょうよ、という展開も大切だが、世界にはこんな可能性があるのだ、というモノを提示することを私はライフワークにしている。

アーティスト人生を生きて行くことは生易しくはないけれど、常に可能性はあります。それは私が何者であるか自覚する為の営為であり、そこに先人がいたということだけを励みに、そして私もそのような後続への励みになろう、というだけの営為だ。それだけの可能性だが、決してその射程距離を侮る勿れ、と強く思うのである。