2024年3月23日土曜日

「アーティスト」選民意識が自分にあった頃の話

自分の30代もあと3ヶ月ほどです、という節目で思ったことなどを。

私は自分が「アーティスト」だと思って30代を過ごしたけど、その内実を微細に見ていくと、結構グラデーションがある。

最初、「選ばれなければ」ということばかり考えていた。助成金の採択、コンペティション、劇場、オーディション、キュレーター、イベント・オーガナイザー、ワークショップ・コーディネーター、友達、観客...様々な人に「選ばれなければ」、一握りしか存在しないと言われる先輩の「アーティスト」たちの仲間に入れない、と。

もしかしたら美大卒の人は、20代でそういう焦燥感を味わうのかもしれないけど、自分の20代はバンド活動とコンテンポラリーダンスに捧げてしまったから。その時は、詳しくは語りませんが、自分に30代、40だいと人生が続いていくことなんて考えてなかった。続いていけば揺るぎなかった価値観、揺るぎないことに価値があった価値観が変形していき、もっと柔軟に考えられるよ、と当時の私にあったら伝えてあげたい。

それで、「選ばれなければ」マインドが少しづつ変化してきたのは、子どもが生まれた影響が大きい。コロナで上演芸術が停滞したことも大きかった。自分の活動に時間や経済面でベストが尽くせないとしたら、何をしたいか?ということを考えて内省する時間がたくさんあった。自分の根底に選民意識があって、「アーティスト」が選ばれた存在だと誤認していたとようやく認識できた。

それから随分と時間を要したけど、アーティストであっても、芸能人であっても、資本家であっても、大統領であっても、主夫であっても、サラリーマンであっても、障がい者であっても、野宿者であっても、それはその人の一面でしかないということ、その人が存在すること、それ自体には無条件な「良さ」が備わっている素晴らしいことだと思えるようになってきた。うん、やはり自分のような人間にとって子どもの影響は偉大だったな。資本主義的な価値観に、骨の髄までやられてたんだよね、と思う。

あと、カプカプで働いて、鈴木励滋さんから多大な影響を受けたと思います。そんな話はまた今度。「アーティスト」なんて掲げたい人が掲げればいい旗だよなと思っている。それを特別視したり卑下したりして元々ある自分の存在価値を歪める必要はないよ、と。

2024年2月19日月曜日

佐々木が考える「ギャル音楽家」とは?(メモ)

(現在更新(=ステートメン化を予定)中ですが、自分が「ギャル音楽家」を自称することで他人の足を踏んでいる可能性があるので、メモを公開します)


ー対人関係のスタンス、独自の活動をしているという表明

>40歳近いのに自分の活動に「鳴かず飛ばず」感がある(主観的に)、打破したい
「音楽家」を自称していても実際には東京のアンダーグラウンドで(応援してくれる人、したい人は個別にいるものの)シーンとして接続、共感できるものがない

>かといって、やりたいことがないとかではない、独自のネットワークは形成したいし、ある程度成功していると思う

>ただ「音楽」にしても「演劇」「ダンス」にしてもマネタイズはめちゃくちゃ厳しく、外部からの資金や援助ナシに活動を継続できない

>せっかく、せんがわ演コンで露出増えて注目され易いので、ご興味持ってくれた方に今後の顧客としての可能性を感じている

>異性の友達や歳の離れた知人と仲良くなるのが下手なので自分の壁を破るようなキッカケがほしい

これが「ギャル音楽」を
思いつくキッカケとなりました


ー色んな人からの応援が必要、応援したくなる存在になりたい、自分と相手とウィン-ウィンの関係構築への希望を端的に表現したい、その答えとして「ギャル音楽家」

>キッチュな軽妙さと独創性を感じる肩書き

>親近感の醸成


ー容姿・性別・年齢不問、対人関係のスタンスが〈ギャル〉

〉(街路に落ちてる手袋を「野生の手袋」と表現するような意味で)野生の都会人になりたい

〉「ギャル」の定義

「現代的な人間関係のサバイバー」としての〈ギャル〉;恥じらいない自己愛と他者への配慮の共存、フェアでオープンな関係性構築への積極的意思、自らの固有性への覚悟の表明

>既存の「ギャル」文脈を学ぶ必要

りゅうちぇる、大田ステファニー歓人さんの活動や発言をリサーチする



ーすなわち、同調圧力や距離感の捉え方が自分ルール、「フェアさ」と「アゲ⤴︎」という美意識

〉同調圧力に対して(トリックスター的に)外れた立場になり、かつ「参加はできる」という独自のポジションが生まれるのではという期待がある

>「フェアさ」や「アゲ⤴︎」の定義必要


ールールや思い遣りが伝われば嫌な気持ちになる人は少ないと考えている

>ただし丁寧さ、誠意は心がけるが、距離感には注意する


ーオリジナルを主張する気はない、田島ハルコさんや大森靖子さんの影響下で考えてるから、活用できそうならパクりオススメ

>余談ですが、複数の友人から他ギャル系アーティストの情報を頂きました。どうもありがとうございます

>大田ステファニー歓人さんのTwitter運営にも影響受けてるので追記です


ーただし、経済的(社会的?)弱者である「ギャル」が現実にいる(実体験)ので、用語の定義をキチンとする、中年シス男性である自分が「ギャル」を自称することでセクシャルマイノリティを不快な気持ちにさせる可能性を排除したい(自己中心的「ノリ」でオモシロとして使わない、戦略的手段でしかないという批判がないように気をつける)

>(爆笑)などの絵文字を「ギャル」に関わる投稿では今後一切使用禁止を自分に課す

>佐々木自身、経験上男性を好きになったことあるし、「ギャル音楽家(中年シス男性)」というようなオモシロ表記を今後一切しない

>シリアスな局面、仕事の連絡では絵文字使わないようにする


この辺り本当に反省しております
「ギャル道」というワード自体はいまだに気に入ってますが
「オモシロ」としての印象が強くなると考え
撤回致しました


反省してます
今後このような投稿は
(自分に対して)
禁止を課します

同じくです


ー元々応援してくれない人も一定数いたので応援されなくても落ち込まない、転換したてで様子見てる人も一定数いると思う、ただ、ラディカルめな対外方針変更のためリアル・SNS上での信頼関係を再構築することは急務!




こういうような投稿、反応は
逆効果ですよね…反省してます

ちなみに
上記のことを掘り下げる
キッカケくれた友人とは
和解できました🙏



用語定義など、今後、追記予定です。


なお、面識のない方でも「これはおかしいのでは?」という違和感があればDM・メールなどでご指摘、ご教示頂けましたら幸いです。

随時対応を検討いたしますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します!


メールアドレス info.sujin@gmail.com

(メールアドレス修正しました!)


佐々木崇仁

2024/2/19 公開 


最終更新
2024/2/25 9:40



2024年2月16日金曜日

突然ですがギャル音楽家はじめます



この度、「ギャル音楽家」を自称して活動していくことにしました。

ギャルといっても、年齢や性別、容姿は関係ないという田島ハルコさんスピリッツで考えているので、次に会う時はガングロになってるとかではないですので、ご安心ください。

精神の自由(同調圧力や対人距離感の捉え方など)についての、「ギャル音楽家」としてのステートメントを作りたいと思っていますが、まだもう少し(ギャルの笑)勉強が必要そうです。

ただ面白いので(笑)というのもあるので、あまり真剣に捉えなくて大丈夫ですが、よろしくお見知りおきください。

「佐々木すーじん?誰」という話になったら、ぜひ「ギャル音楽家を自称してる人で〜」という感じにご活用くださいませ(笑)

ちなみに、佐々木はシス男性で「ギャル」が恋愛対象として好き、とかいうことでは全くありません。精神性、アティテュードの問題だと思ってます。

とりあえずご報告でした。


【2/17追記】

たくさんの閲覧、どうもありがとうございます!

友人の指摘を受けて、経済的・社会的弱者としての側面を無視できないなと考えています。

また、中年シス男性(佐々木)が「ギャル」を自称に使うことってセクシャルマイノリティに対する敬意を欠いていたり、当事者を不快にさせる言動ではないかな、とも。

自称「ギャル音楽家」は撤回致しませんが、近日中にまとめを公開する予定です。どうぞよろしくお願い致します。


【2/19公開】

佐々木が考える「ギャル音楽家」について(メモ)https://sujinsblog.blogspot.com/2024/02/blog-post_19.html

2024年2月10日土曜日

「上演」から考える「劇場」についての覚書

劇場とは公共に資するべき〜とか、脱劇場化〜とか、劇場という存在に関する様々な問題系について、あまり自分ごととしては考えてこなかった(自分は劇場を担う仕事をしないと思っていたから)んだけど、先日せんがわ劇場の演劇コンクールでファイナリストという栄誉に与ったりしたもので、取り急いで劇場について、「劇場空間」で自身の作品を上演する意味とか、付け焼き刃ででも考えなければという気持ちになってしまいました。あと、尊敬する友人・宮崎玲奈さんの書きつけたテキストを読ませてもらったのも大いに刺激になりまして、「劇場」というものについて初めて正面から考えてみむとてするなり。

脱劇場の議論に疎いながらも、私は世代的に「サイトスペシフィック」とか「ツアー型パフォーマンス」とか、日本に紹介され始めた時代に観劇に通っていたこともあり、それ以前というか、脱劇場していない(=劇場以外の選択肢がない)状態というのが、あまり馴染みがないのですが、そこら辺の歴史とかはよくわからんし置いておいて、最初に「上演」というものありきで考えたいと思います。

「上演」というのは、ジャンルは演劇でもダンスでも音楽でもいいのだけど、「集まる」ことによって発生するもの(武本拓也くんの日々の実践とかはひとまず傍に置いて)であり、「身体化されたメディア」だというようなことが言えると思います。「身体化されたメディア」というのは、身体に伝播したり、感化したり、直接的に皮膚感覚で「知る」ことができる媒体、というような意味です。「集まる」というのは、ニューシネマ・パラダイスの映画館で観客がワーワー野次を飛ばすシーンみたいに、それ自体がエンタメだったんだよね、なんてイメージも押さえつつ。

「上演」の創造性、その意義というのは、いろいろあると思うんですが、(ドキュメンタリー演劇とかそういうフェイズの問題ではなく)フィクションによる現実に対する提案であったり、解毒剤であったりするように考えています。あるいは、「上演」する主体にとっては、その行為自体が自身に対するオルタナティブな提案であったり解毒剤として機能するように思う。一方で、「上演」に立ち会う「観客」にとってのその意義は、世界全体に複雑にからみ合う関係性に、ミニマムな政治性として、少しずつ影響し、少しずつ物ごとに変化を促すような、適切な位置を指し示すような形で、提案や解毒という機能があるように思います。

はい、ようやく「劇場」になります。そのような「上演」を行い、行われ、集う場所として、「劇場」は存在するわけですが、「劇場」はやはり「骨組み」なんだろうと思います。「上演」(もしくは「公共」かもしれない)が「肉付け」。ところが、現行でも私たち舞台関係者や観劇クラスタは「劇場」に集まってるわけだが、そこで公共圏=ミニマムな政治性が現実に浸食するような余地・下地のようなものが発生しているかは、簡単には答えにくい。その原因は様々な分析が可能だと思うし、実際、問題が複雑にからみ合っている、というのが現状でしょう。否定もできないのは、確かに既に関係性が成立している人同士だと感想を共有して何かについて議論する、ということも可能なんだよね。ということで、ざっくり論考の対象から外します。とにかく、現代日本の「劇場」に「公共性」は薄いですよね?という私の立場だけ表明します。

さて、「劇場」は容れ物、骨組みということまで確認できました。では「良き」容れ物、骨組みにはどのような要素が想定できるか。まず、物理的、抽象的、両方の意味での安定性、継続性がありますよね。その他、対応性=上演のしやすさ・対応力や、アクセシビリティ=集まりやすさ、というようなもの、そしてノイズリダクション=視覚的・聴覚的ノイズを排除できる/してしまう、というような要素も挙げられますな。このノイズリダクション機能によって、ノイズを排除すればするほど、逆に演者と観客とが上演中に築く関係性に、緊張感が発生してしまうというようなことが起こる。もちろんそこは演者の腕次第というような問題でなく、「現代的な」上演であればあるほど、その緊張感のように、現にそこに「有る」ものを無視できなくなっていくという逆説的な状況が発生する。それは「現代的な」という言葉に含まれる美意識の問題などにも触りますが、ここではスルー。とにかく作品の種類によっては、観客との関係を築く前の緊張感は少なければ少ないほどいいよ、ということがある。

しかし、では「劇場」をカジュアルに〜自分たちの生活と地続きに〜というような試みも多少なりとも知っていますが(幕間での飲食物販売とか、劇場の搬入口などを開け放つ演出とか)、設定した問題への解決度から考えるに、あまりうまくいってはいなかったように思います。うまくいってる例があるとしたら、「上演」自体に資する演出やアイデアだったからだ、と思います。そう、やはり「劇場」の中心には「上演」が据えられているのだと思う。

そして、その中枢に位置する「上演」を純化させ、研いでいくことでしか、「劇場」での上演は成功しないのではないか?というようなことを考えています。では「上演」の純化とはなんでありましょうや?現在の私の仮説としては、演者と観客との関係に立ち上がる緊張感を無視することなく、「上演」がそれを包み込むことになるのでは、と考えています。

疲れたんで止めます。続く、かも。

2024年2月5日月曜日

明けました、おめでとうございます!

もう2月になってしまったけど、あけましたね。おめでとうございます。

(↑公式サイトのスクショ笑)

さて、先日「第14回せんがわ劇場演劇コンクール」ファイナリストに選出されました!

5団体のうちの1団体(というか1人)です。

これまで佐々木すーじんの活動に様々な形で関わってくださった方々のおかげです。

陰に陽に、ご支援、ご声援、どうもありがとうございました!

本選は2024年5月18,19日になります。チケット情報はまだ先なのですが、詳細はこちらにアップしていきます。

もちろん、佐々木は"kq"を上演します。

さて、つきましてはコンクールを盛り上げる為にも、舞台裏を少し公開しようと思います。

**

今回、このコンクールには佐々木すーじん個人名義で応募しておりますが、すべて自分一人の力というわけではなく、強力な「ブレーン」がついております。朋友で演劇の演出家、蜂巣もも氏です。

2023年に(密やかに)私と蜂巣さんで結成しましたコレクティブ”仮定の微熱”の活動として応募したかったのですが、応募条件上、活動実績が必要だったので佐々木の個人名義で応募しました。(みんな団体名なのに、ひとり個人名義なのは「オイシイ」とも言えますが笑)

個人名義でしたが、応募資料の企画書などにフィードバックを付けてくれた蜂巣さんに感謝です!

あと、応募資料に書いた「"kq"を演劇の文脈で捉えられるようにする。そのためにS・ベケットを参照する」という視座は蜂巣さんのアイディアでした。

ベケットは『ゴドーを待ちながら』などで高名な20世紀の劇作家ですが、呼吸音が登場する『息』という超短編戯曲や、指示テキストで構成された『クヮッド』という戯曲も書いています。

というような外面の情報だけでなく、2019年蜂巣さんが演出したベケット戯曲『ハッピーな日々』での体験を通して、ベケットの戯曲の「不条理さ」とされているものが、実はベケットが自身の生理的感覚で、行為の選択や展開を書いているからだとおもったんだよね、という蜂巣さんの見解を聞けたのもとても興味深かったです。

せんがわ劇場演劇コンクールのクレジットは(まだ変更入るかもですが)、演出・佐々木すーじん、蜂巣もも、協働制作・蜂巣ももとなっています。

"kq"、呼吸音による上演の新たな展開に、どうぞご期待くださいませ!

また、2024年夏頃に"仮定の微熱"名義で"kq"単独公演を実施します。

合わせて、どうぞよろしくお願い致します。


2023年9月12日火曜日

自分を記述する試み(3

1995年にオウム真理教による地下鉄テロという特異点があっても、尚、90年代に10代を過ごした私が感じていた空気は「あらゆる思想は平等に扱うべき(絶対的な善悪などないのだから)」という価値相対主義的風潮だった。これの象徴として援助交際という言葉が流行語大賞に入賞したのが96年(Wikipedia調べ)で、当時小学生だった私にも「ヤバイこと」とわかっても、「誰にも迷惑かけてない(だからOK)」という(誰の?)主張に対して説得力のある抗弁できる大人も媒体もなかったように思う。

そういう空気の中で、中学受験を終えてボンボン私立に入学した直後から私は「不登校」「ひきこもり」になるわけなんだけど、自分にとって家族や家庭が安心できる存在じゃなかった、外部に助けを求める知識や技術や経験が全くなかったという環境下で、諸々のストレスから身を守る為、と今は説明できるけど、当時はなにがなにやら。

毎朝毎晩、自分のカラダが自分の意思では動かせなくなった、という問題に直面して、「脚がなくなった」「転んだ」などと自分だけが読むノートには記述していたが、それを周囲に説明できるわけなく、周囲も納得するわけなく、ただただ孤立を深めていた。

この時、出会ったのが「ロック」で、ジョジョの奇妙な冒険が好きだからという動機で、セックス・ピストルズやレッドホットチリペッパーズのCDを地元の図書館で借りてきて、衝動をそのまま音楽として表現している!ということが衝撃的であり、当時の自分にとっては救いだった。同時進行で90年代のアメリカ、イギリス映画や古い邦画を毎晩深夜にひとりで見続けている。『ナチュラル・ボーン・キラーズ』や『トレインスポッティング』、『日本のいちばん長い日』が特にお気に入りでした。

そこから少し時間を飛ばしまして、2001年に古谷実『ヒミズ』に出会う。『ヒミズ』には冒頭に述べたような、価値相対主義下での自己の非力さ、特別じゃなさが、生活全般に影を落としているような世相が背景に透かされていた。共感、心酔、貪るように読んだ。だからこそ、ヒロインの「弱っている人は周りに助けを求めないとダメなんだよ!」(もう手元にないので大意です...)という主人公への激励は、私にとって天啓のようだった。時代の暗雲を切り裂いていた。

また恥ずかしながらですが、高校時代は小林よしのりにも傾倒していた。価値相対的なものに対してナショナリズムの焼き直しを声高に主張する『ゴーマニズム宣言』は胸に響いた。補足すると、代ゼミで出会った講師や大学時代の吉田寮まわりでの生活のおかげで、ナショナリズムには免疫つきましたが。

私は今年39歳、まだまだ己が非力を日々噛みしめていますが、「論破」とか「ネトウヨ言説」とか「差別主義」に惹かれる人が存在するのは、どこか遠くで自分とつながっているという感覚がある。それらへの(当然の)見下しなんだけど、自らの非力、特別じゃない存在、という不安定さに耐えられないのだな、と思う。まるで、どこかに「特別な存在たち」がいて人生の美酒を堪能しているかのような錯覚に煽られて。私だってそうだったよ、と。INU『メシ喰うな!』が聞こえる。

もし、自分は特別じゃない、ということを幸いにも自覚できて処方箋が欲しい人がいたら、私は自分が好きな映画や音楽、文学、漫画をお勧めする。(舞台芸術はチケ代が高いのでお勧めしにくいが...)私が思うに「アート」は、そこにある存在を、あるがままに受け止める、その技術や直感、知見の集積のようなものであって、つまりは自分の特別じゃなさを受けとめる練習であり、あるいは単純にそれを保留して別の時間を味わう快楽なのだと思う。間違っても、「自分は特別だ」という欺瞞を主張する方便ではないのです。

2023年7月8日土曜日

音楽理論を信じない私の「音楽」バナシ

音楽サイコー!ってなるとき、脳内に直接すべてが差し込まれるとき、からだ動いて一瞬一瞬に反応しちゃうとき、私は「身体が共鳴している」状態として解釈していて、だから音楽理論なんていらねーよ!とは言えないが、身体を共鳴させる可能性を模索しているので、既存の理論にはあまり興味がない。

身体の共鳴は、生楽器かどうかとか関係なくてDTMでもからだにクるものもたくさんある、知っている。「その音」に感じ入ったアーティスト本人の身体への共鳴であるように思っている。なので、複雑な音楽理論やプログラミングを応用した音楽にも身体が共鳴することはある。音源よりライブの方が共鳴しやすいように思うが、音の大きさやレンジの広さもあるので一概には詳しく述べられないね。

かつ、演劇やダンス、他のパフォーマンス・アートを観ている時も(私には)おこるので、音楽にだけおこることでなし、その辺に既存の音楽理論の素晴らしさがあるのやもしれない。けど、身体が共鳴する(あくびのように)という経験則、それはあまり語られてこなかったんだから今生を賭けてみてもいいではないか。

私が思うに、音楽には共鳴させる味の「濃い」ものと「薄い」ものがあって、前者は屋外で聴いていてもその味を知覚できるように、いわゆるポピュラーミュージック的な音圧があったりなど。

さて、後者「薄い」もの、一部の現代音楽、即興音楽、実験音楽、環境音楽、またはSP盤から起こした音源などの音域のレンジが狭いものなどもこれに含まれると思う。「薄い」ゆえに「弱い」ので屋外などで聴くには不向き、味が不明瞭になってしまうのだが、思考など作業の邪魔にならないので自分の部屋で重宝している。

そして私自身も「薄い」味の音楽活動を続けている。呼吸音、もはや味が濃いのか薄いのかよくわからないけど、レンジの狭い小型アンプなどを使ってアンプリファイしているし、微細な音を立てる日用品なども用いているし、と。

5月のワークショップでは、なぜ呼吸音を用いるのか、自分がいま扱っている以外の理由があまり答えられなかったと思う。今月7月もワークショップをやるのですが、呼吸の音という「薄さ」「弱さ」ゆえの味わいを感じられる内容にしたい。微細な音を聴きながら感じながら「いるだけ」のワークをやったり、身体の震度を共有するために空間に音を出すワークをしたりなど。

内容はまだまだアイディア段階ですが、私のワークショップではどんな方も「大人」として扱います。ので気軽に楽しめますよ。ぜひお問い合わせ、ご参加くださいませ。



そうそう、7/22《西日暮里編》ワークショップ後に、屋上にて18時からkqパフォーマンスやりますよ。こちらもよろしくお願い致します。