2024年2月10日土曜日

「上演」から考える「劇場」についての覚書

劇場とは公共に資するべき〜とか、脱劇場化〜とか、劇場という存在に関する様々な問題系について、あまり自分ごととしては考えてこなかった(自分は劇場を担う仕事をしないと思っていたから)んだけど、先日せんがわ劇場の演劇コンクールでファイナリストという栄誉に与ったりしたもので、取り急いで劇場について、「劇場空間」で自身の作品を上演する意味とか、付け焼き刃ででも考えなければという気持ちになってしまいました。あと、尊敬する友人・宮崎玲奈さんの書きつけたテキストを読ませてもらったのも大いに刺激になりまして、「劇場」というものについて初めて正面から考えてみむとてするなり。

脱劇場の議論に疎いながらも、私は世代的に「サイトスペシフィック」とか「ツアー型パフォーマンス」とか、日本に紹介され始めた時代に観劇に通っていたこともあり、それ以前というか、脱劇場していない(=劇場以外の選択肢がない)状態というのが、あまり馴染みがないのですが、そこら辺の歴史とかはよくわからんし置いておいて、最初に「上演」というものありきで考えたいと思います。

「上演」というのは、ジャンルは演劇でもダンスでも音楽でもいいのだけど、「集まる」ことによって発生するもの(武本拓也くんの日々の実践とかはひとまず傍に置いて)であり、「身体化されたメディア」だというようなことが言えると思います。「身体化されたメディア」というのは、身体に伝播したり、感化したり、直接的に皮膚感覚で「知る」ことができる媒体、というような意味です。「集まる」というのは、ニューシネマ・パラダイスの映画館で観客がワーワー野次を飛ばすシーンみたいに、それ自体がエンタメだったんだよね、なんてイメージも押さえつつ。

「上演」の創造性、その意義というのは、いろいろあると思うんですが、(ドキュメンタリー演劇とかそういうフェイズの問題ではなく)フィクションによる現実に対する提案であったり、解毒剤であったりするように考えています。あるいは、「上演」する主体にとっては、その行為自体が自身に対するオルタナティブな提案であったり解毒剤として機能するように思う。一方で、「上演」に立ち会う「観客」にとってのその意義は、世界全体に複雑にからみ合う関係性に、ミニマムな政治性として、少しずつ影響し、少しずつ物ごとに変化を促すような、適切な位置を指し示すような形で、提案や解毒という機能があるように思います。

はい、ようやく「劇場」になります。そのような「上演」を行い、行われ、集う場所として、「劇場」は存在するわけですが、「劇場」はやはり「骨組み」なんだろうと思います。「上演」(もしくは「公共」かもしれない)が「肉付け」。ところが、現行でも私たち舞台関係者や観劇クラスタは「劇場」に集まってるわけだが、そこで公共圏=ミニマムな政治性が現実に浸食するような余地・下地のようなものが発生しているかは、簡単には答えにくい。その原因は様々な分析が可能だと思うし、実際、問題が複雑にからみ合っている、というのが現状でしょう。否定もできないのは、確かに既に関係性が成立している人同士だと感想を共有して何かについて議論する、ということも可能なんだよね。ということで、ざっくり論考の対象から外します。とにかく、現代日本の「劇場」に「公共性」は薄いですよね?という私の立場だけ表明します。

さて、「劇場」は容れ物、骨組みということまで確認できました。では「良き」容れ物、骨組みにはどのような要素が想定できるか。まず、物理的、抽象的、両方の意味での安定性、継続性がありますよね。その他、対応性=上演のしやすさ・対応力や、アクセシビリティ=集まりやすさ、というようなもの、そしてノイズリダクション=視覚的・聴覚的ノイズを排除できる/してしまう、というような要素も挙げられますな。このノイズリダクション機能によって、ノイズを排除すればするほど、逆に演者と観客とが上演中に築く関係性に、緊張感が発生してしまうというようなことが起こる。もちろんそこは演者の腕次第というような問題でなく、「現代的な」上演であればあるほど、その緊張感のように、現にそこに「有る」ものを無視できなくなっていくという逆説的な状況が発生する。それは「現代的な」という言葉に含まれる美意識の問題などにも触りますが、ここではスルー。とにかく作品の種類によっては、観客との関係を築く前の緊張感は少なければ少ないほどいいよ、ということがある。

しかし、では「劇場」をカジュアルに〜自分たちの生活と地続きに〜というような試みも多少なりとも知っていますが(幕間での飲食物販売とか、劇場の搬入口などを開け放つ演出とか)、設定した問題への解決度から考えるに、あまりうまくいってはいなかったように思います。うまくいってる例があるとしたら、「上演」自体に資する演出やアイデアだったからだ、と思います。そう、やはり「劇場」の中心には「上演」が据えられているのだと思う。

そして、その中枢に位置する「上演」を純化させ、研いでいくことでしか、「劇場」での上演は成功しないのではないか?というようなことを考えています。では「上演」の純化とはなんでありましょうや?現在の私の仮説としては、演者と観客との関係に立ち上がる緊張感を無視することなく、「上演」がそれを包み込むことになるのでは、と考えています。

疲れたんで止めます。続く、かも。

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