2021年12月18日土曜日

他への接続、浮かぶ瀬もあれ

サウンドクラウドやバンドキャンプでフォローしてくれるアカウントが大抵欧米系の白人(アイコンで顔がわかる範囲ですが)で、自分の表現が誰に届いているのか、ふと考えて、考えこんでしまう。

もちろん、面識があるわけでなし、あれば友人・知人ですけど、ネットだけのつながりなんて精神的に距離を取って「お客様」として割り切るわけです。何について悩むのかね、というと、自分にとって生活かけてる表現が欧米の「アート」文脈にあることは看過できないよね、少なくとも無自覚ではいられないよね。

自分の思想に影響を与えたものは、野口体操や大学時代に学んだ仏教、武満徹なんかでもあると思うけど、ジョン・ケージがインド音楽や鈴木大拙から影響を受けたように、「現代音楽」は既に非西洋の思想を(時に恣意的に)取り込んでいるわけですね。

「現代音楽」や「サウンド・アート」が悪い物とも思っていないが、それらと距離を取ったつもりで、人前に表現を差し出せば「論外」か「参照項」かを常にジャッジされる感じ、あると思います。東京ローカルなのかね。

他への接続という意味において、批評という言語化も作家自身の言葉も大切だと思う一方で、不均等な世界に加担するだけの接続なら意味ないと思うのですよ、俺は、絶望してる奴の為に音楽やるぞ、わかってんのか。そこはブレんね。

もう忘年会シーズン、今年はあるのでしょうかね。多人数でワイワイやるのは大概苦手ですが、他への接続は日頃からワイワイ、大切だと思います。

2021年11月13日土曜日

ひとくさり、自分を語る浅ましさよ

不公正がまかり通って、まぁ国民としてはSNSで抗議の声をあげるくらいのことしかできません、息苦しい。SNSでもネット上の署名でも、一つの単位に還元される、砂粒のようにしか存在できない。国会前や官邸前のデモは、色んな意見があると思うけど、自分はエネルギーをもらえたし、もらえるので行ってた、スポーツ観戦のナショナリズムにすっぽりとハマる人と同じようなものかな、今後もっと多様な戦い方を自分自身考えていかなければいけないと思うよ。

先日、久方ぶりに連絡した友人に冷や水を浴びせられ、このケースに関しては自分が過去その友人を傷つけたのだと思うのだけど、それでも心は寒々としている、Polyticsを乱雑に扱うことで大事を成し遂げられると勘違いしていたよ、涙。

11/3、山下哲史さんが呼んでくれた野外イベントでヤプーズ「赤い戦車」についてのトークとソロパフォーマンスをするつもりでリハーサルを重ねていたが、現場で全部捨てて、即興、しかも1歳9ヶ月の子供と共にパフォーマンスしたのだけど、それはそれで良かったと思うよ、「赤い戦車」名曲ですよね。いずれどこかで披露できたらと思う。

売る、とか、集客人数とかの、経済効果じゃないところで、動きたいし、そうする必要性も責任もある。その意味で立派な構えをする上演も展示も疑う節。疑うべし。もし自分にそういう仕事や機会が来たら、端金とか名声とかとは別の判断が必要なので少しでも鍛えて備えたい、と思うことであるよ。若いうちは、そんなこともわからなかった。

西洋中心的な視野が反省なく薄らいで、今度は拝金とポピュリズムが蔓延してる。「芸術」から色々剥ぎ取るプロセスはあった方が健全ですね、けど、いまの状況はちょっとしんどい。大局的な視点なんてわからないし、判る必要もないと思う、私は傷とケアということについて今後考えていきたい。

野心は未だ、沸沸と煮える、私は俗物です。ただ支点を換えていく可能性は模索する、それが自分にとって重要だから。便利な手段は取り外した方が良いと思いますよ、そっちの方がより深く考えなくてはいけなくなるから。

2021年10月9日土曜日

私を放っておいてくださいと言うケンリ

訳あって手に入れたメタカンパニー『真説じょんがら節』を聴きながら今ブログを書いていて、私は別に民謡に詳しくはないのですが、昭和初期のSPをCD化した音源たちを聴いていると、いわゆる「津軽三味線」の激しい撥捌きは数曲に過ぎず、多くは門付や遊興の席で歌われたであろう緩く楽しい音が少なくない。

激しい撥捌き、さすが本州最北の〜、荒波の〜、などという言葉はもっと時代が下ってからの後付けだと思わされる訳であるが、それは「洗練」「淘汰」なのか「多様性が失われた」なのか。

アイデンティティというものを獲得する為に、色彩を統一する、それ、その、暴力性について少し考えたいと思ったのだ。

というのも、私はそれの被害者であり加害者であり、Co.山田うんに出演していた頃は、マスゲームのようなユニゾンを強要され、もしくは「できてないから、いらない」と言われ、挙句、お前は使えない、と主宰者山田うんから直々に言われた訳であるが、それも今や時効。

一方、自分が主宰するscscsでは常にメンバーに「お前は何ならできるんだ?」と追い詰め続け、結局メンバーは傷を負って自分から離れていった訳で、被害者ヅラばかりもしていられない訳です。

今は単独行動、ソロ・パフォーマンスばかりですが、「自分はこうありたい」という理想に忠実にはなれる。というか、そんな理想、誰にも侵す権利なんてないとようやく気づけた。勿論、自分も他人の理想を侵す権利はない。

舞台芸術というのは不思議なもので、いとも簡単に集団心理による暴力が横行する。だからそれを自覚してない人は平気で他人を傷つけるし、それが舞台の「常識」のように振る舞う。

これは偏に舞台に立ってる人間と観ている人間の間に圧倒的不均衡の権力勾配があるからである。あなたはこういう「つもり」だった?でもこう見えたよ、と言われたら抗弁できない、という寸法だ。それに、その不均衡に、自覚的な人間は、舞台関係者になんと!あまりに少ない。びっくりだ。

でもサービス提供してる訳じゃない。気付けよ。舞台芸術、特に小劇場やライブハウスは、新しい価値観や表現の創出に生活を賭けてるのであって、ハシタ金の出演料や3,000円程度の木戸銭払ったお客さんを満足させる為にやってる訳じゃないのよ。私を支配しようとするなよ。

※10/10追記:もちろん情によってつながっているお叱りや感想は謙虚に受け止めますし、協働する時は金額の多寡に関わらず真剣に参加します。理解しろとかなんとかを強要してるわけじゃないですよ。そりゃね。

まぁ、そんな私ですが、近々ライブがあります。ソロで、小型アンプをハウらせるだけの、シンプルで愚直な、ノイズ・インプロビゼーションです。

10/26火曜、東高円寺UFOクラブにて、19:20から。立ち会って頂けたら幸いです。




2021年8月20日金曜日

自分の狡さや弱さと向かいあってないな、あれまぁ、というような、現在、その地点

私は今まで自分の「弱さ」、もしくは「特性」に向き合ってなかった。カウンセリングの時間などを介して、自分ごとを大分言語化できるようにはなって来たと思っていたけど、それはまた別の話で、自分自身を引き受けて来なかったと思うのは、以前の職場「カプカプ」の所長に貸された灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』という本がきっかけで、貸された当時は戦後の貧しい挿話など、私が無知だと思われたのだろうか、私は野坂昭如の『火垂るの墓』を通読してますよ、余計なお世話ですよ、程度にしか思えなく、そのような勘違いが今となってはお恥ずかしいが、当時は重くて読み進められなかった。

最果タヒの『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』を読んだあたりで、自分に亀裂が入り、「魔法少女」という「特別」にこだわってしまって、周囲との人間関係を素直に築けなかった主人公の、成長譚、「魔法少女」を、「音楽」「舞台芸術」もしくは「芸術」に置き換えたら、まんま自分の話やんけ。まぁ、最果タヒの主人公はそこで友人を助けたいっていう自分の感情に素直になるっていう成長、というお話なのだけど、それはさておき、自分は自分が「音楽」をやっていることを特別なこととして捉えてはいなかっただろうかと自省したのですよ。「売れない」「マイナーな」「ニッチな」というか、そもそも「音楽」を莫迦にしながら時間を切り売りしている労働者たち、彼らを同じ世界の住人として捉えていたのか、と。彼らのゲームを降りることで自分を許してはいなかったか、と。

それは別に音楽を辞めて自分も通勤ラッシュに揉まれようという話では勿論なくて、ただ最果タヒのポップな文章の後に、灰谷健次郎にシュッと手が伸びて、まだ読んでる途中だけど、灰谷の文章の登場人物たちの貧しさと共にある誠実さと、夜間高校に通っているという「特別」に甘えてしまったという作者自身の自省から、自分が抉られて、炙られて、ぐるぐると掻き混ぜられて、あれまぁ。真摯な自省の言葉は読者にも自省を促す。

音楽をやってる、誰も作れないような音楽が作れる、けど、私の問題は私が負わなくてはならない、というような、当たり前のこと。その意味で、労働者、学生、引きこもり、ニート、障害者、「強者」、弱者、と同じ。その当たり前から目を逸らし続けた私は、障害者施設で働いていたけど、真の意味で彼らのことを同僚として思えていたのか。社会問題、そこから降りる以外の積極的な解決法に取り組んできたか。それらの問題は全て私の芸術に対する盲信からきていたし、その為に盲信していたと自責している。信仰は悪いことではないけど、盲信はダメでしょ。

灰谷の本はまだ途中だけど、答えは自分なりには出ていて、謙虚に周囲から学び続けること、よく観察し感じとること、そして創り続けることだと、思うのです。現在、その地点。

2021年8月1日日曜日

音楽の譜面で演劇の戯曲賞に応募した話

育児はパートナーと分担してやってるわけですが、それでもなかなかに忙しいわけで、毎日やってることといえば喫煙、そうだこれで作品でも作るか、と思い立ったが吉日、ほぼ呼吸音で構成した"kq"(ケーキュー)の成り立ちであります。

というのはショボぴ〜な嘘で、"kq"の起源は、パートナー山下彩子のダンス作品"tiny choices, tiny things"で呼吸音のみの生演奏で伴走したのがきっかけです。その時は、もっと強い発音も混ぜて緩急作ったんですが、それから、おお、これでソロ作れる、やったやった、ってなって初演は2019年3月、『声が言葉を失う時』という楽器なし、声のみでパフォーマンスするっていうルールの、ザジさんのイベントで、SM58(マイクね)とスーパーボール1つ使って(反則ギリギリ)30分やったのですが、スーパーボールが開始早々あらぬ所に転がっていく始末、事前に準備していた作曲構成吹き飛んで、即興で息だけの30分を上演したのでした。

それからずっと温めて、寝かして、というか忘れていたわけでしたが、愛知県芸術劇場主催のAAF戯曲賞21に譜面で応募しよう!なんかいいじゃん!と不意に閃いて、ところが、自分の譜面にできるような、作曲作品のレパートリーなんて"kq"しかないじゃん!となった次第。

それから仕方なく再度呼吸音と向き合う退屈な日々、且つ、まぁ演劇の戯曲賞に音楽の譜面で応募するからには、と、それなりの付け焼き刃で理論武装しなければ、アルトー『演劇とその分身』ケージ『小鳥たちのために』を斜め読みして、戯曲賞に譜面で応募する意義をでっち上げ、る、のが大変、譜面と向き合いながら、小難しい言葉でいかに煙に巻くかを思考、試行する日々、育児と家事の隙間時間をフル活用。

新生"kq"の方はコンセプト事前に決まってて、「ひとり遊びのように自分に集中することで時空間を構成する」というのがあったので、案外するすると進む、が、そこは呼吸音、自分でパフォーマンスするなら、如何様にもできる部分を書き言葉、もしくは記号で伝えなきゃ聴く気になるような音にならないわけで、聴く気になるような音にならないものを譜面にしたところで相手にされまい、そうだ、テキストを付けてみようと思いついた、は、いいものの、テキストがグチャグチャ、良くいえば奇想天外、まぁ拙い。

ということで。記譜とテキストとロジックを同時進行せねばならない。四面楚歌より四面楚歌。そっか、ってことで、這々の体で形になったのが締め切り3日前。ってのは盛り盛り。

で。これ人が読んでも伝わるのかな、ってのが最大のネック、なんせ独自の記譜法と自前のテキストで呼吸音の微妙なニュアンスを指示しなきゃならないわけで、そこで必要なのが親愛なる友人。今回はへちまひょうたん、ことヒメノにお願いして、譜面だけ渡して感想を聞こうという魂胆。そうしたら、ヒメノ、突如軽トラを爆走させ、音楽スタジオまでかっ飛ばし、日夜こもって試してくれる徹底ぶり、一部、盛り盛り、真面目な友人、本当に助かりました。当然、フィードバックも微に入り細に入りの徹底ぶり。本当に助かりました。

ということで、無事に3日前に発送、締め切り前日に到着とのこと。無事に応募できたのでした。音楽の譜面で。演劇の戯曲賞に。はて、さて。

2021年7月5日月曜日

自明でない表現の捉え方、長いものに巻かれるな

今朝、子供を保育園に送り出した後、パートナーと「自分にとってダンス(もしくは音楽)は自明か」というようなことについて一回り語り合い、収穫の多い、充実した、瞬間、私にとっては音楽は自明なものとして扱う作業も大好きではあるが、「自分の表現」となった時には自明ではない、これは音楽だろうかと思いながらやることが殆ど、音楽として捉え始められた時は少しもう作品と距離がある感覚になっています。

パートナーは、ダンスは私にとって自明なものではない、非常に主観的、感覚的な、定義できない曖昧なもの、というようなことを言っており、共振してしまった。道のりは遠く険しく、道半ば、しかしそれもまた愉しい、というような心境に久々に還れた。

野田秀樹氏を指して「下の世代への影響という意味ではゼロ」と評した演出家がいたと伝え聞いたことがあったが、そんなことは往往にしてあることは前提として、それは後世に生きる人間にしか判断できないだろうよ、とも思う。

同時代的な共振の中に身を置くこと以外に、コンテンポラリーなアーティストで居続けることなどできないし、それは存命中に名声をどれだけ得たかとは全く関係ないことだと再認識。ちょっと上の世代のコンテンポラリーダンサーとかの話を聞くと、大劇場での上演に執着している方が多いのを残念に思う。大劇場ではイージーな結論しか見せられない、ということも多いのにな。あの人たちはそれを知っていて、現世的な成功に固執しているように見えるな。

解はひとつではない、という立場に立っていますと、本当に空虚な傷つけ合いの多さに目が眩みます。そして大抵の傷つけ合いの中身に目を凝らしますと、時代遅れの臭みが鼻をつくのです。

他人は他人、置いておいて、いいよ、いよいよ、やりますかよ、とは思っているんですよ、重い腰。6/26の配信、もしくは現場でお立ち会いくださった方、どうもありがとうございます。アーカイブまだ観れるみたいですよ。じゃあ、感想お待ちしてますね、それはそれ、では、これから私の、正念場です。配信向けの種と、それとは異なる種を、同時に2つ育てていこうと思う。それにはワクワクとした心の震えが必要でね。

長期スパンで、家事と育児の一部も担いつつ、自分の体調とも折り合いつけつつ、パートナーとも協働しつつ、考え抜こうと思います。上演とは異なる発表形式の、作品たち。って別に小説書くとかではないですよ、それはそれで楽しそうですけど。

私の仕事は、自明でない音楽を自明でない形のまま、聴衆の内側に熾すことです、から。

はは、言い切ったね!長い物には巻かれるな。

2021年6月23日水曜日

狂おしい音に近づく為の素描と、発表のお知らせ

今週末土曜、6/26、秋葉原CLUB GOODMANにて開催される音楽イベント"OOO! vol.8"に出演します、会場で観ることもできます、無料の配信もあります、配信リンクはこちら

出演時間は、18:25-45  * 17:25-45に変更になりました(6/24追記)、なにぶん出演者が多いので、しかも猛者ばかりと思うよ、できれば時間に余裕を持ってご視聴ください、他の出演者さんも面白いと思うよ。

オファー時に、配信あるので映像と音声で観ても質が落ちない作品というオーダーがあり、Bob Dylanの"Subterranean Hpmesick Blues"のカヴァーをすることにしましたよ。



2分強の曲を20分に引き延ばす、まぁ、だから、カヴァーとは名ばかりで、いうなれば原詩を現代風に意訳したモノローグ演劇、いま22分あって20分に収めないといけない。

オリジナルのメッセージは明快で、反権力、真っ当な人生を降りて路上に出よう、というような主旨のことを軽快に歌っているのだけど、現代日本にも思い当たる要素もあれば、もう時代遅れというか、真っ当な人生降りて路上に出て、何もないことに不安になるから皆んなまた元の生活に帰って行ったわけで、もう少し私個人の内面から敷衍できるようなテキストに磨き上げるために、これも日々更新している。

参考:Subterranean Homesick Blues lyrics

奇を衒っても、正面からぶつかっても、ふざけ倒しても、終始ひとりのひとり芝居、モノローグのみで20分保たせるのは至難の業、日々失敗を重ねて、更新更新、子供を保育園に預けている隙に、リハーサルを繰り返してるのだが、昨日ついにパートナーに家の外で誰かが変なことを喚いているのかと思ったと言われる始末。

狂人の喋りというのは、ひとつ、魅力的ですね、やっぱり。狂い方。

齋藤徹さんという2019年に亡くなられた高名な、コントラバス奏者、作曲家、私が最初で最後に齋藤さんの生演奏に触れたのは2005年頃、いまは無きシアターイワトで工藤丈輝さんと若林淳さんのデュオ舞踏公演での生演奏、私は終演後、齋藤さんのCD"Invitation"を購入し、今でもよく聴いています。

CDは、多重録音なし、コントラバスのみのソロ演奏が11曲、静かに糸を手繰りながら、時に激しく逸脱するような、狂おしい音。

コンセプトなり曲想なり、演奏が何か形をなそうとする瞬間と、それが崩れるギリギリのところにまで跳躍する、逸脱する、錯乱する、その緊張感とを、ゆらりと不穏に往来する。ある種の不安定さ、自分自身から立ち上る予測を、自分で切り離していくような齋藤さんの演奏を、自分のパフォーマンスに取り込めないか、というようなことを考えている。

テキストが(自分で書いておいて)非常にシリアスということもあり、距離を置けばシニカルに響くし、ヘラヘラやれば当事者を傷つけるような言葉になってしまう。あくまで原詩の大意は汲んでいるつもりだし、跳躍や逸脱が、つまり自分のパフォーマンスにどのように反映可能なのか、暗中模索なのだが、いやはや。

テキストの音読において、迷子を回避するために手繰る糸は、テキストそのものだと捉えるのが妥当だが、狂おしい瞬間を立ち上げる為には不安定な均衡を保つ必要がある。糸にはぶら下がっていないといけない、テキストに安住してはいけないし、テキストを安定させてはいけないのだ、と思う。糸は、あくまで予測を開示する為にあるのであって、その予測は破綻の為の伏線に過ぎない。糸にぶら下がりながら、予測に収まらない動機を発露するような身の投じ方をすること。

ウンウンと、とりとめもなく思考が散逸しそうなので、ここまでの仮説を自分の今度のパフォーマンスに反映させようと思う、という宣言を以って締めます。

乞うご期待。


2021年5月6日木曜日

愚者の息継ぎについて

私は昨夜、中村珍という作家の『羣青』という漫画を読んだ。友人がツイッターですごい漫画だと評していて、あと、GW中私はずっと気分の落ち込みが身体を重く拘束してるような不自由さの中で横になって過ごした、つまり鬱が酷かったので、パートナーはバイトを休み1歳児をワンオペで見続けなければならなかったし、どうにも改善する兆候を掴めなかったので、深夜(22時は今の私にとって深夜)になんでもいいので、何か漫画を読もうと思い立った。

LINEマンガを久々にダウンロードして、サラサラと無料マンガを漁っていたら、『羣青』を見つけた。だから、私はこの漫画を最後まで読んでない。無料の部分の、途中までしか読んでいない。それでも熱中した。自分の中にパラパラと散逸していた感情や感覚に、筋道が出来た感覚があった。凄惨なストーリーで、すれ違っているとわかりきっている執着が愛憎巻き込みながら転がり落ちていくような話なのですが、私は中途で止めているにも関わらず救われた。

このところ、ずっと睡眠時間が3、4時間くらいで、日中にも寝て計6時間くらい、ずっと疲労感が重たく身体を支配していたのだけど、今朝も2時に目が覚めて、でも気分は悪くなかった。『羣青』の続きを読みたい、とはあまり思ってなかった。家事をして、タバコを喫った。タバコを美味しく感じたのは1週間ぶりくらいだな、この1週間は美味しくないのにそれでも喫い続けた、たくさん喫った。

不味いタバコをそれでも喫い続けること、破滅的な漫画に唐突に救われること、どちらも個人的すぎて、個人の日常の、些細なことで済みます、そんな、大仰な話をするなんて馬鹿げている。

多様性という言葉はいつから使われるようになったのか。人間は、一つになりたいと願っている、大きなものに埋没することで自分の孤独や責務から逃げたがっている。私のような(愚かな?劣等な?)人間もいます、生きていたいです存在したいです、と言い続けなければいけないというのは、とても息苦しいことですね、息継ぎ、息継ぎ、こんな、泳ぐには、必要です。

アートは必要、アートは役立つ、アートは誰にとっても必要、アートは特別、アートは特別じゃない、etc

私は私の不安に耐えて生きています(時々寝込むけど)、だから、どうか、あなたもあなたの不安に向き合ってください。そして私という見ず知らずの愚者の居場所を奪わないでください。

2021年4月17日土曜日

新年度、の幕開け

年度明け四月頭から11日までグループ・野原『自由の国のイフィゲーニエ』@こまばアゴラ劇場にサウンド・インスタレーションとしてリモート参加し、リモートでも案外良い仕事ができたものだと自負して、佐々木敦氏にもお褒めのお言葉頂いて、私は大変ご満悦です。

何よりクリエイティヴな時間を日々過ごし、且つ早朝は子供と過ごせる時間の使い方、子供は新しい保育園に移った、車で10分かからない所となったし、充実した時間でした。

助成金やら、助成金やら、申請を諸々、年度明けということもあり、はじめた。

ちょっと久々、というのも、いっとき助成金申請を大量に出しては落とされていたのだけど、段々と助成金の審査に合致した企画書を書くようになってしまって、自分は何の為に作品創りたいのだ?と思った。

そういう経緯で助成金を当てにせずに友人、知人に宣伝しまくりながら、独立独歩で自主企画していたのだけど、コロナ関係と育児の忙しさとでカプカプでのアルバイトを辞め、お金もいよいよ自力で厳しく、大切に使おうと思って、助成金申請をしている。

まぁ、助成金通らなくてもやりたいことはやるだろうし、お気軽に仕事ください、何か仕事した時はご高覧ください、と思うのだけど、自分でワクワクできる企画を申請できるようになったのは成長なのか、申請が久々という新鮮さなのか。

横浜の吉田町のブックカフェで2年連続、実験音楽ショーケースを主催して、ご来場どうもありがとう、色々と自分なりにわかったこともあるので共有しましょう。

1回目は国際舞台芸術ミーティング、いわゆるTPAM2019のフリンジに登録して、高い登録料払って、でも出演してくださった浦裕幸さんがその時の縁で今年、ベトナム、ハノイで開催される展示に出品されたらしく、そんな縁を繋げられたのはとても嬉しく光栄。って2年越しかよ、とも思うのだけど。

そういえば、昨年11月に収録したオーディオ作品が、今年1月からWEBで公開されています。企画のコンセプトとして「母国語での発信」を大切にしているらしく、ハングル語のみのサイトなのでGoogle翻訳介して読むしか自分にはできないけど、なかなか充実したサイトです。公開時からバージョンアップされてるようなので、一度見てみた人も、再度リンク踏んでみてください。www.islands-network.or.kr

2回目はTPAM参加せずに開催、資料の英文訳や登録料を削り、関わってくれるスタッフの謝金も削り、支出を最大限削ったけど、それでも大赤字。記録用の人件費、バカになりません。正直という小林椋さんと時里充さんのパフォーマンスが大変好評を博したけど、来た人にしか伝わらないよね。山下哲史さんの楽日のパフォーマンスが神がかっていたけど、来た人にしか伝わらないよね。2日間で3公演、自力で開催するには限界で、口コミでお客さんが増える間も無く会期終わる、舞台芸術って本当に不便だよね。

そういう行き詰まりも感じていて、助成金取ったらもうちょっと宣伝できる長い会期でやれる、って集客どうなのか。

助成金申請の最大のメリットは自分の企画・考えをまとめて言語化することだと、前から思っていたけど、今回も実感。私は私の行動範囲の外側にいる人に出会いたい、もちろん、友人・知人にも見て欲しいけど、新しい出会いがしたいんだ、常々。

そうそう、Sound Sample Market vol.1の時は、面識のない好きなアーティスト、興味ある批評家にDM出してみたりしてましたよ。そういうのも、仕方ないけどナシのツブテ(若手でやる気ある人は返信はしてくれたけど)だと、翌年はそんな余裕もなく。

だから、単独公演という形式にあまり興味がない。ショーケースを企画して来たし、今年もそう。とはいうものの、知らない人が3000円とか払って観てくれるなんてことは極めて稀で、そこはもっと企画と広報頑張らないとなぁ。そういう問題なのか。

あんまり時間が取れなくて、雑文、乱文ですが、こんなところで。

助成金が通ろうと、槍が降ろうと、私は私、私の活動を地道にやっていく。今後とも御贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。