2020年6月5日金曜日

近況をなるべく「美しく」描写しようとしてみる

2月に子供が誕生したのだけれども、今はコロナ疎開で離れて暮らしている。毎日ビデオ通話越しに見る成長は眩くて、自分の目が少しタレたと鏡を見て知る。そして、恐らく今まで人生で経験してこなかった種類の笑顔を獲得していると思う。

PCがクラッシュしたこと、コロナ禍で自分の創作活動の先行きが見えないこと、そしてバイト休職による多大な時間は、私自身の中に潜んでいた様々な制約を溶かしていっている。制約と表現したけれど、それは極めて暴力的であるという意味で、差別や偏見に近いものなのではないかと、#black lives matterの動向や、日本国内の反応、カナダのトルドー首相の会見などを見て思う。

「舞台芸術」という言葉は、音楽は後塵を拝しているというか、往往にして漏れてるのが当たり前で、音楽をベースとする自分としては使い難い時もあるのですが、今はその、音楽が漏れ落ちた文化のお話をしたいと思います。

昨今話題になったリアリティ番組の、犠牲者のことを全く知らないのだけど、パートナーがその番組を見ていて「プロレスラーのまっすぐな女の子」という情報だけで、胸が痛い。そして、翻って「舞台芸術」の作家、演者、愛好者と、それに携わる人間の中でどれだけの人が、この事件を我が事として捉えられたか。私には、この犠牲者への誹謗中傷とその苦悩を全く知らずに「番組を無邪気に楽しんでいた人たち」と同質のメンタリティが、あったことを告白したい。

リアリティ至上主義、とでも言えようか、演者が舞台上で「我が身を切って立っている」ことへの、「感動」だと呼んでいたものについて、同質だと直感している。「いま、この場で、我が身を切った」という感覚は、単に服でも脱げばいいというようなお話ではなく、膨大な量の時間と労力をかけながら尚、何かに接近しようとする「純粋な」意志だと、仮に説明してみる。もちろん、これは観客としての視点だけでなく、作家、演者としても、そのように感じていた。

現代的な演劇やダンスの公演を観ていて、そのような評価軸を自分の中に置くのは、非常に意義があるように感じていた、すなわち「いま、この場に」いなければ感じられなかった感覚だったので、無邪気にそれに酔い、また、それへの接近を目指していた。

しかし、それを「小劇場ならではのライブ感」と置く評価軸は、文字通り、生命への危険を孕んでいたのではないか。そして、その危険の可能性をわかった上で、たかだか3,000円くらいのチケット代で提供したり、享受してきた。いや、料金の多寡ではない。が、いま、それを反省するべき時だと思う。

それを「感動」と呼び作家や演者を賞賛しながら、人ひとりの生活というコストを支払わせている事実は、「暗黙の了解」と呼ぶには、あまりに暴力的な上、なんの保証も補償もない世界だということを、みんな熟知していて、そこに与していた自分は主犯だったと思うのだ。

そのことへの反省を、恐れを、そこに与してなかった人にも伝わるように描きたいとは思うのだが、まだ冷静には書けずにいる。なので、少し、これからのことについて考えてみたい。

まず、「雇用」ないしは、「契約」を明文化しなければならない。そしてそれを実施していない集団、プロジェクトは実名で糾弾されることが当たり前にならないといけない。かくいう私も、今まで自分が中心になって作ってきた、他の出演者がいる作品の全て、それを作成しなかった。自分が一番多くコストを支払っているという、一方的な「フェアさ」を演出し、甘んじていたに過ぎなかったと反省している。

付け加えると、「毎日のように時間を指定されて稽古という名目で拘束されたら、それは明文化されてなくても雇用契約は成立する」という司法書士の友人のアドバイスがあった。なので、ハラスメントの危険性については、誰でも知っておこう。参考:パワハラ防止法とは何かを徹底解説

次に、生の舞台を見て「胸に迫りくる感覚」に訴えかけるような作品を評価しないことだと思うのだが、これは自分も全く言葉を獲得できていないので、指摘に止める。とりあえず自分はもう、その類に「感動」することはないだろう。

あと、「フェアさ」について、作家も演者もよく知る必要があると思う。舞台芸術の狭い世界では、作家と演者は常に不平等であることを、まず前提として広く共有しなければならない。少なくとも、そのことについて全く言及しない作家に価値はない、という常識が出来上がるまでは。そして「フェアさ」は、その不平等な権力関係を抜きにした場をいつでも設けることができるという開かれた姿勢と、双方の合意によってのみ担保されると、今は考える。

その意味において、全ての舞台関係者は、今まで「フェアさ」に関して消極的だったと言い得ると思うし、その誹りを私は受け入れなければならない。そして「フェアさ」を無視した創作活動は、「フェアさ」を無視する次世代を、簡単に生んでしまうだろう。火の手があがる時、それは常に対岸の出来事ではない。

さて、そろそろこの文章を終えよう。最後に付け加えたいのは、簡単な言葉であるが、非常に困難な作業です。「フェア」であることは「美しい」と言い得るような文化を私は担いたいです、以上。

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