2020年6月6日土曜日

観測気球

昨日ブログを書いて、これは沼に足を踏み入れるなと思いながら公開した。
近況をなるべく「美しく」描写しようとしてみる

沼と言うのは、私が関わってきた演劇やダンスにおいて労働問題を取り上げることの難しさ(敬遠とか、黙殺とか)のことでもあるけれど、自分が今まで半生を捧げてきたものを疑うというのは、なかなかにしんどい。

何に感動し、信奉してきたのかについて語るのは非常に難しいので、今の違和感を、なるべく簡潔に述べることにしようと思う。

ー観客の視線について
観客の前に晒されれば、自分が今、視線を惹きつけているか、そうでないかは、どんなパフォーマーでも感じると思う。観客側だった視点から言えば、仕方ないことだと思うのだけど、パフォーマー側からすると一瞬一瞬成功と失敗のフィードバックが起こっている。高所で綱渡りしてる快楽や恐怖と似てるだろうか。もちろん、そこに快楽もあるから何度も舞台の上に立ち続けるのだけど。果たして、それに見合うだけの「対価」を得ていたと言えるだろうか。

ー「犠牲」の多さ、大きさについて
そして、そのフィードバックに耐え得る為に、アーティストは自分を開示し、晒し、破壊し、時に搾取し、時に売り渡し、綱渡りの精度を上げる。それが生活を侵食していることは、果たしてアーティスト側以外に広く共有されていたのだろうか。もしそれをわかった上で観客席に座り続けるなら、それに見合うだけの対価を支払っていたと言えますか?

ー「村人全員が犯人」
以上のことは当たり前すぎて、アーティストやパフォーマーは受け入れて、舞台に立っていた。そこに付随する暴力的な構造について、誰も批判しなかった。批判できなかった。より面白いものを無邪気に求めた。助成金が下りなかったからと言って、チケット代は高くできなかった。しわ寄せは誰にいった?プロジェクトにお金がないのは当たり前すぎて、「仕事」の多くは金額を明示されないのも当たり前だった。より面白いものを無邪気に探求し晒し続けるのが当たり前で、暴力的な構造、理不尽さに目を瞑った。


では、私に何ができるだろうか。今は過去を振り返り言語化することだけだ。まだ今後どういった活動ができるのか、自分でも確信を持てずにいる。だからといって、やめないしあきらめない。当面は考え続けたいと思う。

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