2025年6月24日火曜日

私、呼吸でケージを超えるぜ ー"kq"CD編

その昔、"kq"CDを某古書店さんに営業に行った時、「こんなんただ呼吸している音が入っているだけでしょう(大意)」というようなご意見をいただいて、全くもってその通りですな、と思ってしまってヘラヘラ適当に笑っていたのですが、そんなことはないのです。

"kq"という拙作は、たしかにほぼ呼吸している音だけで構成されてはいるが、CDに入っているスタジオ録音した呼吸音、スローな「非楽音(ノイズ)」を聴いていると、不思議と落ち着くという身体作用が発生する「グルーヴィな(ノイズ)音楽」だと思っている。

さて、表題でっかく出ましたが、やらなければならないと思ってます。ジョン・ケージ(リンク先wiki)超え!

ケージの有名な作品『4分33秒』(1952年)は、「演奏」と(演奏によってしか生起しないとされる)「音楽」への疑義だと思っているのだけど、西欧近代的な美学へのアンチテーゼとして尖鋭化するあまり「フレームがないというフレーム」しかない。いわば、フレームを外した先に広がる荒野に「これが真の自由である」という看板だけが立っていると感じる。

私の立場からすると、「自由」は餅の絵を描いて看板を立てれば成し得るものではなく、身体と知覚へのアプローチを経て個々人のなかに起こり得るのだと考えている。自由は状況や定義ではなく、個々が感じ得る内的感覚の問題だと考えるからだ。

なので、「ほら、自由だ!それやるぞ!」というような自由観・芸術観を更新して、私は地に足をつけたフレームを提案する。フレームとフォーカスの必要性を、(自身と他者の)主観への作用可能性という観点から主張する。フレームとフォーカスを設定する以上、実は「上手い下手」が付随するのだがそれは傍に。

"kq"は、スローな呼吸音で時間を構成することで、演奏者と聴衆の身体の緊張を緩め、またその知覚を柔らかく広げ、内なる自由を味わうことへフォーカスされているのです。達成されるものは20世紀的な「真の自由」とは似て非なる、あなただけの個人的な自由になると思っています。決して「ただ呼吸している音が入っているだけ」ではないのです。

とかとか。"kq"を「上演」することは、また別のものだと思っているのですが。
CD試聴はコチラから。

2025年5月9日金曜日

「ここはどこかの窓のそと2」レビュー

窓の階公演「ここはどこかの窓のそと2」(脚本・演出:久野那美)2025年2月



文・佐々木すーじん(音楽家)



とても美しい演劇作品だと思った。


私は東京に在住しているが、東京公演のテルプシコール(中野)での拝見が叶わなかった。ので、記録映像で観せてもらった。

冒頭、テルプシコールのコンクリートの壁と、ごちゃごちゃした舞台美術の設えと、(たぶん、劇場の外での)電車の音と、秋の昼間を思わせる照明と、俳優の衣装と、それらの均整に惹きつけられた。

なかなか観ない均整だった。(といっても私は年間で演劇作品を10本観てるかどうか、程度の観劇好きなのだが)

ポップでも奇想でも気取ってもいない。抽象化されていないが、舞台上にあたかも現実的な空間を建て込んでいるわけでもない。どこかで見た美術作品や作家の顔を連想しない。劇場の壁や環境音を借景しながら均整のとれた具体的空間が在るのは、むしろ人工と野生みの秩序ある混淆というべきか、手の行き届いた庭園、のような種類の空間だった。


図書館の建物外、でも敷地内というような空間での、司書らしき人(エプロン)と本の返却をしたい人(返却女)が対話してこの演劇の前半は展開し、中盤以降ルポライター?のような人(喋る男)が迷い込んで、話はより複雑になる。


かつて、久野さんのインタビューを読んだときに「私は一人の人間の生きざまを描くことにはあまり興味がなくて、個ではなく関係性を描きたいんです。」*1という言葉の意味があまり理解できなかった。

窓の階「ここはどこかの窓のそと2」を観てからだと、それが把握できた気がする。


タイトルにも使用される「窓」という単語は、「図書館」を擬人化して語られる、異なる時間における「概念の反復と同一性」とでも捉えられそうなメタファーとして作中にも登場する。

以下、久野さんから共有してもらった上演台本から引用する。



**

返却女 ...図書館の話です。同じところにずっとある、たくさんの図書館の話です。

エプロン 図書館の話?ふうん。同じ敷地に図書館がたくさん並んで立ってるんですか?

返却女 いえ、それは同じところとはいいません。並んでいたら同じ場所とは言いません。

エプロン ...

返却女 その図書館たちは。おなじ場所にいるために、おなじ時間にそこにいることをあきらめました。図書館たちはそれぞれ違う時代に存在していて、そこにはそれぞれの本が集められています。それぞれの時代の人がそれぞれの時代の本を読みにやってきます。

エプロン ...

返却女 そして、同じ窓から外を見ている。

エプロン つまり、同じ図書館?(混乱している)

返却女 同じじゃないんです。

エプロン ...。

返却女 同じ窓から別々の風景を見ている、たくさんの図書館の話。

エプロン ... 。

返却女 長い歴史の中で、図書館は次々に入れ替わります。

エプロン 入れかわる... 。

返却女 外から見ていても中にいてもわからないんですけど、実は次々に入れ替わっていく

んです

エプロン ...

返却女 新しい図書館が生まれる瞬間、旧い方の図書館は同時にそこから消えていきます。

エプロン ...

返却女 図書館へ来る人たちは、そこにたくさんの図書館があることを知りません。図書館自身も。過去に自分とは違う図書館がそこにあったことを知りません。これから先、自分とは違う図書館がそこに現れるかもしれないとも思いません。ただ、同じ窓から外を見ている。まったくおなじ場所に建つっていうのはそういうことです。そういう、たくさんの図書館の話です。



**

「図書館」という具体物を指す名詞を擬人化しているので混乱するが、「文化」や「葛藤」などの抽象的な概念を代入すると、浮かび上がるようにイメージがつながらないだろうか。まるで、人類の歴史の積み重ねと繰り返しをはるか遠くから眺めているような、原子核と電子がつくる円環に太陽系を重ねて見てしまうような。


この演劇は虚構と現実(=虚構でないもの)という二項対立を柱にしているように思えるが、実はその二項対立自体が意味をなしていない(なぜなら、絶対に客観的な視点という存在自体が虚構だから)という視座が、第三の登場人物「よく喋る男」の登場以降、何度も暗示されている。

「よく喋る男」の台詞を引用する。



**

エプロン あなたは、本を書く人なんですか?

喋る男 本も、書きます。

返却女 物語を創る人ですか?

喋る男 僕は物語は作りません。事実を言葉にするんです。

返却女 事実を言葉したものは物語じゃないんですか?

喋る男 それは物語じゃないです。事実と言うのは、そこに一つしかないほんとうのことです。物語というのは、予めどこかにある別の枠組みを使って語られたもののことです。僕が書きたいのは、事実そのものです。自分の目で見た事実を、そのまま、嘘のない、そこにしかないものとして書きたいと思ってます。... 言葉で書くのは難しいんですけどね。

返却女 難しいんですか?

喋る男 うーん、人間は、今初めて見たものでも、自分の知識や経験を基にして理解してしまうし、言葉の背景にある文化や価値観を通して目の前のものを見てしまうし、無意識に、何かのパターンに当てはめてしまうし、... 事実をそのまま言葉にしようとしても、どうしてもその事実と関係ない物語が入り込んでしまう。言葉は、そこに在るもの以外のものを書いてしまいそうになる。でも、僕が書きたいことはそういうのじゃないんです。



**

なにかしら真理らしきものを語っている風であるが、学生時代哲学をかじった私は思わず「んなわけあるか!」とツッコミたくなるような絶対的真理が(アプリオリに)存在する、という認識の人物である。

先に引用した返却女が語る図書館の物語が「概念の反復と同一性」の話だとして、同じ本をこの喋る男が読んで要約すると全く別の話が立ち上る。同じ本を読んだはずなのに感想や着目点は全くの不一致という、誰もが体験したことのあるようなエピソードを拡張したような印象である。

喋る男は、以下のように要約する。



**

喋る男 妖怪の遺伝子の話?いや違うか。虚構の物語の... その... あれこれについて?

返却女 ... ん?

喋る男 ひとことで説明するのは難しいんです。

返却女 キョコウ?

喋る男 虚構。ほんとうじゃない架空の出来事。実体のない物。嘘の世界。

返却女 つまり嘘?嘘の話?そして、遺伝子????

喋る男 こんな説があるの知ってますか?「実は、遺伝子の方が本体で、遺伝子が、生き物の身体を乗り物にして、自分たちを増殖させて、自分たちを未来の世界へ運んでいく。」

返却女 ふうん。で?

喋る男 虚構の世界も、それと同じなのかもしれないって話です。

エプロン・返却女... ん?

喋る男 (説明する)虚構というのは事実と違って、個人が創った作り話なわけですから、創ったひとの生まれた時代や文化や価値観や個人の考え方によって違ってるはずです。なのに、地域も文化も民族も言語も違うところに、同じような神話や伝説が昔から在ったりする。現代でも、全然関係ない別々の虚構の物語に共通の気配とかイメージとか構造があったりする。

エプロン ふん、

喋る男 実は「虚構」にはその元になる遺伝子のようなものがあって、人間が生まれるずっと前からあって、それが場所や文化や時代を超えて遠くへ、未来へ、いろんなところに散らばっていった。世界中にある虚構の物語は実はみんな同じ遺伝子で繋がっている... 、っていう話です。

返却女 虚構の遺伝子も生き物が運ぶんですか?

喋る男 虚構の遺伝子は、人間の言葉が運ぶんです。

エプロン 人間の言葉?

喋る男 虚構は現実の世界に「言葉」だけで存在してるんです。たとえば、妖怪みたいな架空の生き物でも。「妖怪」っていう言葉で表せば、実体がなくても虚構のまま現実の世界に存在できる。

エプロン 現実の世界のどこに?

喋る男  どっかに。世界中のあらゆるどっかに。実体がない、つまり誰にも見えないわけですから現実世界では孤独ですけど、でも、時代も場所も超えて、彼らの仲間はあらゆるどっかに必ずいるんです。



**

クロード・レヴィ=ストロース(読んでないけど)のような文化や中心の相対性に関する言説と、リチャード・ドーキンス(読んでないけど)とを経て、「虚構の遺伝子」という概念にまで華麗に跳躍する。

作家のインスピレーションが作品を現前させるのではなく、「虚構の遺伝子」が自らを運ばせるために作家に作品を作らせている、という転倒は、西洋中心的な芸術観から脱却する視座とも捉えうる。が、私も「極東の辺境国」で日々音楽を創るものとして感じるのは「救い」である。


なぜ、生活費を別の仕事や家族から捻出しながらも日々創作の継続に苦しまなければならないか、という作家として背負う「さが」とでもいう問いに「虚構の遺伝子を運ぶため」という回答のように思えたのだった。そしてそれは「神さまが試練を与えたため」という宗教的な救済に類似するような超越的な視点であるように思った。

東京を中心にすれば久野が本拠地とする大阪は辺境だが、欧米を中心に据えれば東京も辺境でしかない、というように中心は相対的で流動的である。にもかかわらず、爆発的な評価を得られない限り、作品創りを生業にはできない。上演芸術なら(流通の難しさから)尚更である。

だからと言って、アーティストが皆んなひとにぎりの「選ばれたるもの」になる為に作品を創り続けているわけではない。ではなぜ?なぜ苦しまなければならないのか?評価という「中心」らしきものの対象から零れ落ち続ける、日々の無数の作品たち。私たち日本拠点のアーティストはそのような煩悶に日々回答を迫られているはずである。


その苦しみへの回答としての「虚構の遺伝子」という久野の概念に乗るなら、遺伝子たちは「ここはどこかの窓のそと2」において自己の存在を明示するだけではなく、その存在意義を何度も主張する。「虚構」は、ひとりの個人の主観にのみ存在している状態では存在も定かにはならないが、集積することで「現実」を形づくると暗示する。いや、むしろ「現実」と呼ばれるものは「虚構」の集積に過ぎないといっているように思える。いわば、「虚構の遺伝子」が現実を相対的・流動的に構成し、(まるで図書館の寓話のように)時代ごとに反復されることで同一性を保ちながら、ながらえていると考えられる。

一見するとニヒリスティックにも思える態度のようだが、そうではない。それは、日々の苦しみへの回答であり、真摯な祈りのように魂の救済を目的としている脱中心的なひとつの宇宙観に思える。なぜなら、作品の登場人物たちの誰をも、おそらく久野は完全に突き放していない、賢しらさも愚かさも不器用さもあきらめも引っくるめて、どこかに「愛」があることが伝わってくるような舞台だったから。


そのように登場人物が織り成す線から浮かび上がるように、幾何学模様/久野自身の「宇宙観」が立ち上るような演劇なのだが、その象徴のように作中では「円と直線の物語」という寓話が挿入される。

以下、引用する。



**

エプロン (唐突に)え、え、円と直線の物語!

返却女 え、え、え?えん?(びっくりする)

エプロン 知ってますか?えっと..

返却女 円と直線?

エプロン 円には円の物語があって、直線には直線の物語があって、どっちの物語にもある点が一点だけあって、でもその物語の世界では点には面積がないから、円と直線はそこで一瞬だけすれ違うんです。一瞬だけ出会って。そして別れていく... 。

返却女 それは悲しい物語ですか?

エプロン かなしい?

返却女 それとも、幸せな物語?

エプロン それは... 円によるし、直線によるんじゃないですかね?

返却女 面積の無い場所でどんな風に出会うんですか?

エプロン ... 円が?

返却女 線と。出会って、それからどうなるんですか?

エプロン 「そのとき円は直線の一部になる。直線は円の一部になる。」

返却女 それで?

エプロン それだけ。そして別れて行く。

返却女 それで?

エプロン おしまい。



**

まるで「ここはどこかの窓のそと2」が持つ物語としての展開を簡略化・抽象化したような「虚構」である。エプロンと返却女と喋る男とが、それぞれが全く別の主観にもとづき世界を認識していることが、一瞬だけ交わって別れゆく。

ここでも「何も(劇的な事件が)起こらない」という点のみに着目しすぎてはいけない。むしろ劇的な事件は起こっていると見るべきである。

なぜなら、登場人物のバラバラな世界観、「虚構」は、一瞬交わって私たち観客に共有可能なかたちでの「現実」を現前させたからだ。


そして、ここまで書いてきて、わかったことが一つある。

強く惹きつけられるこの空間の均整とは、ここでも「虚構と現実」と「抽象と具体」とが、パラレルな線を保ってつくられる緊張にほかならない。久野自身の「すべての現実(具体)は、虚構(抽象)の集積である」という美意識、確信の、徹底によるものだったのだ。





窓の階「ここはどこかの窓のそと2」販売ページ

↓(2025/05/09 00:00 〜 2025/06/30 23:59 初回セール価格で配信)https://xxnokai.stores.jp/items/6819e781e217856eb341cf94



*1

第12回せんがわ劇場演劇コンクール受賞者インタビュー(1) グランプリ 階(缶々の階)~久野那美さん(作・演出)

https://www.chofu-culture-community.org/pages/sengawa-theater-drama-competition-12th-interview01


2025年4月11日金曜日

勝手に他己紹介(4 佐藤駿さん

佐藤駿さんは俳優さんで、昨年のせんがわ劇場演劇コンクールで初めて話しました。なのに、佐藤さんはめちゃくちゃ気の良い人なので、速攻「さとしゅん」さんという愛称で呼んでいます。


佐藤駿さんアーティスト写真(撮影 瀧本信幸)↑プロフィール↓


佐藤駿

2016年ごろより、演者としての活動を始める。映画美学校アクターズコース一期初等科修了。横浜国立大学大学院Y-GSCスタジオ修了。2016-18年、パフォーマンス作品を作る集まりとして「犬など」を主宰し創作を行う。
近年の主な舞台芸術作品の参加団体に、バストリオ、Dr. Holiday Laboratory、屋根裏ハイツ、など。ソロでの発表は今回が初めてです。ふだん自分が舞台にいる時に大切にしていることを「即興」という観点から考える機会にできたらと思っています。

 

私は屋根裏ハイツ『すみつくす』という演劇で、さとしゅんさんを一方的に知っていたのだけど、その時は「この人は素でこういう人なのかな?」という妙な違和感と存在感を残しつつ、自然体過ぎてすごい技術なのかすごい天然なのか判断つかなかったのです。

それが、せんがわ劇場演劇コンクールで屋根裏ハイツ『未来が立ってる』を拝見した時、妙な違和感と存在感はそのままに別人のように居るではないですか!びっくりしたんだよね。すごい技術だと思った。

昨年、クラファンのリターンで屋根裏ハイツ主宰の中村大地さんとお話したとき、「すみつくすは、各上演の俳優たちのセリフの間の取り方やどういう動作を選択するかが毎回違って、セッションみたいだった」「さとしゅんは、(本番中に試して失敗すると良くないので)稽古場で試して失敗しておきます、と宣言してから演技したりするんですよね」と中村さんが仰っていて、共感しつつ、向上心あるスゴい人なんだな〜と思っていたので、今回お招きできてとても嬉しいです。(もちろん自分の企画に参加してくれるアーティストはいつでもみんな参加決まって嬉しいですが!)

さとしゅんさんはご参加が決まるや否や、「自分はソロが初めてなので、すーじんさんの稽古を見学させてもらえませんか?」ということで、3月の終わりにさとしゅんさんと稽古したのですが、私のリハーサルでの作業を見てからの言語化する精度と密度が高く、かつ情報量も多くて、すごい俳優さんだと改めて思いました。しかも気の回し方が上手で嫌味がないのよね。不思議。

そんなさとしゅんさん、その稽古でお会いした時に「まだ何も手をつけてないんですが」とハニカミつつ、興味深い即興のプランをいくつも話してくれました。おお...本当にすごい人だッ...!すごい俳優さんて作家脳なんだよねと思いつつ、4/19は何を見せてくれるのか楽しみです!

生きてますもの、屁も垂れます#2』、絶賛ご予約受付中です!


2025年4月3日木曜日

勝手に他己紹介(3 星善之さん

星さんは、第12回せんがわ劇場演劇コンクールのファイナリストでして、私が第14回せんがわ演コンのファイナリストになったころ、ワーって資料に名前が載ってた人を、SNSでフォローしまくった中の、おひとりであります。その節は突然失礼しました。星さん、フォロー返してくれました。どうもありがとうございます。

さて、そんな星さんが演出を務める第12回せんがわ演コンの出場作品「『なめとこ山の熊のことならおもしろい。』」がこちら↓です。開場から始まっているタイプの作品なので、開始9分くらいから喋り始めています。


面白いですね。私も昨日ようやく拝見しました。現実と虚構の入り混じり方が面白い。


星善之さんアーティスト写真↑プロフィール↓

福島県西会津町出身。演出家・パフォーマー。
創作ユニットほしぷろ主宰・旅するたたき場代表、せんがわ劇場DELメンバー。
フリードリッヒ・フォン・シラーの美的自由をパフォーマンスの根幹におき、演出している部分と即興で立ち上げている部分との混在、現実と虚構の行き来、観客席と舞台との境界線の融解を狙って創作を行っている。

うんうん。フリードリッヒ・フォン・シラーのことは、私はよく知らないのだが、「現実と虚構の行き来」「観客席と舞台との境界線の融解」は、まさに「『なめとこ山の熊のことならおもしろい。』」で実現されていると思いました。

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なんで今回星さんにお声かけしたのかな?というと、昨年、Twitterのスペースで星さんが活動報告みたいなのを懇々とひとりで語っていたのを聞いたんだよね。なんか誠実なお人柄だけでなく、自分のコミュニティ外の人ともつながろうという意志を感じて、気になっていたのでした。

しかしなかなか私も腰は重いし、一緒に暮らしている子どもは幼いし、パートナーはフルタイムで働いてるし、で、なかなか拝見できなかったのですが、先日3/15にゲーテ・インスティチュートでのパフォーマンスに立ち会い、その静謐で真摯な質感に一緒にイベントやってみたい!と霊感ビビビ訪れ3日後にオファーしたのでした。

だから、たぶん私が知ってる以上に星さんは様々な選択肢や発想を持っていると思うんだよね。どうなるのかな。4/19、本番が楽しみだぜぃ!

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2025年3月28日金曜日

勝手に他己紹介(2 今成哲夫

哲夫との付き合いは実は相当ふるい。高校の先輩と後輩であった。けど、ひきこもり最前線だった自分は、はにかみながら会釈してくれた後輩としてのイメージが薄ら残っているだけである。再会は、2007年ごろ、京都大学の吉田寮(哲夫は寮生だったのかな...よく知らない)食堂でのライブイベントに呼ばれて行ったときに挨拶してくれて、お互いなんとなく覚えていた。

だから、「哲夫」と敬称略で呼ぶのは元後輩だからではなくて、吉田寮界隈の習慣であって、哲夫も私のことを「すーじん」と呼ぶし、なんとなく親しいのである。


今成哲夫アーティスト写真↑プロフィール↓

ピアノを弾いて、うたを歌う。

<最近の活動>ソロのアルバム『like a song』を発表。(2022)

画家の阿部海太の詩と絵に曲をつけての演奏(2024.長野 本・中川にて)

R星、suzmenba、岡田了との共作、白目の『pass』発表(2024)。

各地でお披露目ライブ。

2025年から、自宅の庭を作っています。



そんな哲夫のバンド「風の又サニー」と、対バンしたのが小岩BUSH BASHで2017年(のようだ)。出演の経緯は全く記憶にない。けど哲夫が誘ってくれたんだろうね。

哲夫は私の"a440pjt"というインスタレーションを即興で作るパフォーマンスを気に入ってくれて、私の出番終了後「風の又サニーにも出てよ」と誘われ、陽気で愉快なステージの片隅でワクワクしながら三点倒立をした思い出。

うん、よくわからないことだらけだ。でも哲夫の音楽が好きで、風の又サニー1st『manco monaco』、今成哲夫名義での『COINCASE』『LIKE A SONG』、そしてこの間、白目(今成哲夫+R星)『pass』も買ってしまった。どれもとても好きだ。

哲夫に「音源よく聞いてるよ」と言うと、「嬉しいな」とはにかみつつ、「でも俺は自分のことしか考えてないからね。自分を掘り下げたってだけだから」なんて謙遜するのである。そんな哲夫が大好きで、だから今回自分のイベントに出演してくれることになって、大変嬉しいのであった。

生きてますもの、屁も垂れます#2』、情報公開しております。

2025年3月21日金曜日

勝手に他己紹介(1 清水めぐ美さん

生きてますもの、屁も垂れます#2』、情報公開しております。

さて、今回はその参加アーティストの一人清水めぐ美さんをご紹介しようと思います。


清水さんのアーティスト写真↑プロフィール↓

親によると、2歳の頃から山に影響を受けていたらしい。京都日本画でのスケッチの重要性から現場に興味を持つ。宮古島‐中国へ。中国書画と行為芸術に出会い、主に大陸内で制作発表。広東汕頭大学芸術学院などで短期講義。2016年帰国後、山水画や山岳信仰など、中国古典と東アジアの山に関する比較民俗学を通じ、存在についての思考を行っている。


清水さんは、たくみちゃん(「ちゃん」までがアーティスト名)のTOKASでのイベント「-#2」でご一緒したのですが、


その時、清水さんは「翻訳・文芸協力」という肩書きで、ただならぬ雰囲気だけを感じさせつつ明るく朗らかに笑うお姉さん的な立ち位置でした。

しかし、この人タダモノではない!と直感したので、2023年の「生きてますもの〜#1」に参加してもらったのですが、本当にタダモノではなかった!笑

本番の即興パフォーマンスが始まったかな?と思ったら、突然、お客さんに「私が漬けたピクルスなんですよ〜ぜひ食べて頂きたいので取りに来てもらえますか〜?」と、舞台中央で大瓶に入ったピクルスを小皿に小分けにして振る舞い出して、最初は戸惑っていたお客さんも「あ、美味しい!」という小声の口コミが伝播していき、ほぼ全員ピクルスを食べたでしょう。客席がいい感じにほぐれたな、というところで今度は1セットの折り紙を取り出し、「何色が出たら終わるってことにしましょうか?」とにこやかにお客さんに聞きながら、誰かが「水色」と答えると、1枚づつ、別々のお客さんに引かせるではありませんか!

なんという即時性、お客さんと「その時その場かぎり」を共有する、素晴らしい即興パフォーマンスだと思いました!

さてさて、今回は何が飛び出すのか!ワクワク楽しみにしております。

2025年3月13日木曜日

君と踊りあかそう日の出を見るまで

昨今とみにキナ臭いニュースが多い気がして、気が滅入る。春先の気候のせいか人身事故も多い気がする。

2015年、安保法制の反対デモに参加するために国会前にいた。まだハタチくらいの若い男性が、デモ隊に「じゃあ対案出せよ」と罵声を浴びせていた。「Aという法案に反対するなら対案を出すべき」とか「その財源は?」とか「あなたの頭の中はお花畑だよ」とか、どうでもいいことに私たちは賢しらになっている。民主主義とか、民主化とか、(少なくとも日本語文化圏では)もうかつての輝きが失われて久しい。もう安保法制強行採決も、10年前になるのね。

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私たちが私たちという共同体になるために、建設的な方法はコミュニケーションのみだと思うのだけど、「主観と主観の交換」という表現を最近知った。
『ケアする対話 この世界を自由にするポリフォニック・ダイアローグ』という本で知った。

「ケア」という言葉の流行を、少し敬遠していたのだけど、私のような初学者にこの本はなかなか良いようです。
twililight(トワイライライト)という三軒茶屋の本屋さんにふらっと入り、目に止まって買いました。

「主観と主観の交換」の箇所を引用する。オープンダイアローグというケアの技法を7つの原則から説明している、7つ目の箇所。
7つ目の「対話主義」は、対話自体を目的化するーーもっと言えば、対話さえ続いていればなんとかなるという、一種の楽観主義のことです。但し、議論、説得、説明、アドバイスなどは対話ではありません。これらはすべて結論ありきで、それを相手に飲み込んでもらうためにするモノローグです。それから、「正しさ」や「客観的事実」も有害な概念です。何が正しいとか、何が客観的かということを一旦忘れないと対話はできません。対話というのは主観と主観の交換ですから、いかに相手の主観をみんなで共有するかということを考えます。(p41)

自分や、自分たちの子どもや、自分の友人、その子ども、大切な人、親族、皆んな生き延びてほしい。生きられる、生き延びられる知恵のようなものが、小さな本屋さんや小劇場や美術館やアスファルトの道端に転がっている。それは素晴らしいことでしょう。

そういう小さな営みを大切にすること。他者の小さな営みも、自分と同等に尊敬する(個人的に「尊重」という言葉の不明瞭さが苦手なので、「尊敬」にしてます)こと。それは、ひとりひとりを砂つぶに還元しないという意味で、価値相対主義とは異なる、新たな可能性だと思う。私は小さな希望を持っています。

余談ですが、このブログ記事のタイトルはJAGATARA『君と踊りあかそう日の出を見るまで』を借用しました(笑)



2025年3月7日金曜日

見知らぬ他人は見知らぬ他人か

まだ(また)ボンヤリとだが、思うことありまして。先日ライブハウスで観客としてヤイノヤイノ楽しんで居たら、思わぬことで傷ついた話をば。

演者さんは、割と名前を知られてる人だったんだけど、即興?コントを合間合間に挟むタイプの人で、初見だったんですわ。

で、まぁそのコントのトーンにも全体的に私は乗れてなかったから、その上での話なんだが、唐突に「パワハラ演出家」をステレオタイプな感じで茶化しつつ一人芝居してたんだよね。

もはや誰とは言わないけど、私は10年前に振付家のパワハラがヒドいカンパニーに所属していて、3年で失踪と自殺未遂してうつ病で通院することになったんだわ。その通院も服薬も今でも続いてる。

その振付家と、ステレオタイプとして演じられていた「パワハラ演出家」は似て非なるものではあったんだけど、自分がかつて心を傷つけられた時間を再現して誰かがどこかでその場の笑いをとってるかもしれない、ということを連想してしまい、つらくなって友達にも挨拶できずに退散しました。

一応、そのライブハウスも場末感ある老舗、ではなくて、比較的新しい場所で「誰もが集える場所を」みたいなステートメント?まで出していたけど、自分以外のお客さんが皆んな笑ってる状況で、私は二度とその店には集わないし集えないな、と思った。

私は裁判起こしてないし社会的なハラスメント被害認定はないけど、10年前とはいえ傷に塩塗られて良い気持ちはしなかったよ。

何が言いたいかというと、私はその表現者のライブにもう行かないだけでなく、他の対バンに対しても印象悪くなったし、(即興かもしれないとは言え)そういう表現を看過したライブハウスには行きたくない。というか、ライブハウスが自分で宣言してることすら実践できてないという、ダラシない意味での「危険な場所」だと思えてしまう。(そうじゃないライブハウスもあると思ってるけど)

そういう諸々を、傷ついた側が指摘しなきゃいけないのもつらいな、と思いつつ、関係者の名前を出さずに書きました。表現者や表現の場が好きな人ほど、こういった可能性について日々気をつけて欲しいなと思います。

ぴーす。



2025年2月28日金曜日

息だけしてゐる

ウツで精神障害者手帳2級を持っている私としては、布団に寝そべって眠るわけでもなくスマホを見る余力もなく「息しているだけだな」という時間が膨大にある。

からだが重い。気持ちが興らない。何も手につかない。という、不定期に訪れる不調と共に生きるようになって10年以上経つ。よく生きて来られたものだ。

**

"kq"の「呼吸音で時間を構成する」という当初のコンセプトも、息しているだけのたくさんの時間、その経験という土壌から萌芽、発案したものである。

息してるだけの時間を、そのまま舞台に上げるという私の頭の片隅にあった夢は実現したとも言えるし、してないとも思う。極度の集中力、緊張感を持って舞台上で観客や環境音と「共存」しようとすることで、結果「舞台でのお約束」的な制約が発生している。

「お約束」を徹底できるほどの技術は残念ながらないのだが、それでもやはり「視線が宙空を漂わないべき」「咳やクシャミなどのアクシデントを避けるべき」「場の責任を引き受けて一挙手一投足自覚的で在るべき」などなど、なぜか無数のお約束を自分に課している。

2017年、ソロ活動をしようと自覚的に発表した"a440pjt"という作品は、インスタレーションを即興的に設営し、最終的に自分もその一部になる瞬間を作る構成だったのだけど、自分を「物化」することでなんとか自身を上演の場に置くことを可能にさせる作品でした。


だから、パフォーマーとしての自我は「ない」ように振る舞えていたし、即興的な要素も強かったのでアクシデントが起こることもままあった。

それが今ではどうですか。「呼吸」を題材にしているはずなのに、息苦しい作品になってはいないか。

昨年、秋の関西ツアーでパコカパ(神戸)というライブ居酒屋に行った時、上演前にパコカパ店主・だるそんが「すーじんさんの上演は、お客さんに静かに聞いてほしいのか、それともお客さんはのびのび聞いていていいのか」という旨の質問をしてくれて、その日から前説で「お客さんもリラックスして聞いてほしい、衣擦れなど多少の音が出ても気にしなくていい」ということを伝えるようになった。

小さくて大きな一歩である。

それにしても自分の舞台に「お約束」が発生してしまっているのは、なんとかならんのか。
「お約束」の正体は美の排他性であるように感じている。

2025年2月21日金曜日

今成哲夫と海に行く

先日、うちの子どもを連れて友人のシンガーソングライター今成哲夫と三浦海岸に行った。レンタカーでひゅっと行ったから、どこの駅からも遠い、冬の海。子どもは貝殻を拾い集め、その隙に哲夫からもらいタバコをする。ここ数日、東京はとても寒いけど、陽が照ってとても暖かかい。子どもと哲夫が浜辺の漂流物などを拾ってきては並べて遊んでいる。


どこまでも広がる青い青い空間と、柔らかい波の音と砂浜を踏む足裏の感触と。私はなにかしら気が昂ってきて、上着を脱いで砂浜に両膝をつけうずくまる。遠い海岸線に向けてお辞儀をしたり、水平線に正対したり、砂に両掌を押し付けたりしている。もどかしい。この高揚を、表現できない。

なんて自由なんだろうと、久々に思った。そのとき、なにかから解放されていた。なにから?生活?自意識?義務感?なんだかわからない。私は子どもを目で追いながら、海と空に静かに侵食されていった。

中学生のとき、地元友達と二泊三日野宿しながら東京から千葉県の東側、九十九里の海岸まで自転車で行った。あの時の感じ。何も変わっていないんだな。あの息苦しさは、また私の生活にまとわりついているのか。

いや、変わっていなくはないのだ。私はあの時ほど生きること、生きていくことに恐れはない。新しい家族と生活し、しなければならないことや責任が増え、自分のやりたいことに意識を向ける時間を作るのが難しくても。私はいまは不自由ではない。生きることを恐れていない。

時々、私はなんでこんなに「誰か」のために生きられないのだろうと思う。家族のため、人のため、社会のため、国のため。全て私からはつながっているように見えて、苦手だ。苦手だ、という直感より先行して、私という人間に欠陥があるのかと、疑念がよぎる。でも、もう仕方ないのだ、私は私だから、と言い聞かせる。

やるべきことは後からついてくる。なにの後?やりたいこと?やりたいことなんてあったっけと思う。誰もからも望まれていないのに、表現活動をやり続ける。やり続けている。理由はよくわからないが、少なくとも「誰か」のためではない。

今朝、子どもが三浦で拾ってきた貝殻を紙粘土に埋め込んで、なんだかわからないものを作った。

2025年2月14日金曜日

僕、パンク・ロックが好きだ

「僕、パンク・ロックが好きだ」このブルーハーツのフレーズ、何万回擦られても生き返る感じがあるよね。今回はパンク・ロック、もとい遠藤ミチロウさんについて語ります。

1984年生まれの私は、中高時代にHi-STANDARDやbrahmanが「パンク」として人気を博していたが、当時セックス・ピストルズが大好きだった私としては「孤独じゃないのはパンクじゃない!」という抵抗感で胸がいっぱいだった。

今聞くとハイスタもブラフマンも結構いいなと思うけど、私は中高時代は悪魔崇拝(笑)に取り憑かれていたもので、ただアレンジがシンプルで早い曲というだけで爽やかな「制汗剤臭いパンク」なんてパンクじゃないと心の奥に噛み締めながら、先輩たちのコピバンに付き合いでヘドバンしていた。

さて、それで今回は遠藤ミチロウ(1950-2019)さんについて書いてみたいと思います。

ミチロウさん、と親しみをこめて呼びたいが面識ないのにオコがましい感じがするので、遠藤さんと書きますが、泣く子も黙る日本のパンクバンド、ザ・スターリンのフロントマンであります。


意外とYouTubeに80年代のザ・スターリンの動画は多いので、気になった方は検索してみてください。(APIA40さんがあげてんだね)
ちなみに上記の動画ではドラムをブランキージェットシティで知られる中村達也さんが叩いてる模様。照明がほとんど当たらないので顔がわからないが...

こんな絵に描いたような「過激さ」だけど、メジャーデビュー時、遠藤さんだけ既に30代なんだよね。他のメンバーは20歳くらい。(初代ギターでサウンドに大きな影響を与えたという金子あつしさんは年齢不明)

町田町蔵(あの町田康)がフロントマンのINU『メシ食うな!』が1981年、アンサーソングであるザ・スターリンの『ワルシャワの幻想』が1983年。


最初聞いたときは、「俺の存在を頭から輝かさせてくれ」「メシ食わせろ」など、ただ反対語を並べただけのヒネクレアンサーソングかと思ってたんだけど、柳美里さんの『JR上野駅公園口』を読んでから、1950年代福島県生まれの遠藤さんが「お前らの貧しさに乾杯」と歌う意味というか、スゴみ、深みは心に沁みるものがある。

2011年の東日本大震災以降に発表した『FUKUSHIMA』(2015)には、『ワルシャワの幻想』セルフカバーの『三陸の幻想』、福島県浪江町のことを題材にした歌「NAMIE」が収録されていたり、遠藤さんが設立時に代表を務めた「プロジェクトFUKUSHIMA!」では盆踊りを発案したとか。

遠藤さんのことを考える。どこかで故郷や家族、身近な人のことを思いながら、全てを拒絶するパフォーマンスを貫いた人。INUの町田町蔵という年下の才能を目の当たりにして、嫉妬したか。いや、むしろ、遠藤さんは音楽がめちゃめちゃ好きだけど、「音楽からは愛されていない」という距離を感じていたのではないかと思う。だから遠藤さんは嫉妬しなかった。ただ、別の「戦い方」を希求した。

遠藤さんの「パンク」はシンプルでわかりやすかった。多分、わかりやすさにこだわった。シンプルなメロディと、全てを拒絶するような言葉遣いの歌詞にこだわった。なにに関しても「アンチ」であるかのように振る舞った。当然、孤立しただろう。メンバーも入れ替わり立ち替わりだった。

そして遠藤さんはひとりになる。1994年は、『カノン』や『Just Like a Boy』など素晴らしいアコースティックギター弾き語りの「歌もの」を収録している『空は銀鼠』を発表している。どちらも内省的で影のある歌が弱々しく吹き込まれている。

ザ・スターリン以降は、派手なパフォーマンスはせずに晩年までいろんな人とバンドを結成したり、アコギ一本での弾き語りツアーの傍らサイドプロジェクトを立ち上げたりしている。人徳なのかもしれない。孤立していても人から慕われた。もちろん、この辺りのことは身近な人にインタビューでもしないとわからない。

でも、どこにも属さない、のではなく「属せない」さがを背負っていたのではないかと空想する。それを、「アンチ」にまで先鋭化させて振る舞っていたのではないか。「属せない」からこそ、「家」、「父母」そして「日本」という制度に違和感しかなかった。そのさがを最期は肯定できたんだろうか。

そんなことを思う。

2025年2月7日金曜日

「正しさ」のない世界に正しく絶望する

アメリカでD・トランプが再び大統領になって、この数週間で論理的・倫理的「正しさ」は退廃している。建前ですら「正しさ」を用いないとはどういうことですか。ツラい。

ツラさをバネに頑張るしかないっす、と己を奮起させようとしても気持ちは立ち上がらない。この世界で何ができるというのだ、という虚無感が強すぎる。

D・トランプが大統領になり、かなりの大統領令を発している。

【随時更新】トランプ氏が大統領令に続々署名 一目で分かる政策一覧(朝日新聞)
https://www.asahi.com/articles/AST1L1T17T1LUHBI009M.html

「「侵略」する外国人の入国禁止」「性別は男女の二つのみ」「DEI(多様性・公平性・包摂性)の取り組みを廃止」「「パリ協定」から離脱」などなど、みているだけで悪趣味で無教養で邪悪な人間性が垣間見える。

また、パレスチナのガザ地区をアメリカが「所有」するという旨の発言が一昨日、2月5日かな。とにかく醜悪でうんざりする。人間をなんだと思ってるんだ。

と、このようにD・トランプ氏のことを(たとえ感情的にであれ)批判・糾弾する姿勢が、日本の各大手新聞社などマスメディアに一切見られない。

「日本はアメリカの属国だからしかたないよね」という冷笑的な態度にならず、「どっちもどっち」で日和見して静観せず、ただただ「おかしい」「間違っている」と言い続けるのは、とても健全で建設的な態度だと思う。

2003年、大学1年のときに好きだった予備校講師のクラスでのディスカッションにモグリ、「イラク戦争は、空爆で女子どもを無差別に殺しているので間違ってる」という主旨の発言を最初に打ち立てたら、「もう既に起こっていることを批判するのは無意味だ」という反論をクラス中の生徒から頂いて、そのときは反論できなかったことを思い出す。

いまなら言える。「民主主義の限界」「欧米ヒューマニズムの聚落」だろうがなんだろうが、間違っていることは間違っている。お前の背中を子どもが見ているぞ、と思う。私はあらゆる差別に反対します。あらゆる理不尽な暴力に反対します。この意志を死ぬまで貫きます。

2025年1月31日金曜日

いうてタバコはやめられまへん

本番前ほど毎日はなかなかできていないけど、アシュタンガヨガの太陽礼拝を続けています。運動不足解消とともに、自分の大切な道具である呼吸器を持続して鍛えたいから。(いうてタバコはやめられまへん)

ライブハウスなどで活躍している即興音楽家の友人と、近々スタジオでセッションしようという約束をして、少しく昂揚している。こういうお誘い、お気軽にご連絡くださいね。
その友人とここ何回かお茶をして、「音楽」の不思議さに改めて驚いたりしている。


三木成夫『海・呼吸・古代形象』を(原島大輔氏が"kq"冊子に寄稿してくれた随想で参考文献に挙げていたので、今更ながら、なのですが)読んでいて、目から鱗が剥がれ落ちたりしている。

三木先生によると、延髄という脳の一部が、呼吸を司っているわけですが、延髄はその他消化や循環の中枢があるらしい。

その延髄が周期的に神経興奮(電気信号の放電だと私は捉えている)を起こすらしい。それが16秒周期と25秒周期で、呼吸や脈拍に「波」として影響すると。直感的には、多少前後するのかなと私は思うが、この16秒周期、BPM(beats per minute、音楽における「はやさ」を表現する用語)が120で4/4拍子なら8小節分に相当しますね、というようなことが噛み砕いて語られていた。

3拍子、bpm=90以下の音楽、変拍子やコラージュ、カットアップ、諸々、現代の音楽はもっと多様だし、そこが気持ちいいポイントにもなり得ると思うので、「普遍的な音楽は16秒周期」というロジックには私はちょっとノレない。

が、私が構想・実践する「呼吸による音楽」が、(ボイス・パーカッションなどのように)既存の音楽に使用される音素材を真似る態度、方法論ではなく、ただ息を吸う/吐くという動作が放つ音で構成する「時空間」を「音楽」だと主張していることに、太いスジが通ったように感じて感無量。

三木先生いわく、延髄の周期は海の「波」と深い関係があるのではないか、とのこと。
つまり、私たち陸上の生物も、海洋生物だった頃の記憶が刻み込まれているのではないか、と。

今年は海になろうと思っている。

2025年1月25日土曜日

仮想、白ギャル埋葬せよ

あーしギャルなんだけど、まぢ自称っすわ。でもって今年でうちもう41歳。でもって♂。
こんなんひとりで自称してたら間借りじゃなくて搾取っすわ。独自の美道を探求していくはずが、犀の角のようにただひとり歩むはずが、これじゃ資本主義のオニだよね。資本主義のオニは基本かわいくないよね。誰よりもかわいくなりたいよね。


でも別にげーのー人みたいになりたいわけぢゃないんだょね。
なんつーか、資本や体制と結託できてる時点でギャルぢゃないわけで。
もっと地面に近いところで生きていくんだょ、あーしがおもうギャルはさ。
こんな世の中、地球温暖化せちがれーってか、まぢ生きにくいじゃん。
それを生き抜く発明なわけでしょ。
かわいくなりたい人はみんなギャルになればぃいとおもうょ。
明日からでも間に合うょ。
ぴーす。