2025年2月21日金曜日

今成哲夫と海に行く

先日、うちの子どもを連れて友人のシンガーソングライター今成哲夫と三浦海岸に行った。レンタカーでひゅっと行ったから、どこの駅からも遠い、冬の海。子どもは貝殻を拾い集め、その隙に哲夫からもらいタバコをする。ここ数日、東京はとても寒いけど、陽が照ってとても暖かかい。子どもと哲夫が浜辺の漂流物などを拾ってきては並べて遊んでいる。


どこまでも広がる青い青い空間と、柔らかい波の音と砂浜を踏む足裏の感触と。私はなにかしら気が昂ってきて、上着を脱いで砂浜に両膝をつけうずくまる。遠い海岸線に向けてお辞儀をしたり、水平線に正対したり、砂に両掌を押し付けたりしている。もどかしい。この高揚を、表現できない。

なんて自由なんだろうと、久々に思った。そのとき、なにかから解放されていた。なにから?生活?自意識?義務感?なんだかわからない。私は子どもを目で追いながら、海と空に静かに侵食されていった。

中学生のとき、地元友達と二泊三日野宿しながら東京から千葉県の東側、九十九里の海岸まで自転車で行った。あの時の感じ。何も変わっていないんだな。あの息苦しさは、また私の生活にまとわりついているのか。

いや、変わっていなくはないのだ。私はあの時ほど生きること、生きていくことに恐れはない。新しい家族と生活し、しなければならないことや責任が増え、自分のやりたいことに意識を向ける時間を作るのが難しくても。私はいまは不自由ではない。生きることを恐れていない。

時々、私はなんでこんなに「誰か」のために生きられないのだろうと思う。家族のため、人のため、社会のため、国のため。全て私からはつながっているように見えて、苦手だ。苦手だ、という直感より先行して、私という人間に欠陥があるのかと、疑念がよぎる。でも、もう仕方ないのだ、私は私だから、と言い聞かせる。

やるべきことは後からついてくる。なにの後?やりたいこと?やりたいことなんてあったっけと思う。誰もからも望まれていないのに、表現活動をやり続ける。やり続けている。理由はよくわからないが、少なくとも「誰か」のためではない。

今朝、子どもが三浦で拾ってきた貝殻を紙粘土に埋め込んで、なんだかわからないものを作った。

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