2025年2月14日金曜日

僕、パンク・ロックが好きだ

「僕、パンク・ロックが好きだ」このブルーハーツのフレーズ、何万回擦られても生き返る感じがあるよね。今回はパンク・ロック、もとい遠藤ミチロウさんについて語ります。

1984年生まれの私は、中高時代にHi-STANDARDやbrahmanが「パンク」として人気を博していたが、当時セックス・ピストルズが大好きだった私としては「孤独じゃないのはパンクじゃない!」という抵抗感で胸がいっぱいだった。

今聞くとハイスタもブラフマンも結構いいなと思うけど、私は中高時代は悪魔崇拝(笑)に取り憑かれていたもので、ただアレンジがシンプルで早い曲というだけで爽やかな「制汗剤臭いパンク」なんてパンクじゃないと心の奥に噛み締めながら、先輩たちのコピバンに付き合いでヘドバンしていた。

さて、それで今回は遠藤ミチロウ(1950-2019)さんについて書いてみたいと思います。

ミチロウさん、と親しみをこめて呼びたいが面識ないのにオコがましい感じがするので、遠藤さんと書きますが、泣く子も黙る日本のパンクバンド、ザ・スターリンのフロントマンであります。


意外とYouTubeに80年代のザ・スターリンの動画は多いので、気になった方は検索してみてください。(APIA40さんがあげてんだね)
ちなみに上記の動画ではドラムをブランキージェットシティで知られる中村達也さんが叩いてる模様。照明がほとんど当たらないので顔がわからないが...

こんな絵に描いたような「過激さ」だけど、メジャーデビュー時、遠藤さんだけ既に30代なんだよね。他のメンバーは20歳くらい。(初代ギターでサウンドに大きな影響を与えたという金子あつしさんは年齢不明)

町田町蔵(あの町田康)がフロントマンのINU『メシ食うな!』が1981年、アンサーソングであるザ・スターリンの『ワルシャワの幻想』が1983年。


最初聞いたときは、「俺の存在を頭から輝かさせてくれ」「メシ食わせろ」など、ただ反対語を並べただけのヒネクレアンサーソングかと思ってたんだけど、柳美里さんの『JR上野駅公園口』を読んでから、1950年代福島県生まれの遠藤さんが「お前らの貧しさに乾杯」と歌う意味というか、スゴみ、深みは心に沁みるものがある。

2011年の東日本大震災以降に発表した『FUKUSHIMA』(2015)には、『ワルシャワの幻想』セルフカバーの『三陸の幻想』、福島県浪江町のことを題材にした歌「NAMIE」が収録されていたり、遠藤さんが設立時に代表を務めた「プロジェクトFUKUSHIMA!」では盆踊りを発案したとか。

遠藤さんのことを考える。どこかで故郷や家族、身近な人のことを思いながら、全てを拒絶するパフォーマンスを貫いた人。INUの町田町蔵という年下の才能を目の当たりにして、嫉妬したか。いや、むしろ、遠藤さんは音楽がめちゃめちゃ好きだけど、「音楽からは愛されていない」という距離を感じていたのではないかと思う。だから遠藤さんは嫉妬しなかった。ただ、別の「戦い方」を希求した。

遠藤さんの「パンク」はシンプルでわかりやすかった。多分、わかりやすさにこだわった。シンプルなメロディと、全てを拒絶するような言葉遣いの歌詞にこだわった。なにに関しても「アンチ」であるかのように振る舞った。当然、孤立しただろう。メンバーも入れ替わり立ち替わりだった。

そして遠藤さんはひとりになる。1994年は、『カノン』や『Just Like a Boy』など素晴らしいアコースティックギター弾き語りの「歌もの」を収録している『空は銀鼠』を発表している。どちらも内省的で影のある歌が弱々しく吹き込まれている。

ザ・スターリン以降は、派手なパフォーマンスはせずに晩年までいろんな人とバンドを結成したり、アコギ一本での弾き語りツアーの傍らサイドプロジェクトを立ち上げたりしている。人徳なのかもしれない。孤立していても人から慕われた。もちろん、この辺りのことは身近な人にインタビューでもしないとわからない。

でも、どこにも属さない、のではなく「属せない」さがを背負っていたのではないかと空想する。それを、「アンチ」にまで先鋭化させて振る舞っていたのではないか。「属せない」からこそ、「家」、「父母」そして「日本」という制度に違和感しかなかった。そのさがを最期は肯定できたんだろうか。

そんなことを思う。

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