2023年4月5日水曜日

音楽は、主観の内にのみ存在する「関係性のカタチ」である

「聴く」ことによってのみ音楽は存在すると私は考える。

つまり、客観的に音楽が存在し、それを知覚・認識するのではなく、知覚を集中させた主観に湧く直感的な反応を音楽と呼んでいる。

一音だけを「聴く」のではなく、それが反復、または持続によって時間の関係性が生まれ、または他の音程によって空間の関係性が生まれる。 

それによって音は音楽に、「関係性のカタチ」として内的に「立ち上がる」、または「読み取る」ことだと考える。

「あるがまま」の世界の混沌から(星座のように)「関係性のカタチ」を切り出す行為が作曲であり、それを指し示す行為が演奏である。

「関係性のカタチ」が他者に伝わることで、その主観に音楽は立ち現れるし、そうでなければ雑音=「関係を阻むもの」になる。

"kq"において私がしたいことは、呼吸を介して「世界から音を切り出す」という音楽観の共有です。切り出し方、指し示し方は、其々だと思う。

ということで... 
ワークショップ開催します。

どうぞよろしくお願いします!


呼吸で音楽を創るワークショップ ー”kq”を題材に

予定プログラム
環境音を「聴く」ことで「音楽」を創る
音を言葉や絵で再構成し「譜面」にする
呼吸の譜面”kq”を演奏してみる

問合・申込
info.sujin@gmail.com
お申し込みは「氏名・人数・連絡先」のご記載をお願い致します

《東京編》
日程 5月19日(金)18:00~21:00
場所 カフェ・ムリウイ(別途1ドリンクオーダー)
東京都世田谷区祖師谷4-1-22-3F

《横浜編》日程 5月30日(火)14:00〜17:00
場所 STスポット
横浜市西区北幸1-11-15横浜STビルB1

※《東京編》《横浜編》どちらも同じプログラムを予定してます
ご参加しやすい日時、場所をお選びください


参加費 1人2,500円(譜面貸出可)
定員:10名程度対象 
小学生以上(障害・性自認・年齢などの属性、音楽・舞台経験、問いません)
持ち物 マスク・飲み物




2023年1月3日火曜日

Music isn't made of scales, maybe.

生まれてからずっと母は不幸せそうだったので、私が在ることが原因なのだと思い込んできた。私の存在が母を不幸にしていると思っていた。そこからの逃走と拒絶が私の半生だったのだと理解してしまった、昨日、突然に。私が存在する根拠を母に求めないこと、すなわち、自分が存在する理由はきっと他にあるはずだと、舞台に飛び込んだ。

母はまだ健在ですが、自分の存在理由が揺らいでいるから気づけたのでしょう、だらだらと。音楽と人間、呼吸、自然・宇宙を配置した図を描いたんだよね。その中ではひとりひとりが呼吸という運動をしていて、その心、潜在意識の奥できっとつながっている、人も、自然も、宇宙も。その図の中で、音楽は潜在意識をつなぐメディアだった。

だから、私にとって音楽はドレミの構成ではなく、宇宙との調和と不調和がもたらす時間の陰影の如きものと考えているのですよ。ワンネイション、アンダー・ア・グルーヴ、その中で呼吸すること、そして皆呼吸していることも、つながって。身体であり、宇宙でもあり、精神でもあるものの、運動で。呼吸、宇宙からの抱擁。つながって、その運動が、ダンスに為るのかどうか、というような。

興味の根源が非言語分野なんだな、どうしても。存在が時間とともにアイスのように溶けていくのが好きです。新年おめでとうございます。

2022年10月25日火曜日

自分はいつも窮屈だ

今日はとても寒いから熱いインスタントコーヒーを飲んでいる。猫舌だからすごく熱いのは飲めないのですが。

TLに上がってきたNowhere Manがどんな曲か思い出せず、Macに全然ビートルズが入っておらず、聴き返したら良いなって思って10枚くらいアルバムを取り込んでいる間、先日キープしてた中村佑子さんのWeb連載『私はなぜ書けないか』を読む。個人的な心の傷について「黙る自由」についての随筆。安易に共感できないくらいセンシティブな事柄が書かれていて、ビートルズの陽気な陰気さも相まって、心を動かされて久々にブログを書いている。

今年の8月末日に初めての譜面公開、初めての自費出版というのをやって、Web通販はこっちですよ。譜面といっても五線譜じゃなくて文字楽譜ですのでどなたでも取り組めますよ。まだまだ販路拡大、営業の真っ最中なのですが、新たなスタートを切ったという感じがあって、なかなかにバタバタしてるなか、時々寝込んだりもするなか、パートナーと子どもに助けられながら目まぐるしく過ごしています。

心に刺さったままの窓ガラス大のガラス片が、いまだにザクザクと痛む日もある。

私が精神科・心療内科に通うようになってから10年経つ。抗うつ剤や抗不安剤に支えられて生き延びた10年だけど、そのうちの5年はほぼ引きこもり苦痛に耐えながら過ごした。カウンセラーもとても信頼できる人で9年間のカウンセリングの中で得たものはたくさんあった。

でも私の傷は癒えない。最近、やむをえない事情で飲み慣れない薬に変えたら、心がグラグラして10年前の感覚がまざまざ蘇ってくる。パワーハラスメント。狭い集団の中での権力者の暴言、横暴、「お前はつかえない」etc

最近、舞台芸術とはなんだろうかとよく考える。舞台芸術を観に来る僅かなお客さんに何が渡せるのか。誰かの潜在的な欲望や期待を具現化するだけならば、それはもうインフルエンサーの方が上手な仕事だよ。

個人的なことを突き詰めた果ての果てに「何か」にたどり着けるかどうか。自分はそういうパフォーマンスしかできないけど、同時に常に接続できるチャンスを探してもきた。「社会」や「公共」ではなく、他者への接続可能性。どこかで「自分を救う」ことが私の活動の根底にあって、「救い」に他者とのつながりを必要としている。

他者への接続の為に、私は「譜面」という自分から切り離された作品を作りました。自分とは違う道を行く人にも触れてもらいたかったのです。自分を超えた可能性を、譜面に仮託したかったのです。

2022年7月2日土曜日

自己表現への反発、行き着いた果てに呼吸(3

惜しくも第21回AAF戯曲賞で受賞を逃した拙作"kq"の自費出版、いよいよ大詰めに差し掛かって参りましたよ、朋友の素晴らしい寄稿も心強く、デザイン・ワークの伊東さんに助けられながら、着実に出版に向けて進んでおります。ということで、拙筆したイントロダクションではあまり踏み込まない予定の話を少し書きつけておこう、「ありのままに聴く」ことについてです。

「ありのままに聴く」は今回執筆中に手に入れた自作ワードで、観瞑想の「ありのままに観察する」を聴覚に置き換えたもの、言葉の通り「在る」ということを色つけずに「聴く」態度のこと、2017年以降の自分のソロ作品に通底する方向性、上演を通して「ありのままに聴く」ことを実践してきたと思った。

ちなみに私は観客の半分くらいが自分の目指している方向性に「乗って」くれれば、まぁ成功だと思っていて、全員が同じような見方をする、見方しかできない作品ってあんまり好きじゃないんだわ。作家の意図を答え合わせする感じ、別に読み解きが好きな人はそれでいいんだろうけど、上演芸術に本来備わっている感染力、爆発力のようなものに託してないと思ってしまう。

で、「ありのままに聴く」なんですけど、ジョン・ケージのチャンスオペレーションも、同じことを意図していたんじゃないかと解釈してる。不確定性に委ねられた音が鳴る時、耳がそば立つ感覚にはなりませんか、偶然耳にする良い音に私は惹かれる。物音、そこには自意識がないから良いと感じるのでは、と仮説を持っていたし、自分の作品に対して「自己表現」という言葉を避けてきたけど、今回の"kq"のように自分の出している音を聴き続けること、しかも呼吸音、そこで起こる微細な変容、これって「自己表現」の領域に足を踏み入れたことになるのかと逡巡していたが、ひとつの答えとして「ありのままに聴く」、また聴かせる為の時空間の設計だったのだと合点がいった。

呼吸音なら自己表現ではない、のではなくて、それを以て自意識に主張させることも可能だが、私は"kq"は極力自由度を保ちながら、演者の自意識に主張させないという方向づけはしたつもり。これは複数回実践しないとわからないことかもしれません。

自分語りをすればするほど、「正解」があるかのようになってきてしまうので、難しいところ、私が思う上演とは演者と観客とが相互に影響を与えながら同じ時空間を共に過ごすことなので、一つの方向に集約しない方がよろしいと思っています。"kq"を無事に出版できたらダウンライトのパーティーでお会いしましょう。2022年孟夏。

2022年6月25日土曜日

落伍上等、ニンゲン下等

この一週間、"kq"譜面出版の為の序文を書き続けていたのだけど、今日はまるで頭の中で糸が何本か途切れてしまったように思考が動かない。昨日まで登り続けていた山から不意に醒めたように精神の灯火は消えてしまった。横になって深呼吸してみる。身体が重いときは手足の指先を意識して動かすと良いらしい。パートナーが教えてくれた。あと、耳のマッサージ。優しくくしゃくしゃと揉む。

家の外に出て玄関で喫煙するが習慣なのだけど、今日は暑すぎて息抜きにならない。物価のこと、選挙のこと、政治の行末。環境問題。戦争。思うだけで気が重くなる。

毎日毎日、研鑽し禁欲し創造し続けるのが、世間一般の「アーティスト」のイメージだとしたら、私は至って怠惰で落伍した者である。落伍者で結構だ、とも思っている。それこそ自分の領分だとも。しかし、その社会から抜け落ちた存在であることに甘んじてしまうこともままあるので、子供の為にも、この社会と世界を少しでも良くしたいと心がける。

私は「アーティスト」としての「務め」を果たす代わりに、「自分を引き受ける」ということを日々やっている。情緒不安定な自分を引き受けて、生活している。パートナーと、子供と、家族に助けられながら。それでも孤独を抱えながら。

なぜ社会は安定して勤労できるものしか認めないのか。なぜ世間は自立してるものしか認めないのか。寄りかかり合って、助け合って、それでも不安定に転がり落ちるのが「ニンゲン」ではないのか。

また気が滅入ってきたし、結論めいたことを述べたいわけではないので終わります。

詩人は呪われてはいるが盲目ではない、は誰の言葉だったか。

2022年6月18日土曜日

プレイリスト流すようにして"kq"を流してよ

音、そのものを聴こうとする時間を継続すると、何かしらの瞑想のように心が洗われるような、穏やかさ、そのような小さな火が熾るので、ジョン・ケージのように作曲者自身が音を指示しないということは、その目的に則した率直な手法だったと思う、かつては。

いまの世間的には、音、というより音楽は「聴く」より「流す」ものになっていて、場所や人の「モード」を象徴する、それはそれとして私も受け入れているし取り入れているのですが、どうしても時間の持続、誰かのプレイリストではなく、アルバム単位で自分との時間を共有して欲しくて、最新作の"kq"は敢えてCDという形式を採ったのでした。

多様な人が実践可能になるように、呼吸を素材にして音楽をつくる、ということを標榜しているけれど、音そのものを聴くという行為は、みんながみんなするものではない。だけど、自分が音楽=時空間を構成しているという自覚と共に音を出すと、音に対して鋭敏にならざるを得ないし、聴かせる為に音を出すのではなく、自分の出す音と向き合う時間になる、やはり実演される為の音楽なのだと思いますよ、"kq"は。

と思うけど、CDのように「聴く」もしくは「流す」行為でも味わえるよ、もちろん、そういう側面があるからCDにしたわけで、そう"kq"は流しても、聴かなくても、心地よく無意味に時間が流れていく感じがする。思考することを邪魔しない音楽なんだ、これは。えへん。

追伸、CDはBASEで通販してますよー

2022年6月11日土曜日

見知らぬ土地でだらだらと地図をつくる

最近思い立って、ブログを毎週更新しようと心がけているものの、今週は持病のウツが重くてほとんど横になっていたので、創作に向き合う時間をほとんど持てなかった。

ポップスを作曲するという趣味があって、全く発表する気なんかないし、傾向と対策で作った曲が仮に売れても全然喜ばない、私はやはり自分でもよくわからない土地に足を踏み入れ、自分の足で地図を作り、それを他者に差し出してみたいと思っていることに気づく。趣味は趣味として完結しているから心地良い。

知らない土地で自分の足で地図を作る、というと直感的という印象を持たれるかもしれないが、往々にして作家が通るような、歴史的な知識や経験の積み重ねを援用したり、発展させたりなどによって判断して作成している。知らない駅で降りて、街歩きすると同時に街づくりしているような感覚。「勘」とか「才」と呼ばれるものは、実は経験と知識に裏打ちされている。だから、たくさん作る、作っている(と同時に都度都度振り返りフィードバックを蓄積する)というのは、私の中で他の作品を鑑賞する時に信頼できるかどうかの一つの指標である。

子供が産まれたのとコロナとで、めっきり他人の作品に触れる機会が減ってしまい、特に、共感不能だが圧倒されるような、「他者」の作品にはなかなか出会えなくなってしまった。どうしても、知り合いだからとか、話題になっているからとか、妥当性が自分の行動基準に入ってしまう。知り合いの優れた作家の作品に触れることも大切な時間と労力だが、30代後半という年齢もあってか、観に行くものの打率が良過ぎる。ヒット、ヒット、二塁打、みたいな。ホームランか大振りの三振かみたいな作品に触れたいな。なんで喩えが野球なんだろ。

知らない作家が「助成金とってる演出家」という括りで「性加害」について勇気ある告発をしているのを、知り合いが炎上商法と断じてて、それは危険だろと思った。知り合いの意図は本人に詳しく聞かないことにはわかりかねるが、「舞台芸術」には多様な小島が無数にあって、全く聞いたことのない名前だけど助成金取ってる作家はいくらでもいる。そして、演者は「部分」「観られる」側であり、「全体」を「観る」演出家、振付家側とは、絶対的な権力勾配は常にあるので、集団クリエーションの場は往々にしてハラスメントが起こる、その危険性が常に内包されていると思ってるから、全く賛同できないよ。その危険性を回避しようと細心の注意で努めてないと、ハラスメントはすぐに起こるし、残念ながらそこに意識的な作家は、私の知ってる限りでも決して多くはない。

今週は家族に救われた。自分が寝込んでいる間、パートナーがワンオペで子供の面倒をずっと見てくれてたし、子供にも心配かけてしまった。私の調子が上向いたら、子供はとても元気よくおはよー!と言ってくれた。家族に助けられて私はなんとか生きている。生きていこうと思った。