最近思い立って、ブログを毎週更新しようと心がけているものの、今週は持病のウツが重くてほとんど横になっていたので、創作に向き合う時間をほとんど持てなかった。
ポップスを作曲するという趣味があって、全く発表する気なんかないし、傾向と対策で作った曲が仮に売れても全然喜ばない、私はやはり自分でもよくわからない土地に足を踏み入れ、自分の足で地図を作り、それを他者に差し出してみたいと思っていることに気づく。趣味は趣味として完結しているから心地良い。
知らない土地で自分の足で地図を作る、というと直感的という印象を持たれるかもしれないが、往々にして作家が通るような、歴史的な知識や経験の積み重ねを援用したり、発展させたりなどによって判断して作成している。知らない駅で降りて、街歩きすると同時に街づくりしているような感覚。「勘」とか「才」と呼ばれるものは、実は経験と知識に裏打ちされている。だから、たくさん作る、作っている(と同時に都度都度振り返りフィードバックを蓄積する)というのは、私の中で他の作品を鑑賞する時に信頼できるかどうかの一つの指標である。
子供が産まれたのとコロナとで、めっきり他人の作品に触れる機会が減ってしまい、特に、共感不能だが圧倒されるような、「他者」の作品にはなかなか出会えなくなってしまった。どうしても、知り合いだからとか、話題になっているからとか、妥当性が自分の行動基準に入ってしまう。知り合いの優れた作家の作品に触れることも大切な時間と労力だが、30代後半という年齢もあってか、観に行くものの打率が良過ぎる。ヒット、ヒット、二塁打、みたいな。ホームランか大振りの三振かみたいな作品に触れたいな。なんで喩えが野球なんだろ。
知らない作家が「助成金とってる演出家」という括りで「性加害」について勇気ある告発をしているのを、知り合いが炎上商法と断じてて、それは危険だろと思った。知り合いの意図は本人に詳しく聞かないことにはわかりかねるが、「舞台芸術」には多様な小島が無数にあって、全く聞いたことのない名前だけど助成金取ってる作家はいくらでもいる。そして、演者は「部分」「観られる」側であり、「全体」を「観る」演出家、振付家側とは、絶対的な権力勾配は常にあるので、集団クリエーションの場は往々にしてハラスメントが起こる、その危険性が常に内包されていると思ってるから、全く賛同できないよ。その危険性を回避しようと細心の注意で努めてないと、ハラスメントはすぐに起こるし、残念ながらそこに意識的な作家は、私の知ってる限りでも決して多くはない。
今週は家族に救われた。自分が寝込んでいる間、パートナーがワンオペで子供の面倒をずっと見てくれてたし、子供にも心配かけてしまった。私の調子が上向いたら、子供はとても元気よくおはよー!と言ってくれた。家族に助けられて私はなんとか生きている。生きていこうと思った。
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