呼吸音での即興、日々精進、邁進、でも気づいてしまった。「自己表現」への反発は、とどのつまり、自意識の拡張、主張、膨張、そのものを「醜い」と思っているということで、自意識のない(はあり得ないけど、なるべく薄い)状態を「美しい」と思っている。だから、自分以外の「物」にパフォーマンスさせたり、自分が「薄く」なるような、不安定な足場に自分を固定して見せたりしてきたのだと思う。もちろん、覆われているだけで、その根底には自意識の過剰さがある、自意識が薄い状態、なんて、それはポーズ、虚構です。だって人前に差し出したいとは思って続けているわけですからね。
かつて気心の知れた友人と自意識について話していたとき、「障害が重い人は自意識がほとんど感じられなくて美しい」というようなことを友人が発言したが、いまの私は重い障害のある知人も、感情も意思もあるし、場合によってはふざけたりすることを知っているから、かつての友人の意見に間違ってるよと伝えたい。
大学に通って良かったと思っているのは、付属の図書館で三浦雅士の本を漁っていたときに、『メランコリーの水脈』という文芸批評の本に出会えたことだ。記憶は不確かだが、過剰な自意識が延々と自己言及し続けてしまうことを、合わせ鏡に喩えて書いてあったように思う。自意識の過剰さという、呪われたように付き纏われたトピックについて客観的に眺められたのは、三浦氏の冷徹かつ自己開示的な批評、論考のおかげであり貴重な体験だった。
自意識の過剰さを隠匿する為に、「自己表現」を回避して「自分」を極力薄くする状況を作ったり身体を追い込んでいく、という自分の思考パターンが読めてしまった。ので、次に進む。進もう。
ということで、呼吸音、それは「自己表現」に陥る危険と対峙する、せざるを得ないのですよ、たかだか呼吸とはいえ。というか、呼吸という単純かつ脆弱な素材であることで、より自己と向き合うことになる。これ(弱)でいいのだろうか、という不安と共に糸を手繰り続ける時間、不安に飲み込まれると、途端、また自分を追い込む芸をやってしまうのです。
最近、ようやく仄明るく見えてきた場所には、ダイナミズムの波を最低限見出し掬いとることで見えてくる道があったということです。いままで音のダイナミズム(強弱、長短、休符など)に頼ることは自己表現に属するものであり、禁忌のように思っていたのだけど、最低限を見極め掬いとることは、自分というより時空間の要求に応えている感覚。でも、その「最低限」は文化的・制度的に形作られていると思うので、やはりまだ脇が甘いと反省することしきり。次回はそろそろ「主観」について言及したいと思ってます。このシリーズの第一回はこちら
明日、6/4は渋谷Valleyにてライブ。ヘッドホン持参でサイレントだってよ。出番は19:30〜、詳細はこちら
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