文・佐々木すーじん
せんがわディレクターズセレクション『ピギーバック』(脚本・細川洋平、演出・生田みゆき)を、私はせんがわ劇場DELのご縁でゲネプロ観覧させてもらった。
『ピギーバック』は大枠で、架空の町の町長、ナリタ・アト(大森博史)とその娘、成田箒星(渡邉りか子)を中心に話は展開していく。登場人物も入れ替わり立ち替わり、悲喜交々、だが、そこまで複雑な人間関係ではないにも関わらず誰にも共感しにくいのは、登場人物の名前が個性的すぎるからか。
私は中盤まで「?」が頭の中を埋めていた。
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ハッとさせられたのは、中盤、ジャーナリスト・感光(藤家矢麻刀)が発語した台詞において、その町は侵略によって歴史を塗り替えて作られた町であることが明かされてからである。
そうか、これは侵略の話だったのか。では誰がどこへ侵略した事件を題材にしたのかな?と思いそれ以降注意深く拝見していたが、あくまで架空の町、架空の人々として具体性を一切持たずに物語は終了した。
その具体性のなさに、しかし、私は細川の忍耐力と到達した視座の深さを勝手に読みこんでしまった。
それは、具体的にどこかの国や町、たとえば2026年3月の現在であれば、イスラエルとアメリカが国際法を無視してイランを攻撃しているが、そういった個別具体の話になったときに隠れてしまう何かに光を当てる為に、細川が意図的に抽象的でどこの地域とも文化圏とも読み取れない物語に仕上げたと仮定したからである。
特定の地域や国の侵略であれば、「なぜ」「だれが」「どのように」などの輪郭が明確になり、「加害側」「被害側」という線引き、そして「被害の実態」まで、具体的に調べることもインターネットが発達している今日的にはさほど難しいことではない。
しかし、細川は、そうはしなかった。なぜか。
町長ナリタ・アトは、演説のシーンで「すべては子どもたちの笑顔のために」(だったか?)という、政治家としてはいささか陳腐すぎるほどの決め台詞を使う。
そう、ドラマの抽象度が高いとはいえ、政治家の演説として「陳腐すぎる」のである。あるいは挿入される登場人物たちのエピソード、高校生女子の友情と復員兵によるDV、お節介な若い教師といじめの誤認、気難しい年ごろの娘を持つ父子家庭の父、別れた若い男女の再会、実母の死を上司に報告できない若者、どれも観客に共感を(おそらく...)求めていない上、陳腐すぎるのである。
つまり、『ピギーバック』の舞台は、「陳腐な町」、どこにでも存在する町、なのだとしたら?
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そのような仮説に基づくと、登場人物の名前が個性的であることも、先住文化の遺品を「アプリア」(だっけ?)とラテン語由来で呼ぶという謎設定も、特定の文化や地域、事件を連想させないという理由だと整理できる。
どこにでもある、侵略と平和、のはなし?だったのか。
私は大和民族なので、いかに倭人がアイヌから土地を略奪したか?または、いかに琉球王国を併合したか?太平洋戦争における侵略は充分に償えたと言えるのか?
それらを知るべき。知って償うべき。
いや、ちがう。特定の地域や文化圏の話ではないのだった。そして私は慄く。
たとえば、せんがわ劇場前の通称「安藤ストリート」は?仙川駅前の街並みは?あるいは、私が住む町田郊外の住宅地は?
人がいたかも知れないし、先住文化の構成員は動物だったかもしれない。
豊かな森や畑や村や原や川が、生活があったもしれない。
そこに「平和」な街を作ったのは、誰か?
ナリタ・アトのように誰かが誰かの血を流させたのだ。
私たちが享受している(まだかろうじて、してきた、ではない)「平和」とは、誰かが誰かの血を流させたあとを塗り替えて成立している。細川の紡いだ奇妙な物語には、その事実が指し示されているように私は感じた。
私は「戦争反対」を叫ぶ時、「ラインの向こう側」を糾弾しているつもりでいた。
しかし、この地上の私たちの生活はすべて、既に「ラインの向こう側」で営まれていたのである。
それはこの作品へのひとつの解釈にすぎない。
しかし、同時に事実であることは、誰にも否定し得ないのだ。
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