2022年6月3日金曜日

自己表現への反発、行き着いた果てに呼吸(2

呼吸音での即興、日々精進、邁進、でも気づいてしまった。「自己表現」への反発は、とどのつまり、自意識の拡張、主張、膨張、そのものを「醜い」と思っているということで、自意識のない(はあり得ないけど、なるべく薄い)状態を「美しい」と思っている。だから、自分以外の「物」にパフォーマンスさせたり、自分が「薄く」なるような、不安定な足場に自分を固定して見せたりしてきたのだと思う。もちろん、覆われているだけで、その根底には自意識の過剰さがある、自意識が薄い状態、なんて、それはポーズ、虚構です。だって人前に差し出したいとは思って続けているわけですからね。

かつて気心の知れた友人と自意識について話していたとき、「障害が重い人は自意識がほとんど感じられなくて美しい」というようなことを友人が発言したが、いまの私は重い障害のある知人も、感情も意思もあるし、場合によってはふざけたりすることを知っているから、かつての友人の意見に間違ってるよと伝えたい。

大学に通って良かったと思っているのは、付属の図書館で三浦雅士の本を漁っていたときに、『メランコリーの水脈』という文芸批評の本に出会えたことだ。記憶は不確かだが、過剰な自意識が延々と自己言及し続けてしまうことを、合わせ鏡に喩えて書いてあったように思う。自意識の過剰さという、呪われたように付き纏われたトピックについて客観的に眺められたのは、三浦氏の冷徹かつ自己開示的な批評、論考のおかげであり貴重な体験だった。

自意識の過剰さを隠匿する為に、「自己表現」を回避して「自分」を極力薄くする状況を作ったり身体を追い込んでいく、という自分の思考パターンが読めてしまった。ので、次に進む。進もう。

ということで、呼吸音、それは「自己表現」に陥る危険と対峙する、せざるを得ないのですよ、たかだか呼吸とはいえ。というか、呼吸という単純かつ脆弱な素材であることで、より自己と向き合うことになる。これ(弱)でいいのだろうか、という不安と共に糸を手繰り続ける時間、不安に飲み込まれると、途端、また自分を追い込む芸をやってしまうのです。

最近、ようやく仄明るく見えてきた場所には、ダイナミズムの波を最低限見出し掬いとることで見えてくる道があったということです。いままで音のダイナミズム(強弱、長短、休符など)に頼ることは自己表現に属するものであり、禁忌のように思っていたのだけど、最低限を見極め掬いとることは、自分というより時空間の要求に応えている感覚。でも、その「最低限」は文化的・制度的に形作られていると思うので、やはりまだ脇が甘いと反省することしきり。次回はそろそろ「主観」について言及したいと思ってます。このシリーズの第一回はこちら

明日、6/4は渋谷Valleyにてライブ。ヘッドホン持参でサイレントだってよ。出番は19:30〜、詳細はこちら

2022年5月26日木曜日

自己表現への反発、行き着いた果てに呼吸(1

昨日今日と朝5時から30分、呼吸音の即興しているのだけれど、家族はまだ寝てますし、マイク、ミキサーからヘッドフォンしてる。というのも、6月4日土曜日の19:30から出演します、渋谷のValleyって場所でライブのお誘いを受けたのだが、ヘッドフォンしてサイレント(!)ライブをするらしいのですよ。予約はこちらから。それの予行演習ということもあってヘッドフォンして即興しているのだが、まぁ集中しますわな、ほとんど瞑想。とても気持ち良い、深い状態に行ってしまう。

といって、楽しいばかりでもなくて、反省や気づきについて述べますね。呼吸をコントロールしようとすればするほど、それは身体の基本的な機能でもあるわけで、コントロールできない。というか、コントロールされた音に反映している自意識に耐えられないので、コントロールできるかできないかの辺りを手探りしながら、きりきりと即興。時間を構成するというか、紡ぐ感じ。紡ごうとしても酸素足りなくなって、音の構成とは無関係な呼吸をして途切らせてしまう。

なぜ自分をコントロールしなければいけないのか、逆にわからなくなってくる。

「自分」を表現、Expressionという概念への反発、それは近代的芸術観を超克、つながるだろ、とか考え。ジョン・ケージのチャンス・オペレーション、賽の目振ったり、占いで選ぶ音は、自分には先達ではあるのだが、アンチテーゼ以上のものを見出せなくて、現代音楽史には詳しくないけど、自分は物音、それも音を立てない物質の質感などに音を見出していくライブ・インスタレーションをやっていた。それももちろん、現代音楽史的には既知ですが、ということで、その次は空き缶の上に不安定に立ちながら小物を落とすパフォーマンスしたら、身体に注目されてしまったこともあり、結局行き着いた果てが呼吸音。

呼吸音には「うまへた」が自分の中にあって、「これはうるさい」「これはよき」などの判定している、自意識の問題だと思っているが、「聴こえる音に集中する」または「呼吸に集中する」などはマインドフルネス瞑想、観瞑想、物事をありのままに観察する瞑想法として既にあるらしい。

だから私は、これは上演を前提にしてやっているのですよ、と声高に言うのだが、上演を前提にするとはどういうことか。そして観瞑想が目指す無我とはどう異なるのか。

呼吸音で即興する時、呼吸している物質的な自分と、それの手綱を持っている、ちょっと引いた自分がいる。物質的な自分は楽器で、手綱を持ってる方が演奏している自分、というようなイメージ。楽器としての自分に不安定な音の出し方を強いることで、音に自分を映しこまないようにしている。逆に不安定な音でも自分が映し込まれていると、演奏時は自分が拡張される感覚があって大変気持ちよいのだが、あとから録音を聴くと「うるさいな」と思ってしまう。楽器である自分の快楽に任せずに、演奏している自分が即時的に良し悪しを判断しながら一瞬一瞬を乗り継ぐ感覚、時間を紡いでいく感覚があると、あとから録音聴いた時に「悪くないね」となる。

演奏している自分がいるということは、やはり無我とは程遠いのですね、というのは簡単ですが、演奏している自分が目指しているところというのが、物質的な快楽とは異なる場所を目指しているので、またややこしい。今日はここまでにします。

2022年5月21日土曜日

「表現」の垂直性は感性の鋒に宿る

5月初旬、旧友の原島大輔氏と二人で酒を酌み交わしながら、とりとめもなく雑談していた折に、原島が「垂直性」という語を使い始めていた。

私はそれを絶対的な基準への指向性、ベクトルというような大意で解し、原島と、実世界や芸術における様々な様相を挙げながら、その有無について意見を交わした。

私は芸術には垂直性がない(絶対的な基準は存在しない)と信じてここまでアーティストとしてやってきたが、原島は垂直性の存在を認めない世界に未来はないというようなことを述べていたように思う。

それからずっと「垂直」とは何であるかについて、頭の片隅に引っかかっていたのだが、さっき大崎清夏さんの『東京』という詩を読んでいて、出てきた一文に強く感銘を受けた。

詳述はしないけど、大崎さんの『東京』という詩は、日常の緩い、または冷たい空気感とそれへの距離のある眼差しによって綴られる文の中に、一閃する一文が紛れていて不意に心を打たれるという構造になっていて、世界にまだこんな風に捉えられる瞬間があったかというような鋭い目覚めが私の中に訪れた。

抽象的な表現、音楽やダンス、抽象画、詩には、その世界観が好きかどうか、響くか否かで反応が二分されるという側面は否定できない(物語的・論理的な整合性が必ずしも作品の強度を担保しない)と思うが、鋭い洞察に裏付けられた表現は、飄々とその二分を超越するような「垂直」を含んではいないか。

つまり、その作品や表現における世界観への共感か反感かではなく、ひとつ上のフェイズを貫通してしまうような一瞬が、ありえるのだ。この世界の不可思議さ(あるいは別の語を当てても良いのかもしれないが)が新鮮に蘇るような、一瞬が。

抽象的な表現ほど(評価しやすい、されやすい)技術を磨くことに執心する傾向があるように思うが、垂直性が宿るのは、作家の鋭く研がれた感性の鋒にこそ、と思ったのだ。

2022年5月13日金曜日

呼吸音での即興に、日々取り組む/考える

最近、呼吸音での「即興」というものが俄然面白くなってしまって、それも熱狂や混沌があるような種類のそれではなくて、いかに平穏に呼吸してる音だけで時間を紡いでいけるか、というようなことに日々取り組んでいる。

今日、リハーサルしてて自分が理想としてるような即興に一歩近づけたという手応えがあった。なんの制約も計算もなく、丁寧に時間のベールを重ねていった先に、結果も盛り上がりもない、冒頭を反復するなどの形式もない、取り留めのない38分間の呼吸音の演奏は、なによりまず自分が心地よいものであった。

作曲作品"kq"では、自分の呼吸を絞っていき、自信を追い込むことによってヤマ場を作るという構造に頼っていたので、自分自身が演奏して心地よくなれるというのは、それだけで収穫祭したいくらいだよ。

呼吸と音から連なる思考体系として、形式が決まっているある種の瞑想がある。禅では「数息観」というものがあり、噛み砕けば、呼気に合わせて数を数えていくという瞑想法なのだが、精神医学では脳波の測定などが行われ、副交感神経の活発化などの効果が実証されているらしい。

しかし、私が上演する呼吸音による音楽"kq"は、プレビューの時点では、私自身がまず自分の呼吸を追い込んでいく、絞っていくパフォーマンスであったことも大きく影響して、頂いた感想は「ハードコア」「自分も苦しくなった」「原初的なライブのようだった」というような激しい感想が多く見られた。

そういういきさつもあり、いまは呼吸音しばりで即興をやっている。

どこを目指しているのか、まだ自分でもわからないけれど、平坦な呼吸の持続によってもたらされる静寂、のようなもの、には触れてみたいと思っている。それは"kq"を上演し続けているだけでは至らないだろうという直感のもと、いまは即興をしています。そしてまた"kq"にも戻りたいと思う。

5/14(土)、水道橋Ftarriというユニークなお店でライブをします。20時開演です。

あと、"kq"のCDがBASEで買えます。税込1,000円+送料200円です。
https://scscs.base.shop/

私は、水平方向には小さな革命を繰り返し、垂直方向には鋭利に切り込んでいきたいと思っています。今後ともよろ。

2022年4月3日日曜日

"kq"ステートメント 2022/4/3

多くの人が無意識下で行っている(行える)、呼吸という素材を使って音楽を作れないか(時間を構成できないか)、という素朴な基点から、試行を続けています。


"kq"は作曲作品で上演を前提に作られています。


kq譜面(第21回AAF戯曲賞応募時のもの。随時バージョンアップしたものを上演しますが、骨子は同じです)


作曲作品とは、「この道を必ず通る」という指示に従うことで、一つの世界が立ち上がるように構成されているものだと考えます。


"kq"において、指示とは別にシンプルで抽象的なテキストが各シーンごとに付けられています。それは「内と外」(当然「境界」という概念も暗示される)そして「媒体」が想定されており、呼吸音の構成に補助線として機能し、かつ一つの像を結ぶ物語となるよう考えました。


この曲を成立させる為には自身の呼吸、そして身体と向き合わなければなりません。無意識下で行う呼吸を、意識的にコントロールしようとする過程で、自分であるはずなのに決してコントロールしきれない存在をなぞりつつ、演者は時間と空間を構成していくことになります。


コントロールできない自己と折り合いをつけながら、観客とも折り合いをつけること。それが"kq"のコンセプト、「上演を想定した譜面」の真意であり、いちばんの難問でもあるように今は感じています。


観客に対し、私はいま身体と呼吸に負荷をかけていく方向性でこの譜面を捉えることを提示していますが、譜面自体にはもっと異なる方向性もあり得るのではないかと思っています。


この一つの譜面を介して、多様な人が未知なる自己に向き合う契機になることを夢想しています。

2022年2月21日月曜日

私は私を救いたい、私を救えるのは私だけだから

年始に、ひとりで実家に行った。パートナーと子供は、弘前の義両親の元で年を越していた。自分の家庭を持った今となっては、数少ない両親との時間だった。母親も同じことを思っていたのだろう、父が自室に引き上げると、「あなたに謝り続けていることがある。それについて打ち明けさせてほしい」というようなことを切り出された。私は混乱し、その混乱した感情が剥き出しになり、泣き、乱れ、「それはできない。でもお父さんのこともお母さんのことも愛してる」と言うのが精一杯だった。しばらく尾を引き寝込むほどに私の内面は、掻き乱された。

ヤングケアラーという言葉を、よく耳にするようになった。多分、最初は中村佑子さんが書かれていた何かで拾った言葉だと思う。精神疾患を持っている自分がいま育児中であることから、子供をヤングケアラーにしないようにとアンテナを張り始めたが、いつしか自分の幼少期の母子関係について思い起こされる言葉になっていた。

自分が幼い頃の母のことを思い出そうとすると、記憶はおぼろげだが、いつも彼女は苦しんでいたと思う。ワンオペで姉と私、幼い二人を「みなければならない」ことに常にイライラしていたし、姉が中学受験に「失敗」してからは自責の念から、荒れた姉の八つ当たりに私が抵抗しようとすると、私だけが我慢させられた。

母は毎晩夜遅くまでひとりで起きていては、朝は機嫌悪く、気怠そうに子供たちと夫の朝食を用意していた。昼過ぎに学校から帰るとだいたい母は居間で昼寝をしていた。その姿は私には醜く感じられた。父からの愛情は薄く、共に過ごした時間はほとんどない。私の相手は、母か、母と不仲の祖母か、荒れ狂った姉だった。制限や禁止事項は多く、中学受験に備えて同級生と遊ぶ時間は週1回と決められていた。

そういう外堀があった上で、母は「あなたたち(子供)がいるから離婚できない」と小学校中学年くらいの私(たち?)に告げた。夜、寝室の布団の上で蛍光灯に照らされながら、母は笑顔で誤魔化していたが、私の心にはつらく響いた。鮮明に思い出してしまう。

私はヤングケアラーだったというより、むしろ自分をケアし続けていたように思う。中学入学以降、自室に閉じこもってCDをかけたり、深夜無数の映画をひとりビデオで観たり、そして日中は眠っていた。誰とも顔を合わせたくなかった。学校には行かなかった。生きていたくなかった。大袈裟でなく、母親の期待に応えるだけの将来に、人生に、絶望していたのだ。

ただ自分を守るだけで私の中高時代は終わっていく。その傷の正体について知る術はなかったが、周囲からは「なぜ学校に行かない(来ない)のか」という疑問をぶつけられ続けた。両親は口に出さなくなっても、ずっとその疑問を持ち続けていると察していたので、期待を裏切り続けるのは暗く、苦しかった。

閉塞感と孤独感。今の私にも色褪せずに濃い影を落としている。

私が創作を続ける理由は、恐らくそのような欠乏感だ。いまは自分で選んだ家族がいて、庇護する子供もいて、この生活に幸せを感じている。それでも。私は私を救うことを諦められない。家庭と自己実現は対立する概念ではないと理解しても、尚もがいている。10代の頃の自分に響く何かを創り出す為に。私は私を救わなければならない。私の手で。

2022年1月26日水曜日

生きた言葉を捉えること

自分の音楽観や作品について詳細に説明することを、野暮というか、浅ましいと感じてしまう奥ゆかしい性格なのですが、そろそろ少しづつでも言語化していこうと思い、野口三千三や横山紘一、安藤礼二なんかを濫読し、そこから言葉を拝借しつつ、紡ごうと思うのです。

唯識という言葉があります。私が理解している範囲で簡単に述べると、自分の内面にのみ世界は存在しているという考え方です。つまみ食い的に述べれば、唯識思想では、世界はもちろんのこと、自分の内面も移ろうものだと捉えていて、時間的な視点が内包されているように思います。観察・観測される対象だけでなく、それをする主体も常に変化し、揺れ動いている。

私の音楽観は、音楽というものが客観的・普遍的に世界に存在するのではなく、個々人の内面にのみ立ち現れる(もしくは現れない)ものだと考えているので、唯識という思想は示唆に富んでいる。現象を認識したときに自分の中に広がる細波のようなイメージで音楽を捉えているから、なかなか自分の居場所というものが定まらないのです。自分の不勉強のせいかもしれませんが、文脈から自分自身が抜け落ちてしまっていると思うことがある。

ゆえに、こうやって言葉を尽くす必要を感じるのだが、同時に虚空に石を投げているような虚しさもある。自分の作品を音楽と捉えられようと、パフォーマンスと捉えられようと、演劇と捉えられようと、実は私自身にあまりこだわりはないのだが、「生きた身体」を基点に置いているので、言語化しにくい、されにくいという性質があるように思う。

言葉は何かを固着させようとするから、常に生きた対象を逃してしまうよな、という雑感がある。詩人や小説家のような言葉の専門家は、きっと異なる見解を持っているんだろう。身体や時間、空間におけるボキャブラリーがもっと欲しいし、それに対する共感でも論理でもない回路を発明したいと思うのです。