2022年1月26日水曜日

生きた言葉を捉えること

自分の音楽観や作品について詳細に説明することを、野暮というか、浅ましいと感じてしまう奥ゆかしい性格なのですが、そろそろ少しづつでも言語化していこうと思い、野口三千三や横山紘一、安藤礼二なんかを濫読し、そこから言葉を拝借しつつ、紡ごうと思うのです。

唯識という言葉があります。私が理解している範囲で簡単に述べると、自分の内面にのみ世界は存在しているという考え方です。つまみ食い的に述べれば、唯識思想では、世界はもちろんのこと、自分の内面も移ろうものだと捉えていて、時間的な視点が内包されているように思います。観察・観測される対象だけでなく、それをする主体も常に変化し、揺れ動いている。

私の音楽観は、音楽というものが客観的・普遍的に世界に存在するのではなく、個々人の内面にのみ立ち現れる(もしくは現れない)ものだと考えているので、唯識という思想は示唆に富んでいる。現象を認識したときに自分の中に広がる細波のようなイメージで音楽を捉えているから、なかなか自分の居場所というものが定まらないのです。自分の不勉強のせいかもしれませんが、文脈から自分自身が抜け落ちてしまっていると思うことがある。

ゆえに、こうやって言葉を尽くす必要を感じるのだが、同時に虚空に石を投げているような虚しさもある。自分の作品を音楽と捉えられようと、パフォーマンスと捉えられようと、演劇と捉えられようと、実は私自身にあまりこだわりはないのだが、「生きた身体」を基点に置いているので、言語化しにくい、されにくいという性質があるように思う。

言葉は何かを固着させようとするから、常に生きた対象を逃してしまうよな、という雑感がある。詩人や小説家のような言葉の専門家は、きっと異なる見解を持っているんだろう。身体や時間、空間におけるボキャブラリーがもっと欲しいし、それに対する共感でも論理でもない回路を発明したいと思うのです。

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