5月初旬、旧友の原島大輔氏と二人で酒を酌み交わしながら、とりとめもなく雑談していた折に、原島が「垂直性」という語を使い始めていた。
私はそれを絶対的な基準への指向性、ベクトルというような大意で解し、原島と、実世界や芸術における様々な様相を挙げながら、その有無について意見を交わした。
私は芸術には垂直性がない(絶対的な基準は存在しない)と信じてここまでアーティストとしてやってきたが、原島は垂直性の存在を認めない世界に未来はないというようなことを述べていたように思う。
それからずっと「垂直」とは何であるかについて、頭の片隅に引っかかっていたのだが、さっき大崎清夏さんの『東京』という詩を読んでいて、出てきた一文に強く感銘を受けた。
詳述はしないけど、大崎さんの『東京』という詩は、日常の緩い、または冷たい空気感とそれへの距離のある眼差しによって綴られる文の中に、一閃する一文が紛れていて不意に心を打たれるという構造になっていて、世界にまだこんな風に捉えられる瞬間があったかというような鋭い目覚めが私の中に訪れた。
抽象的な表現、音楽やダンス、抽象画、詩には、その世界観が好きかどうか、響くか否かで反応が二分されるという側面は否定できない(物語的・論理的な整合性が必ずしも作品の強度を担保しない)と思うが、鋭い洞察に裏付けられた表現は、飄々とその二分を超越するような「垂直」を含んではいないか。
つまり、その作品や表現における世界観への共感か反感かではなく、ひとつ上のフェイズを貫通してしまうような一瞬が、ありえるのだ。この世界の不可思議さ(あるいは別の語を当てても良いのかもしれないが)が新鮮に蘇るような、一瞬が。
抽象的な表現ほど(評価しやすい、されやすい)技術を磨くことに執心する傾向があるように思うが、垂直性が宿るのは、作家の鋭く研がれた感性の鋒にこそ、と思ったのだ。
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