去る1月12日に"Sound Sample Market vol.2"が無事に終わりました。たった2日間3公演という短い間でしたが私にとってとても大切な時間となりました。ご来場くださった皆さま、出演者、スタッフ、関係者各位のお陰です。どうもありがとうございました。
今回初めの試みとなったアフタートークは、当日制作と出演と接客とで非常にテンパりながらだったので、お聞き苦しい点も多々あったかと思うけど、やって良かったと心から思えた。ゲストを快く引き受けてくださった細田成嗣さんは、的確で重要な視座を観客にも出演者にも与えてくれたし、出演者同士のトークでは、ただ呼ぶ側/呼ばれる側としてだけでは達成できない交流を生む時間になった。3回目の正直とのアフタートークでは、だいぶ余裕のあるトークを披露しつつ(笑)、なぜ自分が今回の出演者に声をかけさせてもらったかなどの話を通して自分のリスペクトを伝えることができたように思う。
また、2日間3公演という音楽ライブとしてはレアな形式に、必然性と意義があることを確信できた。正直も山下哲史さんも3公演を通してアプローチがどんどん変化していき、嬉しいことに、最終回は3組で一つの時間を紡いでいるという感覚が自分にリラックスと集中を与え、ポテンシャルを強く引き出したように思う。昨年は3組でのグルーヴ感を創り出すことは叶わなかったが、今回は抜群に相性の良い3組となったと胸を張って言える。
手応えに比して、SNS上などの感想がほとんど見られないのは(個人的な連絡で感想を丁寧に伝えてくださった方々、どうもありがとうございました)、偏に作品を表現し得るような言葉がまだまだ足りていないからだと思う。自分がまず自分の作品について雄弁で有りたいと思う。少なくとも、自分のイベントに来てくださった方々は知的な面でも好奇心の強い方だと思うので、自分が先ず言葉を探し当てて行けば、どういう言葉で表現するのが適切なのかみんな各々探し出して行くように思う。
「批評が機能していない」という言葉は、あらゆるアートのジャンルにおいて散見されるように思うけど、何かしら新しいことに踏み込むならば、率先してそこに必要な言葉を見つけていきたい。と同時に、その作業にも皆さんの助力を必要としています。よろしくお願い致します。
2020年1月16日木曜日
2020年1月4日土曜日
アーティストの30代
アーティストにとって30代というのが、実力・感性・体力などの面で、最も充実した時期なのではないかと思う。40代以降というのは勿論未経験だが、自分を振り返っても、同年代の友人たちを見ていてもそう感じる。
20代の頃は、まず自分のことがよくわからなかった。当然、どこに向かうべきかもわからなかったし、力無き身でガムシャラにしがみつくので精一杯だった。
30歳で鬱が深刻化して何もできなくなった頃、自分は人生を失敗したのだと勘違いした。もうどこにも進めないと絶望し何も手につかなかった。こんな日が来ること、自分のやりたいことをハッキリと理解し、アプローチの手段、ネットワーク、積み重ねて行けば状況が変化していくことなど、全く想像できなかった。
だから後進に何か渡せるものがあるとしたら、とにかく状況も可能性も変化し続けるから、諦めなくて良いということだけは断言できる。
自分はまだ何も為してはいない。それが達成されずに追い求め続けられることは恵まれているということなのかもしれない。
自分が障害福祉の仕事をしながらアーティストとしての活動も並行していること、友人たち以外に名前が知られるような立場にはいないこと、未だ20人程度のキャパで作品を発表し続けていることは、社会的な見地からは一見不遇に思えるかもしれないが、面白い人たちと知り合えて一緒に仕事をしたり交流したりできる今の状況は、誰も安直に結論づけてはいけないと思う。
さて、昨年末から「落々」のリハを再開している。相変わらずの部分と、反復する中で見出していく新たな世界との出会いがある作品です。まだどういう作品なのかは言語化できませんが、私がアーティストと自称できる根拠は、この飽く無き探究心、好奇心、そして自身の衝動に率直であり続けること、それは13歳の頃から変わっていない、ということです。
Sound Sample Market vol.2は今月の11,12日です。よろしくお願いします。
詳細はこちら。
20代の頃は、まず自分のことがよくわからなかった。当然、どこに向かうべきかもわからなかったし、力無き身でガムシャラにしがみつくので精一杯だった。
30歳で鬱が深刻化して何もできなくなった頃、自分は人生を失敗したのだと勘違いした。もうどこにも進めないと絶望し何も手につかなかった。こんな日が来ること、自分のやりたいことをハッキリと理解し、アプローチの手段、ネットワーク、積み重ねて行けば状況が変化していくことなど、全く想像できなかった。
だから後進に何か渡せるものがあるとしたら、とにかく状況も可能性も変化し続けるから、諦めなくて良いということだけは断言できる。
自分はまだ何も為してはいない。それが達成されずに追い求め続けられることは恵まれているということなのかもしれない。
自分が障害福祉の仕事をしながらアーティストとしての活動も並行していること、友人たち以外に名前が知られるような立場にはいないこと、未だ20人程度のキャパで作品を発表し続けていることは、社会的な見地からは一見不遇に思えるかもしれないが、面白い人たちと知り合えて一緒に仕事をしたり交流したりできる今の状況は、誰も安直に結論づけてはいけないと思う。
さて、昨年末から「落々」のリハを再開している。相変わらずの部分と、反復する中で見出していく新たな世界との出会いがある作品です。まだどういう作品なのかは言語化できませんが、私がアーティストと自称できる根拠は、この飽く無き探究心、好奇心、そして自身の衝動に率直であり続けること、それは13歳の頃から変わっていない、ということです。
Sound Sample Market vol.2は今月の11,12日です。よろしくお願いします。
詳細はこちら。
2019年10月20日日曜日
新作「落々」について
ソロ新作のタイトルを「落々(らくらく)」とした。ネタバレすれば、空き缶の上に立って物を落とすだけのパフォーマンスだからだ。
物が落ちる時の音に美を見出したのは、松本一哉氏の『落ちる散る満ちる』に先を越されているし、サウンドアートの先駆者、鈴木昭男氏が1960年代に階段から物を落とすパフォーマンスをやられていたそうなので、別段真新しいかは、まぁ、正直疑問ではある。
しかし、空き缶の上に立つという負荷のかかった身体に起こるノイズを拡張してはどうか。そして、ノイズを抑えてポツリと物が落ちた瞬間の目を見張る感覚は、なんなのだろうか。
まだ言葉は追いつかない。「音楽」なのかどうかも正直わからない。
今のところ、30分弱のパフォーマンスです。11月アタマに2本、お披露目の機会がありますので、お立ち会いお願いします。ぜひ。
11/3 @小岩Bushbash
op 15:30 st 16:00(出演順未定)
11/5 @東高円寺U.F.O.CLUB
op 18:30 st 19:00(20:20〜予定
↓詳細
2019年9月14日土曜日
守るべきものがあるという美辞麗句について
今年の6月にパートナーの妊娠がわかり、それから2人(+1人)で生きていく為に八面六臂のバタバタの中で、はや3ヶ月、持病が大きくぶりかえしてしまった。
仕事をお休みにさせてもらって、親に金の無心を願い出て、将来への不安が大きく膨らんだところで、悪夢にうなされながら睡眠薬で明け方まで眠る日々の再来である。
これで本当に快復に向かうのかは、全く実感がない。とにかく休養をとるように努めるが、生活にメリハリがない為、なかなか気が休まない。いったいいつになったら動けるようになるのか、見通しのないまま、病院までの電車の中でふと考えた。
「守るべきものがある」という言葉はとても耳障りが良く、家庭を持つ多くの人にとって最も共感される言葉と言えるのではないか。かく言う私も、「守るべきもの」が、少しずつ形を成し、いつの間にかそれを遵守するという「気分」に巻き込まれている。
無論、それ自体悪いことはない。子供にとって親の庇護は必須である。
しかし、「守るべきもの」という美辞麗句の下に、何かを排除し、合法的に奪い、見栄え良く繕ってはいないか。「守るべきもの」以外を明に暗に、攻撃する。悪意すらなしに。
「気分」に巻き込まれるとは恐ろしいことだ。無自覚のうちに、攻撃される側だった自分が攻撃する側になっている。
「守るべきもの」を優先しつつ、心地よく閉じていながら誰もがすがれるヨスガがあるような場所を持ちたい、と思ったのでした。それはプライベートな問題に見えて、パブリックを考えていくことだと思うし、アートの在り方についても通底すると思う。
仕事をお休みにさせてもらって、親に金の無心を願い出て、将来への不安が大きく膨らんだところで、悪夢にうなされながら睡眠薬で明け方まで眠る日々の再来である。
これで本当に快復に向かうのかは、全く実感がない。とにかく休養をとるように努めるが、生活にメリハリがない為、なかなか気が休まない。いったいいつになったら動けるようになるのか、見通しのないまま、病院までの電車の中でふと考えた。
「守るべきものがある」という言葉はとても耳障りが良く、家庭を持つ多くの人にとって最も共感される言葉と言えるのではないか。かく言う私も、「守るべきもの」が、少しずつ形を成し、いつの間にかそれを遵守するという「気分」に巻き込まれている。
無論、それ自体悪いことはない。子供にとって親の庇護は必須である。
しかし、「守るべきもの」という美辞麗句の下に、何かを排除し、合法的に奪い、見栄え良く繕ってはいないか。「守るべきもの」以外を明に暗に、攻撃する。悪意すらなしに。
「気分」に巻き込まれるとは恐ろしいことだ。無自覚のうちに、攻撃される側だった自分が攻撃する側になっている。
「守るべきもの」を優先しつつ、心地よく閉じていながら誰もがすがれるヨスガがあるような場所を持ちたい、と思ったのでした。それはプライベートな問題に見えて、パブリックを考えていくことだと思うし、アートの在り方についても通底すると思う。
2019年8月6日火曜日
あいちトリエンナーレのこと
まだうまく言葉にできないことですが、言葉にしないと苦しいので、言葉にしてみます。
事実関係はこちらによく整理されているので、もしまだよくわからないよ、もしくは、断片的にしか知らないという方がいたら、目を通してみてください。
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐって起きたこと――事実関係と論点の整理
この一件は、文化活動に対するテロによる脅迫の問題や、行政による検閲の問題として語られているように思います。また、憲法で保障される「表現の自由」の解釈の問題にもなっています。
あいちトリエンナーレ参加アーティストからの連名でのステートメントというのもあります。
あいちトリエンナーレ2019、国内外の参加アーティスト72組が声明を発表。「芸術祭の回復と継続、自由闊達な議論の場を」
細々ながらもアーティストとして活動をしている自分は、上記のステートメントに賛同します。
にも関わらず、なぜ、私はここまで苦しいのでしょうか。
これを読んでくださってる方は、私の政治的な立ち位置を普段から目にしてる方だと思いますが、今一度、少し自分の立ち位置について説明します。
ヘイトスピーチのカウンターに参加こそしたことはなかったものの、心情的には全く同意していましたし、価値観の多様性を否定する言論や表現にのみ、表現の自由はない、という観点からのブログも数年前に投稿しました。
また、2015年の安保法制あたりから、アンチファシズム、アンチ安倍政権を標榜して、ツイッター上での意見表明、リツートを繰り返して、フォロワーを減らしても、それは仕方のないことと割り切っていました。
ネット上以外では、2015年以降、デモには行ける限り行き(実質10回くらいだろうか)、それは意思表明である以上に、自分と同じ気持ちのたくさんの人たちと行動を共にして、自分の元気を取り戻す作業でした。
そのような小規模ながら、地道ながら、着実な作業だと信じていたものが、脅かされているように感じます。
自分の「表現したい」という根源的なエネルギーに暗い影が落ちているからです。
暗い影は、決してアタマのおかしな少数の人によるものではなく、この国のトップや中心に近しいところにいる人たちが率先して起こしている言動によるものです。
それが何を意味するのか。
「暗い影たち」の、「表現の自由への制限」に対しての誤った解釈を、論理的に正せば、私はまた、「表現したい」というエネルギーに身を委ねられるでしょうか。
私は、そうは思えなくて、苦しんでいます。
私がアーティストであることは、先天的な属性ではないので、ヘイトスピーチなどの暴力に晒されている当事者とは、本質的に異なるということは重々承知しています。
が、私は、いま、自分が「抑圧される側」だと思っています。それは想像していた以上に苦しいです。「表現したい」という自分の生活の根底に横たわる希望が否定されている。
どうしたらこの否定する力に抗えるのか、正直、わかりません。
事実関係はこちらによく整理されているので、もしまだよくわからないよ、もしくは、断片的にしか知らないという方がいたら、目を通してみてください。
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐって起きたこと――事実関係と論点の整理
この一件は、文化活動に対するテロによる脅迫の問題や、行政による検閲の問題として語られているように思います。また、憲法で保障される「表現の自由」の解釈の問題にもなっています。
あいちトリエンナーレ参加アーティストからの連名でのステートメントというのもあります。
あいちトリエンナーレ2019、国内外の参加アーティスト72組が声明を発表。「芸術祭の回復と継続、自由闊達な議論の場を」
細々ながらもアーティストとして活動をしている自分は、上記のステートメントに賛同します。
にも関わらず、なぜ、私はここまで苦しいのでしょうか。
これを読んでくださってる方は、私の政治的な立ち位置を普段から目にしてる方だと思いますが、今一度、少し自分の立ち位置について説明します。
ヘイトスピーチのカウンターに参加こそしたことはなかったものの、心情的には全く同意していましたし、価値観の多様性を否定する言論や表現にのみ、表現の自由はない、という観点からのブログも数年前に投稿しました。
また、2015年の安保法制あたりから、アンチファシズム、アンチ安倍政権を標榜して、ツイッター上での意見表明、リツートを繰り返して、フォロワーを減らしても、それは仕方のないことと割り切っていました。
ネット上以外では、2015年以降、デモには行ける限り行き(実質10回くらいだろうか)、それは意思表明である以上に、自分と同じ気持ちのたくさんの人たちと行動を共にして、自分の元気を取り戻す作業でした。
そのような小規模ながら、地道ながら、着実な作業だと信じていたものが、脅かされているように感じます。
自分の「表現したい」という根源的なエネルギーに暗い影が落ちているからです。
暗い影は、決してアタマのおかしな少数の人によるものではなく、この国のトップや中心に近しいところにいる人たちが率先して起こしている言動によるものです。
それが何を意味するのか。
「暗い影たち」の、「表現の自由への制限」に対しての誤った解釈を、論理的に正せば、私はまた、「表現したい」というエネルギーに身を委ねられるでしょうか。
私は、そうは思えなくて、苦しんでいます。
私がアーティストであることは、先天的な属性ではないので、ヘイトスピーチなどの暴力に晒されている当事者とは、本質的に異なるということは重々承知しています。
が、私は、いま、自分が「抑圧される側」だと思っています。それは想像していた以上に苦しいです。「表現したい」という自分の生活の根底に横たわる希望が否定されている。
どうしたらこの否定する力に抗えるのか、正直、わかりません。
2019年7月25日木曜日
『ヒト、ヒト、モノ』に寄せて
美というものを仮に、目を惹きつけるもの・状態を指す言葉だとして、ダンスにおける「美」は、「間(あわい)」の中に起こるものではないかと思う。
無機物と有機物の間、重力と無重力の間、自意識と無意識の間...etc
それらの「間」は、私の目を惹きつける。では、それをいかにして再現可能な形に落とし込むか。
まず私たちは観る者のチューニングを試みる。知覚を新鮮に開かせる為に、些細で間欠的な音を聴かせ、まず耳を研ぎ澄ます。
そしてダンスは自我を主張し過ぎず、かといってそれが無いフリをするわけでもなく、淡々と進む。幽けき音の中で、無機物の存在、その揺らぎと共に進行するダンスに、明瞭に定義できない複数の「間」が散りばめられる。
振付は、水の形象が作り出す線を「なぞる」というところから起こしている。水は、「間」を象徴するものとして、本作では様々な形で登場する。使用楽曲「蘇州夜曲」でも水のモチーフは複数回登場する。
そのドライな低体温の中で繰り広げられる劇的な展開に、誰もが目を惹かれずにはいられない設計を目指した。
無機物と有機物の間、重力と無重力の間、自意識と無意識の間...etc
それらの「間」は、私の目を惹きつける。では、それをいかにして再現可能な形に落とし込むか。
まず私たちは観る者のチューニングを試みる。知覚を新鮮に開かせる為に、些細で間欠的な音を聴かせ、まず耳を研ぎ澄ます。
そしてダンスは自我を主張し過ぎず、かといってそれが無いフリをするわけでもなく、淡々と進む。幽けき音の中で、無機物の存在、その揺らぎと共に進行するダンスに、明瞭に定義できない複数の「間」が散りばめられる。
振付は、水の形象が作り出す線を「なぞる」というところから起こしている。水は、「間」を象徴するものとして、本作では様々な形で登場する。使用楽曲「蘇州夜曲」でも水のモチーフは複数回登場する。
そのドライな低体温の中で繰り広げられる劇的な展開に、誰もが目を惹かれずにはいられない設計を目指した。
2019年7月20日土曜日
パフォーミング・アーツと言葉
ダンスの山下彩子と、せんだい卸町アートマルシェ2018で初演した『ヒト、ヒト、モノ』を映像資料用にリクリエーションしている。
『ヒト、ヒト、モノ』は、"a440pjt"で培ってきた自分のライブ・インスタレーションに山下のダンスが絡む共作作品で、初演では30分弱だったものを20分に収まるよう、無駄な手を省きつつ、いかに作品のキャラクターを強固にできるか試行錯誤している。
作品のコンセプトがなんなのか、明確に言葉で共有した訳ではない。"a440pjt"を頻繁に観に来てくれていた山下が、それにダンスを合わせてみたいという意欲を持ってくれたのがきっかけだった。
山下のダンス小作品『ササヤカなキモチについてのセイリ。』(2017)、『Tiny choices, Tiny things』(2018)で音楽を担当し、少しづつ堆積して来た共通項を深める作業であり、それらの小作品の枠では果たせなかった共作に挑戦した時間になっている。
本作の一端を敢えて言葉で説明すると、『ヒト、ヒト、モノ』における山下のダンスは、「気配のダンス」という言葉が初演のリハーサル時のメモとして残っているが、奇妙な生き物のような、土着の踊りのような、独特の空気感を纏いながら、自分が創り出す幽かな音の空間に共存している。音によって踊りがきめ細かく映り、踊りによって音への繊細さが高まる、そんな時空間が時折、産まれる。
初演時に、同じく卸町アートマルシェに参加していたスタンダップ・コメディアンの清水宏さんに口頭で「他人に自分の中の必然性を伝える為にロジックは必要なんだよ」というお言葉を頂いたが、本当にそうだな、と今でも思う。
映像資料に付けるアプリケーションや企画書に、自分たちのロジックを伝えるための言葉が圧倒的に不足していることを実感する。それは、作品が煮詰められていない、ということではないと思う。パフォーミング・アーツにおいて、微細な感覚を積み重ねて作品を創って行くと、往往にして言葉は遅れていく。
言葉を追いつかせる、という意味で、作品を「言葉に起す」批評は重要だと思うが、一つの作品を長期に渡って育てる為にも、いつの日かの「単独公演」以前に、様々な人に触れてもらえるようにしたいと考えている。
なので、ご興味ある方は佐々木(sasakisujin@gmail.com)までご連絡ください。リハーサルにお越し頂く、映像のリンクを共有するなどのカタチで、ご協力いただければと思っています。フィードバックは雑感で構いません。
あと、アプリケーションはいくつか出しますが、他所でも積極的に上演したい作品です。こちらも合わせてご助力、よろしくお願い致します。
『ヒト、ヒト、モノ』は、"a440pjt"で培ってきた自分のライブ・インスタレーションに山下のダンスが絡む共作作品で、初演では30分弱だったものを20分に収まるよう、無駄な手を省きつつ、いかに作品のキャラクターを強固にできるか試行錯誤している。
作品のコンセプトがなんなのか、明確に言葉で共有した訳ではない。"a440pjt"を頻繁に観に来てくれていた山下が、それにダンスを合わせてみたいという意欲を持ってくれたのがきっかけだった。
山下のダンス小作品『ササヤカなキモチについてのセイリ。』(2017)、『Tiny choices, Tiny things』(2018)で音楽を担当し、少しづつ堆積して来た共通項を深める作業であり、それらの小作品の枠では果たせなかった共作に挑戦した時間になっている。
本作の一端を敢えて言葉で説明すると、『ヒト、ヒト、モノ』における山下のダンスは、「気配のダンス」という言葉が初演のリハーサル時のメモとして残っているが、奇妙な生き物のような、土着の踊りのような、独特の空気感を纏いながら、自分が創り出す幽かな音の空間に共存している。音によって踊りがきめ細かく映り、踊りによって音への繊細さが高まる、そんな時空間が時折、産まれる。
初演時に、同じく卸町アートマルシェに参加していたスタンダップ・コメディアンの清水宏さんに口頭で「他人に自分の中の必然性を伝える為にロジックは必要なんだよ」というお言葉を頂いたが、本当にそうだな、と今でも思う。
映像資料に付けるアプリケーションや企画書に、自分たちのロジックを伝えるための言葉が圧倒的に不足していることを実感する。それは、作品が煮詰められていない、ということではないと思う。パフォーミング・アーツにおいて、微細な感覚を積み重ねて作品を創って行くと、往往にして言葉は遅れていく。
言葉を追いつかせる、という意味で、作品を「言葉に起す」批評は重要だと思うが、一つの作品を長期に渡って育てる為にも、いつの日かの「単独公演」以前に、様々な人に触れてもらえるようにしたいと考えている。
なので、ご興味ある方は佐々木(sasakisujin@gmail.com)までご連絡ください。リハーサルにお越し頂く、映像のリンクを共有するなどのカタチで、ご協力いただければと思っています。フィードバックは雑感で構いません。
あと、アプリケーションはいくつか出しますが、他所でも積極的に上演したい作品です。こちらも合わせてご助力、よろしくお願い致します。
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