2026年6月24日水曜日

手塚夏子の「ダンス」について

手塚さん(面識あるからね)のワークショップを受けたのは2017年、三鷹のSCOOLだった。自分のからだの部位に意識を向けてその感覚を紙に描き出してみる、というようなお題で、参加者20名弱?くらいが静かに各々の身体への内観を楽しんだ。当時の私のメモでは、「身体の中で気になるところを観察して、その感覚を絵に描く。名前もつける。書けたら次の気になるところ、という風に続ける。」と綴られ、また、「『観察』とは『判断しない』、『監視しない』」と注意書きがある。

手塚さんはそうやって自分の身体の内側に意識を向けていると「あのダンス」が自然と出てくるとのことだった。(記憶違いかもしれない)


私は上記のYouTube映像を、2008?年ごろに見て、めちゃくちゃすげえ!かっこいい!と思っていた。いま言葉にすれば、それは日本語の文化圏において社会化されていない身振りを実現していると思ったというところか。簡単に言えば、「なににも似てない動き」だった。

そして、10年越しにワークショップを受けて、そのダンスのタネを教えてもらえたけど、誰がやっても「手塚夏子のダンス」になる/できるというような種類のタネではないことに大いに驚いた。私を含め数名のワークショップ参加者は、手塚さんの指示通りに身体を内観していくと脱力して心地いい状態になるみたいな反応だった。

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手塚さんの作品を初めて観たのは、『私的解剖実験-5』なんだけど、駒場アゴラだったこと以外、あまり印象に残ってなくて、舞台を再び目撃するのは2016年STスポットでの『15年の実験履歴 〜私的な感謝状として〜』であった。(補足すると手塚さんは2011年の震災以降、福岡に拠点を移している)「レクチャーパフォーマンス」として、自分が何をおこなっているかを解説しながら、最終的には手塚さんの「あのダンス」に至る。

意識で統括されずに手足がばらばらに動く、喋ることすらままならない、その「ダンス」の在り方に大いに触発を受けた。「YouTubeで見たアレだ!」というより、そこに至るまでの道程も示されながら観るそれは、衝撃的だった。人の、意識が瓦解するのを目の当たりにしてるような感覚を覚え、興奮や驚き、喜びもありつつ、「おそれ」があった。

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それから大分空いて、2026年の6月、つまり今月、『私的解剖実験3 リクエストバージョン』を、早稲田大学のGCC Common Roomというスペースで拝見した。プロットを説明すると、下の写真の紙が客席には置かれていて、それに加えて「ルール説明」が手塚さん自身から行われる。



たとえば、「リクエストメニューA」群から「1)右手のひらに」を選択した観客①が、舞台上下に設置されたマイクを介して読み上げる。
次の観客②は、「リクエストメニューB」群から「19)ふわふわの柔らかな毛が生え」と、またマイクを使って指示をリクエストする。そうすると、「右手のひらに」「ふわふわの柔らかな毛が生え」という意識で手塚さんが動き出す。
そして観客③がまた「リクエストメニューA」群から〜となっていくわけだが、そのとき、①と②のリクエスト(奥の壁にプロジェクションされている)を読み上げてから③は自身のリクエストを読み上げることになる。

私には、手塚さんは実直にイメージし、それによって「動かされる」と見えていたが、観客によっては「?」な人もいたかもしれない。ただ、ここで特筆するべきは、上記の例での①②のリクエスト「右手のひらに」「ふわふわの柔らかな毛が生え」は、観客からのリクエストが蓄積していき時間を経るにしたがって、同じ動きだけではなくなっていくことだ。「右手のひらに」「ふわふわの柔らかな毛が生え」とイメージから発する動きが、たとえば右手のひらが上方に上がっていく動きだったとしたら、最初のうちは同様な動きが繰り返されているのだが、他のリクエストを経ていくと、たとえば右手が上がることに影響されて左足が前に放り出されるというアクションが起きたりする。でもそれは偶発的な要素なので、また他の観客が読み上げたときは左足でなく、右肩が突発的に反応することなどが起こる。

このような身体のアクション、「ダンス」の在り方を、公式のアナウンスでは、「体のいろいろな部分に様々なイメージを与え、その反応に身をまかせると、やがて体の細部が自治的な意識を目覚めさせ、それがダンスになっていく。」と言語化されている。この言葉には、当然「ダンスの定義は?」という問題をすっ飛ばしているわけだが、その事前情報によって私は、来場前〜開演してからもしばらくは、マリーナ・アブラモヴィッチ『Rhythm 0』ばりに、リクエストに応えていく手塚さんが「人間」でなくなっていくのを目撃するような、つらい気持ちになるのではないかと身構えていた。

しかし、伴走する音楽もないなか、自身のコントロールを外れていく、体の一部一部が「何か(自治意識なんだろうか...?)」を獲得してばらばらに動いていく、時間とともに自意識のタガが外れていくその様を観ていて、かつてYouTubeで見た動きへの感動とも2016年のSTスポットで拝見したときの「おそれ」とも、違う感覚が触発された。

私は、時間が進むにつれ、身構えていた鎧のような感情がほどけ、朗らかで鷹揚、「オープン」な感覚になっていき、性的な興奮を覚えていた。(補足すると、中盤を過ぎたあたりで手塚さんから観客に「リクエスト」するという要素もあったのだが、私はその前から手塚さんのエネルギーに触発されて渦中に巻き込まれいた。)

私が感じた性的興奮に直接言葉を与えることは難しいのだが、谷川俊太郎の『なんでもおまんこ』を私は連想していた。観客からの「リクエスト」に実直に応じる手塚さんに発情してるとか、いますぐ自慰に耽りたい気分とかというサイズ感ではなく、漠然とエネルギーを「大きなもの」と交流させたい、という欲求だった。舞台芸術に頻繁に足を運ぶようになって15年は経つだろうか、しかし初めての興奮の仕方であった。

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変態的な自白とともにこの文章を終えてもいいのだが、もう少し踏み込んでみたい。捩子ぴじんさんの『Urban Folk Entertainment』に出演したとき、捩子さんは「あくびは「ダンス」なんだ」というようなことを言って、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』(当然、ニジンスキーが文脈として意識されたんだろう)を背景に出演者10名全員があくびをひたすら繰り返す場面が、作品の後半(最大の山場?)にあった。

私の個人的な解釈だが、「あくび」の伝播性、人のあくびを見ていると自分もあくびが触発される性質のことを、捩子さんは(拡張した概念として)「ダンス」と言っていたんだろうか、と思う。かつて、三浦雅士が散々「素晴らしいダンスは踊り手から観客に伝播するのだ(大意)」とバレエの文脈で述べており、今更私が声を高らかにするべきことなのかはわからないが、「ダンスの伝播」が「ダンス」の優劣を判断する基準として存在する(した)。しかし、個人的には「観客にまで伝播する」ダンスに、しばらく出会えなかった。

そして、手塚の「ダンス」に、「それ」は確かにあったのだ。もちろん、これには「客観的な」実証手段はない。そもそも、伝播したかどうかという判断をダンスの良し悪しに持ち込むなら、それには観客が主観的に答えるしかない。しかし、私には、そのひとりひとりが「主観的に答えるしかない」ことを言語化していくことが、ひとつ、現代において、かつ上演芸術を語ることにおいて、とても重要なことではないだろうか、と思うのだ。

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