2026年6月24日水曜日

手塚夏子の「ダンス」について

手塚さん(面識あるからね)のワークショップを受けたのは2017年、三鷹のSCOOLだった。自分のからだの部位に意識を向けてその感覚を紙に描き出してみる、というようなお題で、参加者20名弱?くらいが静かに各々の身体への内観を楽しんだ。当時の私のメモでは、「身体の中で気になるところを観察して、その感覚を絵に描く。名前もつける。書けたら次の気になるところ、という風に続ける。」と綴られ、また、「『観察』とは『判断しない』、『監視しない』」と注意書きがある。

手塚さんはそうやって自分の身体の内側に意識を向けていると「あのダンス」が自然と出てくるとのことだった。(記憶違いかもしれない)


私は上記のYouTube映像を、2008?年ごろに見て、めちゃくちゃすげえ!かっこいい!と思っていた。いま言葉にすれば、それは日本語の文化圏において社会化されていない身振りを実現していると思ったというところか。簡単に言えば、「なににも似てない動き」だった。

そして、10年越しにワークショップを受けて、そのダンスのタネを教えてもらえたけど、誰がやっても「手塚夏子のダンス」になる/できるというような種類のタネではないことに大いに驚いた。私を含め数名のワークショップ参加者は、手塚さんの指示通りに身体を内観していくと脱力して心地いい状態になるみたいな反応だった。

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手塚さんの作品を初めて観たのは、『私的解剖実験-5』なんだけど、駒場アゴラだったこと以外、あまり印象に残ってなくて、舞台を再び目撃するのは2016年STスポットでの『15年の実験履歴 〜私的な感謝状として〜』であった。(補足すると手塚さんは2011年の震災以降、福岡に拠点を移している)「レクチャーパフォーマンス」として、自分が何をおこなっているかを解説しながら、最終的には手塚さんの「あのダンス」に至る。

意識で統括されずに手足がばらばらに動く、喋ることすらままならない、その「ダンス」の在り方に大いに触発を受けた。「YouTubeで見たアレだ!」というより、そこに至るまでの道程も示されながら観るそれは、衝撃的だった。人の、意識が瓦解するのを目の当たりにしてるような感覚を覚え、興奮や驚き、喜びもありつつ、「おそれ」があった。

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それから大分空いて、2026年の6月、つまり今月、『私的解剖実験3 リクエストバージョン』を、早稲田大学のGCC Common Roomというスペースで拝見した。プロットを説明すると、下の写真の紙が客席には置かれていて、それに加えて「ルール説明」が手塚さん自身から行われる。



たとえば、「リクエストメニューA」群から「1)右手のひらに」を選択した観客①が、舞台上下に設置されたマイクを介して読み上げる。
次の観客②は、「リクエストメニューB」群から「19)ふわふわの柔らかな毛が生え」と、またマイクを使って指示をリクエストする。そうすると、「右手のひらに」「ふわふわの柔らかな毛が生え」という意識で手塚さんが動き出す。
そして観客③がまた「リクエストメニューA」群から〜となっていくわけだが、そのとき、①と②のリクエスト(奥の壁にプロジェクションされている)を読み上げてから③は自身のリクエストを読み上げることになる。

私には、手塚さんは実直にイメージし、それによって「動かされる」と見えていたが、観客によっては「?」な人もいたかもしれない。ただ、ここで特筆するべきは、上記の例での①②のリクエスト「右手のひらに」「ふわふわの柔らかな毛が生え」は、観客からのリクエストが蓄積していき時間を経るにしたがって、同じ動きだけではなくなっていくことだ。「右手のひらに」「ふわふわの柔らかな毛が生え」とイメージから発する動きが、たとえば右手のひらが上方に上がっていく動きだったとしたら、最初のうちは同様な動きが繰り返されているのだが、他のリクエストを経ていくと、たとえば右手が上がることに影響されて左足が前に放り出されるというアクションが起きたりする。でもそれは偶発的な要素なので、また他の観客が読み上げたときは左足でなく、右肩が突発的に反応することなどが起こる。

このような身体のアクション、「ダンス」の在り方を、公式のアナウンスでは、「体のいろいろな部分に様々なイメージを与え、その反応に身をまかせると、やがて体の細部が自治的な意識を目覚めさせ、それがダンスになっていく。」と言語化されている。この言葉には、当然「ダンスの定義は?」という問題をすっ飛ばしているわけだが、その事前情報によって私は、来場前〜開演してからもしばらくは、マリーナ・アブラモヴィッチ『Rhythm 0』ばりに、リクエストに応えていく手塚さんが「人間」でなくなっていくのを目撃するような、つらい気持ちになるのではないかと身構えていた。

しかし、伴走する音楽もないなか、自身のコントロールを外れていく、体の一部一部が「何か(自治意識なんだろうか...?)」を獲得してばらばらに動いていく、時間とともに自意識のタガが外れていくその様を観ていて、かつてYouTubeで見た動きへの感動とも2016年のSTスポットで拝見したときの「おそれ」とも、違う感覚が触発された。

私は、時間が進むにつれ、身構えていた鎧のような感情がほどけ、朗らかで鷹揚、「オープン」な感覚になっていき、性的な興奮を覚えていた。(補足すると、中盤を過ぎたあたりで手塚さんから観客に「リクエスト」するという要素もあったのだが、私はその前から手塚さんのエネルギーに触発されて渦中に巻き込まれいた。)

私が感じた性的興奮に直接言葉を与えることは難しいのだが、谷川俊太郎の『なんでもおまんこ』を私は連想していた。観客からの「リクエスト」に実直に応じる手塚さんに発情してるとか、いますぐ自慰に耽りたい気分とかというサイズ感ではなく、漠然とエネルギーを「大きなもの」と交流させたい、という欲求だった。舞台芸術に頻繁に足を運ぶようになって15年は経つだろうか、しかし初めての興奮の仕方であった。

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変態的な自白とともにこの文章を終えてもいいのだが、もう少し踏み込んでみたい。捩子ぴじんさんの『Urban Folk Entertainment』に出演したとき、捩子さんは「あくびは「ダンス」なんだ」というようなことを言って、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』(当然、ニジンスキーが文脈として意識されたんだろう)を背景に出演者10名全員があくびをひたすら繰り返す場面が、作品の後半(最大の山場?)にあった。

私の個人的な解釈だが、「あくび」の伝播性、人のあくびを見ていると自分もあくびが触発される性質のことを、捩子さんは(拡張した概念として)「ダンス」と言っていたんだろうか、と思う。かつて、三浦雅士が散々「素晴らしいダンスは踊り手から観客に伝播するのだ(大意)」とバレエの文脈で述べており、今更私が声を高らかにするべきことなのかはわからないが、「ダンスの伝播」が「ダンス」の優劣を判断する基準として存在する(した)。しかし、個人的には「観客にまで伝播する」ダンスに、しばらく出会えなかった。

そして、手塚の「ダンス」に、「それ」は確かにあったのだ。もちろん、これには「客観的な」実証手段はない。そもそも、伝播したかどうかという判断をダンスの良し悪しに持ち込むなら、それには観客が主観的に答えるしかない。しかし、私には、そのひとりひとりが「主観的に答えるしかない」ことを言語化していくことが、ひとつ、現代において、かつ上演芸術を語ることにおいて、とても重要なことではないだろうか、と思うのだ。

2026年6月12日金曜日

主観が世界と接続しようとする営為

ひっさびさにBad Brains聴いてるけどやっぱめちゃくちゃかっこいいな。


衝動性とか、身体性とか、焦燥感とか、暴力性とか、どんな言葉で象られても、汲み尽くせない、魅力。
私が主に参考にして、享受して、愛聴し続けている文化は、サブカルチャー(下位文化)としてのロック、パンク、オルタナティブ、ハードコア、レベルミュージックであって、そこから「身体感覚が音を媒介して共振・共鳴する」であったり、そこから推し進めて「音という現象は、ひとつの主観に音楽を興すための媒体に過ぎない」ということを考えているわけです。

最近、「(小劇場)演劇が流行っている/流行っていない」みたいなトピックが話題になっていましたが、自分が影響を受けてきた音楽であれ、舞台芸術であれ、現代美術であれ、それなりに流行ってなければ自分はこの道を志そうとしなかったよ、と思う。けど、「極東」の島文化圏で、どう応答するべきかは私は常に考えてんすけどね。

日本語文化圏だと往々にして東京地方が中心ぶってるけど、世界的に見たらトウキョウなんて経済的にも文化的にもアドバンテージが無くなってきてるのは明白ですよね。そこで名誉白人的でもオリエンタリズムでもナショナリズムでもない表現をやっている/やっていくつもりだし、私が好きな日本語文化圏のアーティストはその意志を感じさせてくれます。

でも、その感覚を共通認識として舞台芸術界隈でもアンダーグラウンド音楽界隈でも、気軽に話せるかと言われたら、あんまり意識してこなかったなと思ったので、ここで表明しておくよ。

私は君のどうしようもない主観がどうしようもないままに世界と接続しようとする営為がみたいんだ。そこには正直であろうぜ。





2026年3月22日日曜日

『ピギーバック』の解釈可能性、或いは、私たちが享受している「平和」とはなんであったか


文・佐々木すーじん



せんがわディレクターズセレクション『ピギーバック』(脚本・細川洋平、演出・生田みゆき)を、私はせんがわ劇場DELのご縁でゲネプロ観覧させてもらった。

『ピギーバック』は大枠で、架空の町の町長、ナリタ・アト(大森博史)とその娘、成田箒星(渡邉りか子)を中心に話は展開していく。登場人物も入れ替わり立ち替わり、悲喜交々、だが、そこまで複雑な人間関係ではないにも関わらず誰にも共感しにくいのは、登場人物の名前が個性的すぎるからか。
私は中盤まで「?」が頭の中を埋めていた。


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ハッとさせられたのは、中盤、ジャーナリスト・感光(藤家矢麻刀)が発語した台詞において、その町は侵略によって歴史を塗り替えて作られた町であることが明かされてからである。
そうか、これは侵略の話だったのか。では誰がどこへ侵略した事件を題材にしたのかな?と思いそれ以降注意深く拝見していたが、あくまで架空の町、架空の人々として具体性を一切持たずに物語は終了した。


その具体性のなさに、しかし、私は細川の忍耐力と到達した視座の深さを勝手に読みこんでしまった。


それは、具体的にどこかの国や町、たとえば2026年3月の現在であれば、イスラエルとアメリカが国際法を無視してイランを攻撃しているが、そういった個別具体の話になったときに隠れてしまう何かに光を当てる為に、細川が意図的に抽象的でどこの地域とも文化圏とも読み取れない物語に仕上げたと仮定したからである。


特定の地域や国の侵略であれば、「なぜ」「だれが」「どのように」などの輪郭が明確になり、「加害側」「被害側」という線引き、そして「被害の実態」まで、具体的に調べることもインターネットが発達している今日的にはさほど難しいことではない。


しかし、細川は、そうはしなかった。なぜか。
町長ナリタ・アトは、演説のシーンで「すべては子どもたちの笑顔のために」(だったか?)という、政治家としてはいささか陳腐すぎるほどの決め台詞を使う。

そう、ドラマの抽象度が高いとはいえ、政治家の演説として「陳腐すぎる」のである。あるいは挿入される登場人物たちのエピソード、高校生女子の友情と復員兵によるDV、お節介な若い教師といじめの誤認、気難しい年ごろの娘を持つ父子家庭の父、別れた若い男女の再会、実母の死を上司に報告できない若者、どれも観客に共感を(おそらく...)求めていない上、陳腐すぎるのである。


つまり、『ピギーバック』の舞台は、「陳腐な町」、どこにでも存在する町、なのだとしたら?


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そのような仮説に基づくと、登場人物の名前が個性的であることも、先住文化の遺品を「アプリア」(だっけ?)とラテン語由来で呼ぶという謎設定も、特定の文化や地域、事件を連想させないという理由だと整理できる。


どこにでもある、侵略と平和、のはなし?だったのか。
私は大和民族なので、いかに倭人がアイヌから土地を略奪したか?または、いかに琉球王国を併合したか?太平洋戦争における侵略は充分に償えたと言えるのか?

それらを知るべき。知って償うべき。


いや、ちがう。特定の地域や文化圏の話ではないのだった。そして私は慄く。

たとえば、せんがわ劇場前の通称「安藤ストリート」は?仙川駅前の街並みは?あるいは、私が住む町田郊外の住宅地は?


人がいたかも知れないし、先住文化の構成員は動物だったかもしれない。
豊かな森や畑や村や原や川が、生活があったもしれない。


そこに「平和」な街を作ったのは、誰か?

ナリタ・アトのように誰かが誰かの血を流させたのだ。

私たちが享受している(まだかろうじて、してきた、ではない)「平和」とは、誰かが誰かの血を流させたあとを塗り替えて成立している。細川の紡いだ奇妙な物語には、その事実が指し示されているように私は感じた。


私は「戦争反対」を叫ぶ時、「ラインの向こう側」を糾弾しているつもりでいた。
しかし、この地上の私たちの生活はすべて、既に「ラインの向こう側」で営まれていたのである。

それはこの作品へのひとつの解釈にすぎない。
しかし、同時に事実であることは、誰にも否定し得ないのだ。

2026年3月2日月曜日

七丈記

いろいろあって、本当にいろいろあって、引っ越しました。部屋が7畳という半端な数字だけど、そこそこ広いしキッチンあるしで楽しく快適にやってますわ。きっと七福神がいるのさ。

本当にかなしかったけど、いっとき凹んでいても復活できるのはなぜなんだろう。人間、といっても私は手帳持ちですけど、よくできてるよね。すごいよね。引越したことより今年の予定が思う通りに運ばなすぎて、つまり公募落ちまくってて凹む。皆んな「呼吸音のパフォーマンス」なんて興味ないのか。オジのくせにギャルとか言ってっから炎上の危険を回避するのか。なんて言われようと私はギャルだけどな。

ってことで、佐々木すーじんにお気軽にご用命ください。お仕事ください。ギャラは応相談。ひまだとかなしい。どうぞよろしく。

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あとさ、『呼吸の音楽:《kq》 ノート 2019-2025』というタイトルのZINEを作ってるよ!

"kq"〜"kq Duo"までの小史を俯瞰できることを目的に、いままでの公演の記録写真や"kq Duo"を共作してくれた田崎小春さん、清水めぐ美さんと佐々木とが鼎談を収録してます。2022年の冊子に引き続き、原島大輔氏の深い深い書き下ろし寄稿も。宇波拓氏がエンジニアリングしてくれた"kq Duo"公演のライブ録音のDLコード付。

お楽しみに!

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2017年にソロを始めたときはさ、音楽とか演劇とかダンスとか「ジャンル」にこだわる意味なんてないと思ってた。まさか助成金の申請の足枷になるとはね。音楽やってるくせに音大出てないとか評価されないとはね。とはまま思うよ。だからと言って、自分がやりたいことをやっていくしかないじゃんねえ。お金ないねえ。困ったねえ。

とにかく燃えていくしかない。時間はない。と思っていても火がつかない。そんなこともままあるよね。そんなときはのんびりしたらいいんだよ。ウツ病から私が学んだのはそんなこと。

ではまたー!

2025年12月7日日曜日

7度『東京ノート』レビュー



文・佐々木すーじん



イベントや公演をやる人間として身近な話からはじめます。恐縮です。


自分のイベントの時に上演中に空調の音がするのがイヤで、開演前にスイッチを切る。するとその「場」から空調の作動音が消え、自然にお客さんも黙ってしまい、まるでもう開演するかのようにシンと静まりかえってしまうことが、よくある。

7度の『東京ノート』はこの空調を切ったタイミングで山口真由さんが話しはじめた。油断ならない声のトーンだった。


そこからしばらく、平田オリザ作『東京ノート』がどのような戯曲か?という粗筋や、青年団『東京ノート』初演時が1994年で、91年に湾岸戦争、92年にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争があってPKO法の成立、それが何の略語か、当時子どもながらにどんな思いがあったか、などの「予備知識の補足」をアナウンスする。山田裕子さんも山口さんの横に着いて合いの手を差し挟むのだが、まるで仲の悪い漫才師のように不穏な空気が続いていた。


不穏さの原因は山口の語り口のようだった。その硬質な声のトーンは、不器用な人が親しげにしようと努めてるのかと最初は勘違いした。しかし、ぎこちなさはなくむしろ流暢なのだが、全く親密さを感じさせない語りかけが続いた。まるで観客を牽制するようだった。


そのトーンはシームレスに始まった上演中の台詞の発語も同質であった。ただ、上演中の台詞は全て、『東京ノート』からの引用だったようだ。(原作を購入する気はないので確かめない)


山口と山田、俳優2人で『東京ノート』を再構成するのだと私は勘違いしていたが、『東京ノート』に出てくる他愛もない親族たちの会話や、架空の戦争へのリアリティのある台詞たちのほとんどを山口が発語した。それも、イタコのように様々な登場人物を己に宿して発話する、というのではない。しかし、無機質に機械的に読み上げるわけでもない。登場人物とその台詞のトーン、抑揚、テンションやニュアンスの温度感を細かく使い分けている。これだけでも超人的な技巧であり気の遠のくような稽古量を想像させる。


亡霊が語っているような質感は、堀企画『トウキョウノート』を思い出さずにはいられなかった。だが、「上演前のアナウンス」の時間に「物理現象としての声は、どんなに時間が経ってもごく微量の波が残っていて、それを捉え拡張することで100年前の声でも再生できる」という唐突に挟まれたエピソードを思い起こす。それは「設定」ではなくある種「信仰のようなもの」に基づくのだと気づく。



開場中写真撮影可でした



ここからちょっと迂回していくつかの要素を確認しつつ、その直感を説明したい。


原田裕規氏の、とりとめもない家族写真をとりとめなく手にとっては眺める様子を長回しで撮影した映像《One Milliom Seeing》がプロジェクションされているなかで、山口が発語する『東京ノート』をコラージュした台詞たちは、誰のものかわからない、他愛ない「平和な日常風景」と、かけがえのなさ、とりかえしのつかなさとをつなげていく。上演中に何度も山口は古い(とアナウンスされた)デジタルカメラでシャッターを切り、その度に会場BUoYのコンクリート剥き出しの壁が、フラッシュで切り取られ照らされる。原田の映像作品とのつながり以上に、一瞬しか切り取らない即時性、しかしその一瞬にそれまでの被写体の関係性・連続性が残る写真というメディアの特徴が、7度『東京ノート』という演劇作品との相似形を連想させる。そして戯曲『東京ノート』にあらかじめ埋め込まれた「戦争」というトピックに対し、それまで佇まいや緩慢な歩みで存在を示していた山田(衣装も黒子のようだった)が発語する「戦争反対」(青年団の上演ではやや空疎に発話されていたと記憶する印象的な台詞である)の切迫感のあるリフレインによって、現在の我々が「互いに」、また「戦争」と、90年代とは異なる距離感にいることが暗示される。


では、なぜ山口(山田とは対照的に衣装はFunnyで不思議な質感のものを着ている)は、ノスタルジーに絡め取られるでもなく観客を牽制までしながら90年代に書かれた台詞たちを静かな強度で語り続けるのか。その衣装から「トリックスター」という概念が頭をよぎる。しかし安易にそれらと結びつけるには違和感が残る。それらの特徴が「社会秩序や既成概念を超越する(もしくは、してしまう)」強靭さや軽薄さであるとするなら、禁欲的で台詞とも観客とも一体化することを拒絶する山口の振る舞いは、何か大切なものに近づこうとする意志とその行為への贖罪を感じさせた。その真摯さ、誠実さが捧げられている対象は、しかし、西欧的な神のような絶対者ではない。ただの人の、匿名の、とりとめもない生活、会話、関係、それらをまた「ただの人」であるアーティストが肯定的に「かたる」ことへの、不均衡、傲慢さを、その時の自身の立ち位置の曖昧さを、直視し受け止めようとしていたのではないか。


1994年に書かれた戯曲を2025年に再構成して80分ほどの「一瞬」を切り取る、7度『東京ノート』は、写真とは異なり誰かが書き残した言葉でしか残らないが、その強度は私の心の中に像を結んでいる。




7度『東京ノート』2025/11/27- 30 会場・北千住BUoY

原作・平田オリザ 構成台本・7度 演出 伊藤全記(7度)出演 山口真由(7度)・山田裕子


2025年8月29日金曜日

アクセシビリティや障害者割引について思うことなどを

先日、今年の自主企画公演、仮定の微熱"kq Duo"の情報を公開しました。
昨年に引き続き、アクセシビリティ情報も公開しています。(リンクうまく貼れない...もうだめだ)

去年の仮定の微熱"kq"東京公演のアクセシビリティを大きく更新できていないのですが、去年のこれは友人であり尊敬するアーティストである武本拓也くんの京都芸術センターでの公演『庭の話』から一部を無断で借用、アレンジして、事後的に「これ作る労力大変だったよな...」と反省して武本くんやクリエーションメンバー・出演者である中谷優希さん(アクセシビリティの勉強会などやられていたので)に、無断で借用したことを伝え謝罪の連絡をして、全く問題ないですよ、とご快諾を得たものです。

イベント主催側はアクセシビリティをどんどん公開した方がいいよね、と思っているけど、つまり私も他イベントの文言を借用していたり、ツアー先などに関しては自分が現地に行ってないからノータッチだったりと、なにも威張れないのです。

ただ可能な限り公開したいと思っている。せめて「鑑賞に際して必要なサポートがあれば、お気軽にお申し付けください」の一文だけでも。(自分が悩んでる立場だったら「相談できそうかどうか」だけで、すでに大きなハードルだから)

というか、日本だったら文化庁?総務省?どっかガイドライン出してるのかな?と思って検索。ウェブにおけるアクセシビリティに関するページが大量に出てきて既になかなか難しい。ガイドブックがあった。2020年、5年前のか。

アクセシビリティに関する、基本的な態度として「完璧なものは存在しない(ので、相談やサポートする姿勢を明確に伝えるのが大切ですよね)」というのは、私もようやくわかってきたところです。だから、上記のガイドブックのように、それぞれの特性やどういう傾向があるか知ることは大切だが、それによって全てカバーできるわけではない。

たとえば、私は鬱病で2級の精神障害者手帳を持っているけど、それはつまり当日になって体調が悪くて出発できないリスクを常に抱えている状態で、チケットは売り切れるかもしれないので予約はしたい、だけど当日精算にしたい、というニーズがあるわけです。

それは会場や運営スタッフによる物理的・精神的障害というより、企画制作側に理解してほしいニーズ(近年はクレジットカードなどでの事前決済のみの舞台公演もあるので)なのですが、上記のガイドブックにはそういうことは書いてない。

アクセシビリティを公表することで排除を明文化してしまうのではないか?というような葛藤もあったが、ただの非障害者マジョリティ側の幻想でしかなかった(なぜなら明文化するしないに関わらず、さまざまな理由から対象外になってしまう人たちをゼロにはできないので)な、むしろ明文化しないことで問い合わせるコストを相手に支払わせているな、と今では思う。

あと、アクセシビリティや障害に関連して、おそらく多くの非障害者が知らないことをひとつ。「障害者雇用」とかあるから最低賃金くらいの収入はあるんでしょ?と誤解しがちなんですけど、一般企業の障害者雇用の多くは求人の時点で「これは身体障害しか想定してないね...」みたいな求人がほとんどで、精神障害者が「毎日出勤することは難しい」と思っていても、少なくとも私はそれに応えてくれる求人を見つけられなかった。

でも、私はバイトするなら障害者であることを隠せるし、多くの職場でそうしてきたけど、もちろん欠勤が続いて気まずくなると辞めるしかなくなるわけで。そうやって、障害当事者みんなが最低賃金が保証される仕事に就けるわけではないのです。

また、特性や程度によってはガイドヘルパー(外出時の付き添い介助者)なしに外出でいない人もいる。その場合、ガイドヘルパーの交通費や入場料は、もちろん障害当事者が支払う、ということは意外と知られていない。

もちろん、どこまで公に、オープンにしていきたいかという問題は、公共劇場主催ではないイベントだと作家側制作側が譲れない部分などは大切なはずだし大切にするべきで、どこで線を引くかの線引きの問題になると思うんだけど(たとえば、私だったらネット配信はしたくない、とか)、「障害者は割引があるからお得だ」というような単純なことではないんだ!ということはあまり知られていない気がするので、ここで言及しておきます。

というのと、どこで線を引くか?が曖昧だとさ、結局、来て欲しかったはずの相手に問い合わせや援助要求のコストを支払わせることになる、ということは、イベント主催側はみんな意識したほうがいいんじゃないかと思っている。オチはない。

2025年7月18日金曜日

嗚呼、参政党などには投票しないでね

【精神障害者手帳2級を持っている私からあなたにお願いです】

私は障害者手帳を持って生活しています。これは大した効力はなくて(障害年金とは別の制度なので)、公共のバスが半額になったり公営の美術館などに無料で入れたりするくらいしかメリットはありません。子どもを保育園に入れるために仕方なく取った手帳です。

が、私は毎日の精神的身体的状態が不安定な生活を10年以上続けていて、調子が悪いと布団から起き上がれない日もあるため、アルバイトなどの形でのお金をほとんど稼げません。毎日の服薬(4種7錠)と毎月の心療内科への通院にかかる医療費は「自立支援医療制度(精神通院)」という制度に大いに助けられています。

ここで本題です。お願いがあります。参政党(また自民党、維新の会も同様と思いますが)のように、外国人に関するデマ、発達障害は利権というデマなど、社会的弱者の属性を平然と攻撃する国政政党が大きく躍進する、それを支持する人がたくさんいることに非常に不安を覚えます。

いつか「障害者(もしくは高齢者、フリーター、低所得者などなんでも代入可能と思いますが)が税金を浪費している」という大号令のもとに、いまのなんとか小銭をやりくりしている自分の生活が、公に否定され、生活のサイクルも破綻してしまうのではないかと恐れているからです。

なので、まず、あなたが参政党のような政党に投票しないでください。もし期日前で既に参政党やその政党の候補者に投票してしまったなら、「佐々木が死んだら自分の責任である」くらいの責任感と罪悪感を持ってください。

そして、もし周囲に「参政党を応援したい」と思ってる方がいらっしゃったら、「私の知人(もしくは友人)で障害者として生活している人がいて、参政党の発言は怖い、危険だと言っていた」程度の話でもいいとので、どうか精一杯の説得をしてください。

参政党のような、なんちゃってファシズムをノリで応援してしまう人がたくさんいることが、マイノリティとしての属性を背負わざるを得ない人にとってどれだけ恐ろしいことか、どうかご一考を、ひらにお願い致します。


2025.7.18

佐々木すーじん

2025年7月11日金曜日

だらけるとすぐ死にたくなる弱さ

Twitterで排外的カルト政党へのニワカ人気を尻目に見ながら、どうしてもきちんとその政党を正面から批判する気持ちが起こらなくて、もやもやしながら1週間くらい過ごした。政治的なトピックに冷めてしまったのかな...?とか、歳とったってことなの...?とか自分に対する猜疑心多めで煩悶としながら、それらへの批判をSNSに投稿する気が起きなかったのは、SNS運営会社が対立や憎悪を煽って金銭にしている下劣な企業に成り果てて、イーロンマスクやザッカーバーグが儲けるために感情を消費されているように見えてしまっているからで、もちろん、心ある人たちは、最初からそうだったでしょうよと思うのだろうけれど、Twitterを信じていた日もあったのだよ、私は。

SNSいやだなといまは常々思っているのだけど、ごく一部の、心ある人との仮想空間のみでの出会いやリアルに発展するお客さんとの出会いもあるので、自分のような極小規模の自営業者には欠かせないものにもなっていて、本当に心苦しい。TwitterやMeta周りのSNS以外の選択肢を、強く訴えている知人もいたのですが、申し訳ない、人があつまるところで宣伝したい/せざるを得ないんだよね。申し訳ない。

まぁ、でも参政党はダメだよ。とは言っておくよ。支持している人をバカだとは思わないけど、論理で判断しないんだなとは思う。論理で判断しない人は主権者に向いてないな。感情を駆動されて消費されて検閲されて動員されて、自分たちも血を流したと、私たち日本マジョリティ人はまた被害者ぶるのだろうか。

東京の西の郊外に越してきて、もう7年くらい経つのですが、調子が悪い時に限ってSNSを見続けてしまったりして、どんどん昏い気持ちに落ちていくことがあるのですが、知人友人と対面でお茶など交えて話すとなんなく救われることの多さにびっくりする。

対面は大切、と思う。弱い弱い人間である自分にとっては特に。スマホを捨てよ町に出よう。

2025年6月30日月曜日

私がくたばるとき

私自身の創作に関して、昨年くらいから誰にも望まれていないのにシャカリキ頑張っているアホらしさのようなことを感じています。本来は誰にも望まれていないとしても、何かをつくること、それ自体が素晴らしいことだと思うのですが、「コンテンツ創出」として扱われて仕方ないかと割り切った瞬間から何かをつくることの潜在的な素晴らしさは地に堕ちている。

なんでこんなに何かをつくることに理由づけや結果が求められるのか、わからないなと思いながらも私の中にそういった価値判断が入り込んでいるのでしょう、「で?」「だからなに?」と、誰に言われたわけでもない心無い言葉を自分で自分に投げかけてしまう。

30歳になる前に某振付家の名前を冠したダンスカンパニーで「命懸けで舞台に立て」と吹き込まれて、危うく自死しかけた。私が命懸けで立ったところで私自身が評価されるわけでもない構造の中で、その時私が死んでも誰も責任を負わない何も変わらない意味ない死に様、ですよね?としか思えないので、舞台にもアートにも決して命を懸けてはいけない、生きてこの不当な世界と(戦えそうな状態のときのみ)戦うべしという思いは、下の世代に口を酸っぱく酸っぱく言わねばならないと思う。

中学で不登校児になって自分の将来に絶望し深夜ひとり映画のビデオテープを再生することだけが救いだったので、「作品」という単位によって自分の生が肯定される/され得るという可能性=私の生きる可能性だったわけだけど、私に関わる全ての存在が私の創作に影響を及ぼすわけで、せめて私がくたばるときはエンドロールを長めにお願いするよ、観客が席を立っても構わないから。


2025年6月27日金曜日

ゼロイチとベクトルの話

先月のゴールデンウィークに気の置けない友人たちと小ぢんまり飲んでいた時、人として中身があるとかないとか、っていう話になり、まぁシラフで字面を見ると大変傲慢なように思うけど、酔いが大いに回っていたということで、どうかご容赦ください。

で、人として中身があるとかないとかいう話になって、私は滔々と自分の意見を述べたのだが、それはつまり、中身があるとかないとかではなく人間は全てゼロである、そこにはゼロとイチしかなく、人がイチになるということもなくて、そのゼロの自分からイチに向かうベクトルにだけ、その人の存在意義が宿るみたいな私見を述べて、我ながらドン引き、というかそんなに禁欲的な思考をしなくてもいいのにと思う。

自意識肥大、夜郎自大、まぁそんなとこでしょうと思っても、自分の根底に張り着いた価値基準というものからは逃れられないもので、もっと大らかになりたいものだと思いながら、その実そんなことを思っていたんだな、と引きずっていた。

ということで切り離して相対化したいものだよ、と思って叙述するも、手前味噌にもそうだよねぇと共感する始末。というのは悪フザケにしても、あまりに自分の根底にあるものすぎて相対化もできないので、もうちょっとマイルドにならないかなと思う。

その、ゼロイチとベクトルとは、つまり人には個々に宿題や課題があり、それに向かい合い取り組むことでしか幸せになれないというような考えなのですが、あろうことか、私はやはりそこに家族含め他人が介在し得ないものだと思っている。それはあまりに絶望的な気分になるので、あまり深くは追わず、ちょっと焦点をぼかしてですね、あまり大袈裟に考えないようにする。

あまりに焦点がぼやけてもはや自ずと眠くなる昼下がり、私はまどろみに堕ちゆく意識の中で幸せを感じたりしている。

2025年6月24日火曜日

私、呼吸でケージを超えるぜ ー"kq"CD編

その昔、"kq"CDを某古書店さんに営業に行った時、「こんなんただ呼吸している音が入っているだけでしょう(大意)」というようなご意見をいただいて、全くもってその通りですな、と思ってしまってヘラヘラ適当に笑っていたのですが、そんなことはないのです。

"kq"という拙作は、たしかにほぼ呼吸している音だけで構成されてはいるが、CDに入っているスタジオ録音した呼吸音、スローな「非楽音(ノイズ)」を聴いていると、不思議と落ち着くという身体作用が発生する「グルーヴィな(ノイズ)音楽」だと思っている。

さて、表題でっかく出ましたが、やらなければならないと思ってます。ジョン・ケージ(リンク先wiki)超え!

ケージの有名な作品『4分33秒』(1952年)は、「演奏」と(演奏によってしか生起しないとされる)「音楽」への疑義だと思っているのだけど、西欧近代的な美学へのアンチテーゼとして尖鋭化するあまり「フレームがないというフレーム」しかない。いわば、フレームを外した先に広がる荒野に「これが真の自由である」という看板だけが立っていると感じる。

私の立場からすると、「自由」は餅の絵を描いて看板を立てれば成し得るものではなく、身体と知覚へのアプローチを経て個々人のなかに起こり得るのだと考えている。自由は状況や定義ではなく、個々が感じ得る内的感覚の問題だと考えるからだ。

なので、「ほら、自由だ!それやるぞ!」というような自由観・芸術観を更新して、私は地に足をつけたフレームを提案する。フレームとフォーカスの必要性を、(自身と他者の)主観への作用可能性という観点から主張する。フレームとフォーカスを設定する以上、実は「上手い下手」が付随するのだがそれは傍に。

"kq"は、スローな呼吸音で時間を構成することで、演奏者と聴衆の身体の緊張を緩め、またその知覚を柔らかく広げ、内なる自由を味わうことへフォーカスされているのです。達成されるものは20世紀的な「真の自由」とは似て非なる、あなただけの個人的な自由になると思っています。決して「ただ呼吸している音が入っているだけ」ではないのです。

とかとか。"kq"を「上演」することは、また別のものだと思っているのですが。
CD試聴はコチラから。

2025年5月9日金曜日

「ここはどこかの窓のそと2」レビュー

窓の階公演「ここはどこかの窓のそと2」(脚本・演出:久野那美)2025年2月



文・佐々木すーじん(音楽家)



とても美しい演劇作品だと思った。


私は東京に在住しているが、東京公演のテルプシコール(中野)での拝見が叶わなかった。ので、記録映像で観せてもらった。

冒頭、テルプシコールのコンクリートの壁と、ごちゃごちゃした舞台美術の設えと、(たぶん、劇場の外での)電車の音と、秋の昼間を思わせる照明と、俳優の衣装と、それらの均整に惹きつけられた。

なかなか観ない均整だった。(といっても私は年間で演劇作品を10本観てるかどうか、程度の観劇好きなのだが)

ポップでも奇想でも気取ってもいない。抽象化されていないが、舞台上にあたかも現実的な空間を建て込んでいるわけでもない。どこかで見た美術作品や作家の顔を連想しない。劇場の壁や環境音を借景しながら均整のとれた具体的空間が在るのは、むしろ人工と野生みの秩序ある混淆というべきか、手の行き届いた庭園、のような種類の空間だった。


図書館の建物外、でも敷地内というような空間での、司書らしき人(エプロン)と本の返却をしたい人(返却女)が対話してこの演劇の前半は展開し、中盤以降ルポライター?のような人(喋る男)が迷い込んで、話はより複雑になる。


かつて、久野さんのインタビューを読んだときに「私は一人の人間の生きざまを描くことにはあまり興味がなくて、個ではなく関係性を描きたいんです。」*1という言葉の意味があまり理解できなかった。

窓の階「ここはどこかの窓のそと2」を観てからだと、それが把握できた気がする。


タイトルにも使用される「窓」という単語は、「図書館」を擬人化して語られる、異なる時間における「概念の反復と同一性」とでも捉えられそうなメタファーとして作中にも登場する。

以下、久野さんから共有してもらった上演台本から引用する。



**

返却女 ...図書館の話です。同じところにずっとある、たくさんの図書館の話です。

エプロン 図書館の話?ふうん。同じ敷地に図書館がたくさん並んで立ってるんですか?

返却女 いえ、それは同じところとはいいません。並んでいたら同じ場所とは言いません。

エプロン ...

返却女 その図書館たちは。おなじ場所にいるために、おなじ時間にそこにいることをあきらめました。図書館たちはそれぞれ違う時代に存在していて、そこにはそれぞれの本が集められています。それぞれの時代の人がそれぞれの時代の本を読みにやってきます。

エプロン ...

返却女 そして、同じ窓から外を見ている。

エプロン つまり、同じ図書館?(混乱している)

返却女 同じじゃないんです。

エプロン ...。

返却女 同じ窓から別々の風景を見ている、たくさんの図書館の話。

エプロン ... 。

返却女 長い歴史の中で、図書館は次々に入れ替わります。

エプロン 入れかわる... 。

返却女 外から見ていても中にいてもわからないんですけど、実は次々に入れ替わっていく

んです

エプロン ...

返却女 新しい図書館が生まれる瞬間、旧い方の図書館は同時にそこから消えていきます。

エプロン ...

返却女 図書館へ来る人たちは、そこにたくさんの図書館があることを知りません。図書館自身も。過去に自分とは違う図書館がそこにあったことを知りません。これから先、自分とは違う図書館がそこに現れるかもしれないとも思いません。ただ、同じ窓から外を見ている。まったくおなじ場所に建つっていうのはそういうことです。そういう、たくさんの図書館の話です。



**

「図書館」という具体物を指す名詞を擬人化しているので混乱するが、「文化」や「葛藤」などの抽象的な概念を代入すると、浮かび上がるようにイメージがつながらないだろうか。まるで、人類の歴史の積み重ねと繰り返しをはるか遠くから眺めているような、原子核と電子がつくる円環に太陽系を重ねて見てしまうような。


この演劇は虚構と現実(=虚構でないもの)という二項対立を柱にしているように思えるが、実はその二項対立自体が意味をなしていない(なぜなら、絶対に客観的な視点という存在自体が虚構だから)という視座が、第三の登場人物「よく喋る男」の登場以降、何度も暗示されている。

「よく喋る男」の台詞を引用する。



**

エプロン あなたは、本を書く人なんですか?

喋る男 本も、書きます。

返却女 物語を創る人ですか?

喋る男 僕は物語は作りません。事実を言葉にするんです。

返却女 事実を言葉したものは物語じゃないんですか?

喋る男 それは物語じゃないです。事実と言うのは、そこに一つしかないほんとうのことです。物語というのは、予めどこかにある別の枠組みを使って語られたもののことです。僕が書きたいのは、事実そのものです。自分の目で見た事実を、そのまま、嘘のない、そこにしかないものとして書きたいと思ってます。... 言葉で書くのは難しいんですけどね。

返却女 難しいんですか?

喋る男 うーん、人間は、今初めて見たものでも、自分の知識や経験を基にして理解してしまうし、言葉の背景にある文化や価値観を通して目の前のものを見てしまうし、無意識に、何かのパターンに当てはめてしまうし、... 事実をそのまま言葉にしようとしても、どうしてもその事実と関係ない物語が入り込んでしまう。言葉は、そこに在るもの以外のものを書いてしまいそうになる。でも、僕が書きたいことはそういうのじゃないんです。



**

なにかしら真理らしきものを語っている風であるが、学生時代哲学をかじった私は思わず「んなわけあるか!」とツッコミたくなるような絶対的真理が(アプリオリに)存在する、という認識の人物である。

先に引用した返却女が語る図書館の物語が「概念の反復と同一性」の話だとして、同じ本をこの喋る男が読んで要約すると全く別の話が立ち上る。同じ本を読んだはずなのに感想や着目点は全くの不一致という、誰もが体験したことのあるようなエピソードを拡張したような印象である。

喋る男は、以下のように要約する。



**

喋る男 妖怪の遺伝子の話?いや違うか。虚構の物語の... その... あれこれについて?

返却女 ... ん?

喋る男 ひとことで説明するのは難しいんです。

返却女 キョコウ?

喋る男 虚構。ほんとうじゃない架空の出来事。実体のない物。嘘の世界。

返却女 つまり嘘?嘘の話?そして、遺伝子????

喋る男 こんな説があるの知ってますか?「実は、遺伝子の方が本体で、遺伝子が、生き物の身体を乗り物にして、自分たちを増殖させて、自分たちを未来の世界へ運んでいく。」

返却女 ふうん。で?

喋る男 虚構の世界も、それと同じなのかもしれないって話です。

エプロン・返却女... ん?

喋る男 (説明する)虚構というのは事実と違って、個人が創った作り話なわけですから、創ったひとの生まれた時代や文化や価値観や個人の考え方によって違ってるはずです。なのに、地域も文化も民族も言語も違うところに、同じような神話や伝説が昔から在ったりする。現代でも、全然関係ない別々の虚構の物語に共通の気配とかイメージとか構造があったりする。

エプロン ふん、

喋る男 実は「虚構」にはその元になる遺伝子のようなものがあって、人間が生まれるずっと前からあって、それが場所や文化や時代を超えて遠くへ、未来へ、いろんなところに散らばっていった。世界中にある虚構の物語は実はみんな同じ遺伝子で繋がっている... 、っていう話です。

返却女 虚構の遺伝子も生き物が運ぶんですか?

喋る男 虚構の遺伝子は、人間の言葉が運ぶんです。

エプロン 人間の言葉?

喋る男 虚構は現実の世界に「言葉」だけで存在してるんです。たとえば、妖怪みたいな架空の生き物でも。「妖怪」っていう言葉で表せば、実体がなくても虚構のまま現実の世界に存在できる。

エプロン 現実の世界のどこに?

喋る男  どっかに。世界中のあらゆるどっかに。実体がない、つまり誰にも見えないわけですから現実世界では孤独ですけど、でも、時代も場所も超えて、彼らの仲間はあらゆるどっかに必ずいるんです。



**

クロード・レヴィ=ストロース(読んでないけど)のような文化や中心の相対性に関する言説と、リチャード・ドーキンス(読んでないけど)とを経て、「虚構の遺伝子」という概念にまで華麗に跳躍する。

作家のインスピレーションが作品を現前させるのではなく、「虚構の遺伝子」が自らを運ばせるために作家に作品を作らせている、という転倒は、西洋中心的な芸術観から脱却する視座とも捉えうる。が、私も「極東の辺境国」で日々音楽を創るものとして感じるのは「救い」である。


なぜ、生活費を別の仕事や家族から捻出しながらも日々創作の継続に苦しまなければならないか、という作家として背負う「さが」とでもいう問いに「虚構の遺伝子を運ぶため」という回答のように思えたのだった。そしてそれは「神さまが試練を与えたため」という宗教的な救済に類似するような超越的な視点であるように思った。

東京を中心にすれば久野が本拠地とする大阪は辺境だが、欧米を中心に据えれば東京も辺境でしかない、というように中心は相対的で流動的である。にもかかわらず、爆発的な評価を得られない限り、作品創りを生業にはできない。上演芸術なら(流通の難しさから)尚更である。

だからと言って、アーティストが皆んなひとにぎりの「選ばれたるもの」になる為に作品を創り続けているわけではない。ではなぜ?なぜ苦しまなければならないのか?評価という「中心」らしきものの対象から零れ落ち続ける、日々の無数の作品たち。私たち日本拠点のアーティストはそのような煩悶に日々回答を迫られているはずである。


その苦しみへの回答としての「虚構の遺伝子」という久野の概念に乗るなら、遺伝子たちは「ここはどこかの窓のそと2」において自己の存在を明示するだけではなく、その存在意義を何度も主張する。「虚構」は、ひとりの個人の主観にのみ存在している状態では存在も定かにはならないが、集積することで「現実」を形づくると暗示する。いや、むしろ「現実」と呼ばれるものは「虚構」の集積に過ぎないといっているように思える。いわば、「虚構の遺伝子」が現実を相対的・流動的に構成し、(まるで図書館の寓話のように)時代ごとに反復されることで同一性を保ちながら、ながらえていると考えられる。

一見するとニヒリスティックにも思える態度のようだが、そうではない。それは、日々の苦しみへの回答であり、真摯な祈りのように魂の救済を目的としている脱中心的なひとつの宇宙観に思える。なぜなら、作品の登場人物たちの誰をも、おそらく久野は完全に突き放していない、賢しらさも愚かさも不器用さもあきらめも引っくるめて、どこかに「愛」があることが伝わってくるような舞台だったから。


そのように登場人物が織り成す線から浮かび上がるように、幾何学模様/久野自身の「宇宙観」が立ち上るような演劇なのだが、その象徴のように作中では「円と直線の物語」という寓話が挿入される。

以下、引用する。



**

エプロン (唐突に)え、え、円と直線の物語!

返却女 え、え、え?えん?(びっくりする)

エプロン 知ってますか?えっと..

返却女 円と直線?

エプロン 円には円の物語があって、直線には直線の物語があって、どっちの物語にもある点が一点だけあって、でもその物語の世界では点には面積がないから、円と直線はそこで一瞬だけすれ違うんです。一瞬だけ出会って。そして別れていく... 。

返却女 それは悲しい物語ですか?

エプロン かなしい?

返却女 それとも、幸せな物語?

エプロン それは... 円によるし、直線によるんじゃないですかね?

返却女 面積の無い場所でどんな風に出会うんですか?

エプロン ... 円が?

返却女 線と。出会って、それからどうなるんですか?

エプロン 「そのとき円は直線の一部になる。直線は円の一部になる。」

返却女 それで?

エプロン それだけ。そして別れて行く。

返却女 それで?

エプロン おしまい。



**

まるで「ここはどこかの窓のそと2」が持つ物語としての展開を簡略化・抽象化したような「虚構」である。エプロンと返却女と喋る男とが、それぞれが全く別の主観にもとづき世界を認識していることが、一瞬だけ交わって別れゆく。

ここでも「何も(劇的な事件が)起こらない」という点のみに着目しすぎてはいけない。むしろ劇的な事件は起こっていると見るべきである。

なぜなら、登場人物のバラバラな世界観、「虚構」は、一瞬交わって私たち観客に共有可能なかたちでの「現実」を現前させたからだ。


そして、ここまで書いてきて、わかったことが一つある。

強く惹きつけられるこの空間の均整とは、ここでも「虚構と現実」と「抽象と具体」とが、パラレルな線を保ってつくられる緊張にほかならない。久野自身の「すべての現実(具体)は、虚構(抽象)の集積である」という美意識、確信の、徹底によるものだったのだ。





窓の階「ここはどこかの窓のそと2」販売ページ

↓(2025/05/09 00:00 〜 2025/06/30 23:59 初回セール価格で配信)https://xxnokai.stores.jp/items/6819e781e217856eb341cf94



*1

第12回せんがわ劇場演劇コンクール受賞者インタビュー(1) グランプリ 階(缶々の階)~久野那美さん(作・演出)

https://www.chofu-culture-community.org/pages/sengawa-theater-drama-competition-12th-interview01