2022年5月21日土曜日

「表現」の垂直性は感性の鋒に宿る

5月初旬、旧友の原島大輔氏と二人で酒を酌み交わしながら、とりとめもなく雑談していた折に、原島が「垂直性」という語を使い始めていた。

私はそれを絶対的な基準への指向性、ベクトルというような大意で解し、原島と、実世界や芸術における様々な様相を挙げながら、その有無について意見を交わした。

私は芸術には垂直性がない(絶対的な基準は存在しない)と信じてここまでアーティストとしてやってきたが、原島は垂直性の存在を認めない世界に未来はないというようなことを述べていたように思う。

それからずっと「垂直」とは何であるかについて、頭の片隅に引っかかっていたのだが、さっき大崎清夏さんの『東京』という詩を読んでいて、出てきた一文に強く感銘を受けた。

詳述はしないけど、大崎さんの『東京』という詩は、日常の緩い、または冷たい空気感とそれへの距離のある眼差しによって綴られる文の中に、一閃する一文が紛れていて不意に心を打たれるという構造になっていて、世界にまだこんな風に捉えられる瞬間があったかというような鋭い目覚めが私の中に訪れた。

抽象的な表現、音楽やダンス、抽象画、詩には、その世界観が好きかどうか、響くか否かで反応が二分されるという側面は否定できない(物語的・論理的な整合性が必ずしも作品の強度を担保しない)と思うが、鋭い洞察に裏付けられた表現は、飄々とその二分を超越するような「垂直」を含んではいないか。

つまり、その作品や表現における世界観への共感か反感かではなく、ひとつ上のフェイズを貫通してしまうような一瞬が、ありえるのだ。この世界の不可思議さ(あるいは別の語を当てても良いのかもしれないが)が新鮮に蘇るような、一瞬が。

抽象的な表現ほど(評価しやすい、されやすい)技術を磨くことに執心する傾向があるように思うが、垂直性が宿るのは、作家の鋭く研がれた感性の鋒にこそ、と思ったのだ。

2022年5月13日金曜日

呼吸音での即興に、日々取り組む/考える

最近、呼吸音での「即興」というものが俄然面白くなってしまって、それも熱狂や混沌があるような種類のそれではなくて、いかに平穏に呼吸してる音だけで時間を紡いでいけるか、というようなことに日々取り組んでいる。

今日、リハーサルしてて自分が理想としてるような即興に一歩近づけたという手応えがあった。なんの制約も計算もなく、丁寧に時間のベールを重ねていった先に、結果も盛り上がりもない、冒頭を反復するなどの形式もない、取り留めのない38分間の呼吸音の演奏は、なによりまず自分が心地よいものであった。

作曲作品"kq"では、自分の呼吸を絞っていき、自信を追い込むことによってヤマ場を作るという構造に頼っていたので、自分自身が演奏して心地よくなれるというのは、それだけで収穫祭したいくらいだよ。

呼吸と音から連なる思考体系として、形式が決まっているある種の瞑想がある。禅では「数息観」というものがあり、噛み砕けば、呼気に合わせて数を数えていくという瞑想法なのだが、精神医学では脳波の測定などが行われ、副交感神経の活発化などの効果が実証されているらしい。

しかし、私が上演する呼吸音による音楽"kq"は、プレビューの時点では、私自身がまず自分の呼吸を追い込んでいく、絞っていくパフォーマンスであったことも大きく影響して、頂いた感想は「ハードコア」「自分も苦しくなった」「原初的なライブのようだった」というような激しい感想が多く見られた。

そういういきさつもあり、いまは呼吸音しばりで即興をやっている。

どこを目指しているのか、まだ自分でもわからないけれど、平坦な呼吸の持続によってもたらされる静寂、のようなもの、には触れてみたいと思っている。それは"kq"を上演し続けているだけでは至らないだろうという直感のもと、いまは即興をしています。そしてまた"kq"にも戻りたいと思う。

5/14(土)、水道橋Ftarriというユニークなお店でライブをします。20時開演です。

あと、"kq"のCDがBASEで買えます。税込1,000円+送料200円です。
https://scscs.base.shop/

私は、水平方向には小さな革命を繰り返し、垂直方向には鋭利に切り込んでいきたいと思っています。今後ともよろ。

2022年4月3日日曜日

"kq"ステートメント 2022/4/3

多くの人が無意識下で行っている(行える)、呼吸という素材を使って音楽を作れないか(時間を構成できないか)、という素朴な基点から、試行を続けています。


"kq"は作曲作品で上演を前提に作られています。


kq譜面(第21回AAF戯曲賞応募時のもの。随時バージョンアップしたものを上演しますが、骨子は同じです)


作曲作品とは、「この道を必ず通る」という指示に従うことで、一つの世界が立ち上がるように構成されているものだと考えます。


"kq"において、指示とは別にシンプルで抽象的なテキストが各シーンごとに付けられています。それは「内と外」(当然「境界」という概念も暗示される)そして「媒体」が想定されており、呼吸音の構成に補助線として機能し、かつ一つの像を結ぶ物語となるよう考えました。


この曲を成立させる為には自身の呼吸、そして身体と向き合わなければなりません。無意識下で行う呼吸を、意識的にコントロールしようとする過程で、自分であるはずなのに決してコントロールしきれない存在をなぞりつつ、演者は時間と空間を構成していくことになります。


コントロールできない自己と折り合いをつけながら、観客とも折り合いをつけること。それが"kq"のコンセプト、「上演を想定した譜面」の真意であり、いちばんの難問でもあるように今は感じています。


観客に対し、私はいま身体と呼吸に負荷をかけていく方向性でこの譜面を捉えることを提示していますが、譜面自体にはもっと異なる方向性もあり得るのではないかと思っています。


この一つの譜面を介して、多様な人が未知なる自己に向き合う契機になることを夢想しています。

2022年2月21日月曜日

私は私を救いたい、私を救えるのは私だけだから

年始に、ひとりで実家に行った。パートナーと子供は、弘前の義両親の元で年を越していた。自分の家庭を持った今となっては、数少ない両親との時間だった。母親も同じことを思っていたのだろう、父が自室に引き上げると、「あなたに謝り続けていることがある。それについて打ち明けさせてほしい」というようなことを切り出された。私は混乱し、その混乱した感情が剥き出しになり、泣き、乱れ、「それはできない。でもお父さんのこともお母さんのことも愛してる」と言うのが精一杯だった。しばらく尾を引き寝込むほどに私の内面は、掻き乱された。

ヤングケアラーという言葉を、よく耳にするようになった。多分、最初は中村佑子さんが書かれていた何かで拾った言葉だと思う。精神疾患を持っている自分がいま育児中であることから、子供をヤングケアラーにしないようにとアンテナを張り始めたが、いつしか自分の幼少期の母子関係について思い起こされる言葉になっていた。

自分が幼い頃の母のことを思い出そうとすると、記憶はおぼろげだが、いつも彼女は苦しんでいたと思う。ワンオペで姉と私、幼い二人を「みなければならない」ことに常にイライラしていたし、姉が中学受験に「失敗」してからは自責の念から、荒れた姉の八つ当たりに私が抵抗しようとすると、私だけが我慢させられた。

母は毎晩夜遅くまでひとりで起きていては、朝は機嫌悪く、気怠そうに子供たちと夫の朝食を用意していた。昼過ぎに学校から帰るとだいたい母は居間で昼寝をしていた。その姿は私には醜く感じられた。父からの愛情は薄く、共に過ごした時間はほとんどない。私の相手は、母か、母と不仲の祖母か、荒れ狂った姉だった。制限や禁止事項は多く、中学受験に備えて同級生と遊ぶ時間は週1回と決められていた。

そういう外堀があった上で、母は「あなたたち(子供)がいるから離婚できない」と小学校中学年くらいの私(たち?)に告げた。夜、寝室の布団の上で蛍光灯に照らされながら、母は笑顔で誤魔化していたが、私の心にはつらく響いた。鮮明に思い出してしまう。

私はヤングケアラーだったというより、むしろ自分をケアし続けていたように思う。中学入学以降、自室に閉じこもってCDをかけたり、深夜無数の映画をひとりビデオで観たり、そして日中は眠っていた。誰とも顔を合わせたくなかった。学校には行かなかった。生きていたくなかった。大袈裟でなく、母親の期待に応えるだけの将来に、人生に、絶望していたのだ。

ただ自分を守るだけで私の中高時代は終わっていく。その傷の正体について知る術はなかったが、周囲からは「なぜ学校に行かない(来ない)のか」という疑問をぶつけられ続けた。両親は口に出さなくなっても、ずっとその疑問を持ち続けていると察していたので、期待を裏切り続けるのは暗く、苦しかった。

閉塞感と孤独感。今の私にも色褪せずに濃い影を落としている。

私が創作を続ける理由は、恐らくそのような欠乏感だ。いまは自分で選んだ家族がいて、庇護する子供もいて、この生活に幸せを感じている。それでも。私は私を救うことを諦められない。家庭と自己実現は対立する概念ではないと理解しても、尚もがいている。10代の頃の自分に響く何かを創り出す為に。私は私を救わなければならない。私の手で。

2022年1月26日水曜日

生きた言葉を捉えること

自分の音楽観や作品について詳細に説明することを、野暮というか、浅ましいと感じてしまう奥ゆかしい性格なのですが、そろそろ少しづつでも言語化していこうと思い、野口三千三や横山紘一、安藤礼二なんかを濫読し、そこから言葉を拝借しつつ、紡ごうと思うのです。

唯識という言葉があります。私が理解している範囲で簡単に述べると、自分の内面にのみ世界は存在しているという考え方です。つまみ食い的に述べれば、唯識思想では、世界はもちろんのこと、自分の内面も移ろうものだと捉えていて、時間的な視点が内包されているように思います。観察・観測される対象だけでなく、それをする主体も常に変化し、揺れ動いている。

私の音楽観は、音楽というものが客観的・普遍的に世界に存在するのではなく、個々人の内面にのみ立ち現れる(もしくは現れない)ものだと考えているので、唯識という思想は示唆に富んでいる。現象を認識したときに自分の中に広がる細波のようなイメージで音楽を捉えているから、なかなか自分の居場所というものが定まらないのです。自分の不勉強のせいかもしれませんが、文脈から自分自身が抜け落ちてしまっていると思うことがある。

ゆえに、こうやって言葉を尽くす必要を感じるのだが、同時に虚空に石を投げているような虚しさもある。自分の作品を音楽と捉えられようと、パフォーマンスと捉えられようと、演劇と捉えられようと、実は私自身にあまりこだわりはないのだが、「生きた身体」を基点に置いているので、言語化しにくい、されにくいという性質があるように思う。

言葉は何かを固着させようとするから、常に生きた対象を逃してしまうよな、という雑感がある。詩人や小説家のような言葉の専門家は、きっと異なる見解を持っているんだろう。身体や時間、空間におけるボキャブラリーがもっと欲しいし、それに対する共感でも論理でもない回路を発明したいと思うのです。

2021年12月18日土曜日

他への接続、浮かぶ瀬もあれ

サウンドクラウドやバンドキャンプでフォローしてくれるアカウントが大抵欧米系の白人(アイコンで顔がわかる範囲ですが)で、自分の表現が誰に届いているのか、ふと考えて、考えこんでしまう。

もちろん、面識があるわけでなし、あれば友人・知人ですけど、ネットだけのつながりなんて精神的に距離を取って「お客様」として割り切るわけです。何について悩むのかね、というと、自分にとって生活かけてる表現が欧米の「アート」文脈にあることは看過できないよね、少なくとも無自覚ではいられないよね。

自分の思想に影響を与えたものは、野口体操や大学時代に学んだ仏教、武満徹なんかでもあると思うけど、ジョン・ケージがインド音楽や鈴木大拙から影響を受けたように、「現代音楽」は既に非西洋の思想を(時に恣意的に)取り込んでいるわけですね。

「現代音楽」や「サウンド・アート」が悪い物とも思っていないが、それらと距離を取ったつもりで、人前に表現を差し出せば「論外」か「参照項」かを常にジャッジされる感じ、あると思います。東京ローカルなのかね。

他への接続という意味において、批評という言語化も作家自身の言葉も大切だと思う一方で、不均等な世界に加担するだけの接続なら意味ないと思うのですよ、俺は、絶望してる奴の為に音楽やるぞ、わかってんのか。そこはブレんね。

もう忘年会シーズン、今年はあるのでしょうかね。多人数でワイワイやるのは大概苦手ですが、他への接続は日頃からワイワイ、大切だと思います。

2021年11月13日土曜日

ひとくさり、自分を語る浅ましさよ

不公正がまかり通って、まぁ国民としてはSNSで抗議の声をあげるくらいのことしかできません、息苦しい。SNSでもネット上の署名でも、一つの単位に還元される、砂粒のようにしか存在できない。国会前や官邸前のデモは、色んな意見があると思うけど、自分はエネルギーをもらえたし、もらえるので行ってた、スポーツ観戦のナショナリズムにすっぽりとハマる人と同じようなものかな、今後もっと多様な戦い方を自分自身考えていかなければいけないと思うよ。

先日、久方ぶりに連絡した友人に冷や水を浴びせられ、このケースに関しては自分が過去その友人を傷つけたのだと思うのだけど、それでも心は寒々としている、Polyticsを乱雑に扱うことで大事を成し遂げられると勘違いしていたよ、涙。

11/3、山下哲史さんが呼んでくれた野外イベントでヤプーズ「赤い戦車」についてのトークとソロパフォーマンスをするつもりでリハーサルを重ねていたが、現場で全部捨てて、即興、しかも1歳9ヶ月の子供と共にパフォーマンスしたのだけど、それはそれで良かったと思うよ、「赤い戦車」名曲ですよね。いずれどこかで披露できたらと思う。

売る、とか、集客人数とかの、経済効果じゃないところで、動きたいし、そうする必要性も責任もある。その意味で立派な構えをする上演も展示も疑う節。疑うべし。もし自分にそういう仕事や機会が来たら、端金とか名声とかとは別の判断が必要なので少しでも鍛えて備えたい、と思うことであるよ。若いうちは、そんなこともわからなかった。

西洋中心的な視野が反省なく薄らいで、今度は拝金とポピュリズムが蔓延してる。「芸術」から色々剥ぎ取るプロセスはあった方が健全ですね、けど、いまの状況はちょっとしんどい。大局的な視点なんてわからないし、判る必要もないと思う、私は傷とケアということについて今後考えていきたい。

野心は未だ、沸沸と煮える、私は俗物です。ただ支点を換えていく可能性は模索する、それが自分にとって重要だから。便利な手段は取り外した方が良いと思いますよ、そっちの方がより深く考えなくてはいけなくなるから。