2025年3月28日金曜日

勝手に他己紹介(2 今成哲夫

哲夫との付き合いは実は相当ふるい。高校の先輩と後輩であった。けど、ひきこもり最前線だった自分は、はにかみながら会釈してくれた後輩としてのイメージが薄ら残っているだけである。再会は、2007年ごろ、京都大学の吉田寮(哲夫は寮生だったのかな...よく知らない)食堂でのライブイベントに呼ばれて行ったときに挨拶してくれて、お互いなんとなく覚えていた。

だから、「哲夫」と敬称略で呼ぶのは元後輩だからではなくて、吉田寮界隈の習慣であって、哲夫も私のことを「すーじん」と呼ぶし、なんとなく親しいのである。


今成哲夫アーティスト写真↑プロフィール↓

ピアノを弾いて、うたを歌う。

<最近の活動>ソロのアルバム『like a song』を発表。(2022)

画家の阿部海太の詩と絵に曲をつけての演奏(2024.長野 本・中川にて)

R星、suzmenba、岡田了との共作、白目の『pass』発表(2024)。

各地でお披露目ライブ。

2025年から、自宅の庭を作っています。



そんな哲夫のバンド「風の又サニー」と、対バンしたのが小岩BUSH BASHで2017年(のようだ)。出演の経緯は全く記憶にない。けど哲夫が誘ってくれたんだろうね。

哲夫は私の"a440pjt"というインスタレーションを即興で作るパフォーマンスを気に入ってくれて、私の出番終了後「風の又サニーにも出てよ」と誘われ、陽気で愉快なステージの片隅でワクワクしながら三点倒立をした思い出。

うん、よくわからないことだらけだ。でも哲夫の音楽が好きで、風の又サニー1st『manco monaco』、今成哲夫名義での『COINCASE』『LIKE A SONG』、そしてこの間、白目(今成哲夫+R星)『pass』も買ってしまった。どれもとても好きだ。

哲夫に「音源よく聞いてるよ」と言うと、「嬉しいな」とはにかみつつ、「でも俺は自分のことしか考えてないからね。自分を掘り下げたってだけだから」なんて謙遜するのである。そんな哲夫が大好きで、だから今回自分のイベントに出演してくれることになって、大変嬉しいのであった。

生きてますもの、屁も垂れます#2』、情報公開しております。

2025年3月21日金曜日

勝手に他己紹介(1 清水めぐ美さん

生きてますもの、屁も垂れます#2』、情報公開しております。

さて、今回はその参加アーティストの一人清水めぐ美さんをご紹介しようと思います。


清水さんのアーティスト写真↑プロフィール↓

親によると、2歳の頃から山に影響を受けていたらしい。京都日本画でのスケッチの重要性から現場に興味を持つ。宮古島‐中国へ。中国書画と行為芸術に出会い、主に大陸内で制作発表。広東汕頭大学芸術学院などで短期講義。2016年帰国後、山水画や山岳信仰など、中国古典と東アジアの山に関する比較民俗学を通じ、存在についての思考を行っている。


清水さんは、たくみちゃん(「ちゃん」までがアーティスト名)のTOKASでのイベント「-#2」でご一緒したのですが、


その時、清水さんは「翻訳・文芸協力」という肩書きで、ただならぬ雰囲気だけを感じさせつつ明るく朗らかに笑うお姉さん的な立ち位置でした。

しかし、この人タダモノではない!と直感したので、2023年の「生きてますもの〜#1」に参加してもらったのですが、本当にタダモノではなかった!笑

本番の即興パフォーマンスが始まったかな?と思ったら、突然、お客さんに「私が漬けたピクルスなんですよ〜ぜひ食べて頂きたいので取りに来てもらえますか〜?」と、舞台中央で大瓶に入ったピクルスを小皿に小分けにして振る舞い出して、最初は戸惑っていたお客さんも「あ、美味しい!」という小声の口コミが伝播していき、ほぼ全員ピクルスを食べたでしょう。客席がいい感じにほぐれたな、というところで今度は1セットの折り紙を取り出し、「何色が出たら終わるってことにしましょうか?」とにこやかにお客さんに聞きながら、誰かが「水色」と答えると、1枚づつ、別々のお客さんに引かせるではありませんか!

なんという即時性、お客さんと「その時その場かぎり」を共有する、素晴らしい即興パフォーマンスだと思いました!

さてさて、今回は何が飛び出すのか!ワクワク楽しみにしております。

2025年3月13日木曜日

君と踊りあかそう日の出を見るまで

昨今とみにキナ臭いニュースが多い気がして、気が滅入る。春先の気候のせいか人身事故も多い気がする。

2015年、安保法制の反対デモに参加するために国会前にいた。まだハタチくらいの若い男性が、デモ隊に「じゃあ対案出せよ」と罵声を浴びせていた。「Aという法案に反対するなら対案を出すべき」とか「その財源は?」とか「あなたの頭の中はお花畑だよ」とか、どうでもいいことに私たちは賢しらになっている。民主主義とか、民主化とか、(少なくとも日本語文化圏では)もうかつての輝きが失われて久しい。もう安保法制強行採決も、10年前になるのね。

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私たちが私たちという共同体になるために、建設的な方法はコミュニケーションのみだと思うのだけど、「主観と主観の交換」という表現を最近知った。
『ケアする対話 この世界を自由にするポリフォニック・ダイアローグ』という本で知った。

「ケア」という言葉の流行を、少し敬遠していたのだけど、私のような初学者にこの本はなかなか良いようです。
twililight(トワイライライト)という三軒茶屋の本屋さんにふらっと入り、目に止まって買いました。

「主観と主観の交換」の箇所を引用する。オープンダイアローグというケアの技法を7つの原則から説明している、7つ目の箇所。
7つ目の「対話主義」は、対話自体を目的化するーーもっと言えば、対話さえ続いていればなんとかなるという、一種の楽観主義のことです。但し、議論、説得、説明、アドバイスなどは対話ではありません。これらはすべて結論ありきで、それを相手に飲み込んでもらうためにするモノローグです。それから、「正しさ」や「客観的事実」も有害な概念です。何が正しいとか、何が客観的かということを一旦忘れないと対話はできません。対話というのは主観と主観の交換ですから、いかに相手の主観をみんなで共有するかということを考えます。(p41)

自分や、自分たちの子どもや、自分の友人、その子ども、大切な人、親族、皆んな生き延びてほしい。生きられる、生き延びられる知恵のようなものが、小さな本屋さんや小劇場や美術館やアスファルトの道端に転がっている。それは素晴らしいことでしょう。

そういう小さな営みを大切にすること。他者の小さな営みも、自分と同等に尊敬する(個人的に「尊重」という言葉の不明瞭さが苦手なので、「尊敬」にしてます)こと。それは、ひとりひとりを砂つぶに還元しないという意味で、価値相対主義とは異なる、新たな可能性だと思う。私は小さな希望を持っています。

余談ですが、このブログ記事のタイトルはJAGATARA『君と踊りあかそう日の出を見るまで』を借用しました(笑)



2025年3月7日金曜日

見知らぬ他人は見知らぬ他人か

まだ(また)ボンヤリとだが、思うことありまして。先日ライブハウスで観客としてヤイノヤイノ楽しんで居たら、思わぬことで傷ついた話をば。

演者さんは、割と名前を知られてる人だったんだけど、即興?コントを合間合間に挟むタイプの人で、初見だったんですわ。

で、まぁそのコントのトーンにも全体的に私は乗れてなかったから、その上での話なんだが、唐突に「パワハラ演出家」をステレオタイプな感じで茶化しつつ一人芝居してたんだよね。

もはや誰とは言わないけど、私は10年前に振付家のパワハラがヒドいカンパニーに所属していて、3年で失踪と自殺未遂してうつ病で通院することになったんだわ。その通院も服薬も今でも続いてる。

その振付家と、ステレオタイプとして演じられていた「パワハラ演出家」は似て非なるものではあったんだけど、自分がかつて心を傷つけられた時間を再現して誰かがどこかでその場の笑いをとってるかもしれない、ということを連想してしまい、つらくなって友達にも挨拶できずに退散しました。

一応、そのライブハウスも場末感ある老舗、ではなくて、比較的新しい場所で「誰もが集える場所を」みたいなステートメント?まで出していたけど、自分以外のお客さんが皆んな笑ってる状況で、私は二度とその店には集わないし集えないな、と思った。

私は裁判起こしてないし社会的なハラスメント被害認定はないけど、10年前とはいえ傷に塩塗られて良い気持ちはしなかったよ。

何が言いたいかというと、私はその表現者のライブにもう行かないだけでなく、他の対バンに対しても印象悪くなったし、(即興かもしれないとは言え)そういう表現を看過したライブハウスには行きたくない。というか、ライブハウスが自分で宣言してることすら実践できてないという、ダラシない意味での「危険な場所」だと思えてしまう。(そうじゃないライブハウスもあると思ってるけど)

そういう諸々を、傷ついた側が指摘しなきゃいけないのもつらいな、と思いつつ、関係者の名前を出さずに書きました。表現者や表現の場が好きな人ほど、こういった可能性について日々気をつけて欲しいなと思います。

ぴーす。