ウツで精神障害者手帳2級を持っている私としては、布団に寝そべって眠るわけでもなくスマホを見る余力もなく「息しているだけだな」という時間が膨大にある。
からだが重い。気持ちが興らない。何も手につかない。という、不定期に訪れる不調と共に生きるようになって10年以上経つ。よく生きて来られたものだ。
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"kq"の「呼吸音で時間を構成する」という当初のコンセプトも、息しているだけのたくさんの時間、その経験という土壌から萌芽、発案したものである。
息してるだけの時間を、そのまま舞台に上げるという私の頭の片隅にあった夢は実現したとも言えるし、してないとも思う。極度の集中力、緊張感を持って舞台上で観客や環境音と「共存」しようとすることで、結果「舞台でのお約束」的な制約が発生している。
「お約束」を徹底できるほどの技術は残念ながらないのだが、それでもやはり「視線が宙空を漂わないべき」「咳やクシャミなどのアクシデントを避けるべき」「場の責任を引き受けて一挙手一投足自覚的で在るべき」などなど、なぜか無数のお約束を自分に課している。
2017年、ソロ活動をしようと自覚的に発表した"a440pjt"という作品は、インスタレーションを即興的に設営し、最終的に自分もその一部になる瞬間を作る構成だったのだけど、自分を「物化」することでなんとか自身を上演の場に置くことを可能にさせる作品でした。
だから、パフォーマーとしての自我は「ない」ように振る舞えていたし、即興的な要素も強かったのでアクシデントが起こることもままあった。
それが今ではどうですか。「呼吸」を題材にしているはずなのに、息苦しい作品になってはいないか。
昨年、秋の関西ツアーでパコカパ(神戸)というライブ居酒屋に行った時、上演前にパコカパ店主・だるそんが「すーじんさんの上演は、お客さんに静かに聞いてほしいのか、それともお客さんはのびのび聞いていていいのか」という旨の質問をしてくれて、その日から前説で「お客さんもリラックスして聞いてほしい、衣擦れなど多少の音が出ても気にしなくていい」ということを伝えるようになった。
小さくて大きな一歩である。
それにしても自分の舞台に「お約束」が発生してしまっているのは、なんとかならんのか。
「お約束」の正体は美の排他性であるように感じている。