私は今まで自分の「弱さ」、もしくは「特性」に向き合ってなかった。カウンセリングの時間などを介して、自分ごとを大分言語化できるようにはなって来たと思っていたけど、それはまた別の話で、自分自身を引き受けて来なかったと思うのは、以前の職場「カプカプ」の所長に貸された灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』という本がきっかけで、貸された当時は戦後の貧しい挿話など、私が無知だと思われたのだろうか、私は野坂昭如の『火垂るの墓』を通読してますよ、余計なお世話ですよ、程度にしか思えなく、そのような勘違いが今となってはお恥ずかしいが、当時は重くて読み進められなかった。
最果タヒの『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』を読んだあたりで、自分に亀裂が入り、「魔法少女」という「特別」にこだわってしまって、周囲との人間関係を素直に築けなかった主人公の、成長譚、「魔法少女」を、「音楽」「舞台芸術」もしくは「芸術」に置き換えたら、まんま自分の話やんけ。まぁ、最果タヒの主人公はそこで友人を助けたいっていう自分の感情に素直になるっていう成長、というお話なのだけど、それはさておき、自分は自分が「音楽」をやっていることを特別なこととして捉えてはいなかっただろうかと自省したのですよ。「売れない」「マイナーな」「ニッチな」というか、そもそも「音楽」を莫迦にしながら時間を切り売りしている労働者たち、彼らを同じ世界の住人として捉えていたのか、と。彼らのゲームを降りることで自分を許してはいなかったか、と。
それは別に音楽を辞めて自分も通勤ラッシュに揉まれようという話では勿論なくて、ただ最果タヒのポップな文章の後に、灰谷健次郎にシュッと手が伸びて、まだ読んでる途中だけど、灰谷の文章の登場人物たちの貧しさと共にある誠実さと、夜間高校に通っているという「特別」に甘えてしまったという作者自身の自省から、自分が抉られて、炙られて、ぐるぐると掻き混ぜられて、あれまぁ。真摯な自省の言葉は読者にも自省を促す。
音楽をやってる、誰も作れないような音楽が作れる、けど、私の問題は私が負わなくてはならない、というような、当たり前のこと。その意味で、労働者、学生、引きこもり、ニート、障害者、「強者」、弱者、と同じ。その当たり前から目を逸らし続けた私は、障害者施設で働いていたけど、真の意味で彼らのことを同僚として思えていたのか。社会問題、そこから降りる以外の積極的な解決法に取り組んできたか。それらの問題は全て私の芸術に対する盲信からきていたし、その為に盲信していたと自責している。信仰は悪いことではないけど、盲信はダメでしょ。
灰谷の本はまだ途中だけど、答えは自分なりには出ていて、謙虚に周囲から学び続けること、よく観察し感じとること、そして創り続けることだと、思うのです。現在、その地点。
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