訳あって手に入れたメタカンパニー『真説じょんがら節』を聴きながら今ブログを書いていて、私は別に民謡に詳しくはないのですが、昭和初期のSPをCD化した音源たちを聴いていると、いわゆる「津軽三味線」の激しい撥捌きは数曲に過ぎず、多くは門付や遊興の席で歌われたであろう緩く楽しい音が少なくない。
激しい撥捌き、さすが本州最北の〜、荒波の〜、などという言葉はもっと時代が下ってからの後付けだと思わされる訳であるが、それは「洗練」「淘汰」なのか「多様性が失われた」なのか。
アイデンティティというものを獲得する為に、色彩を統一する、それ、その、暴力性について少し考えたいと思ったのだ。
というのも、私はそれの被害者であり加害者であり、Co.山田うんに出演していた頃は、マスゲームのようなユニゾンを強要され、もしくは「できてないから、いらない」と言われ、挙句、お前は使えない、と主宰者山田うんから直々に言われた訳であるが、それも今や時効。
一方、自分が主宰するscscsでは常にメンバーに「お前は何ならできるんだ?」と追い詰め続け、結局メンバーは傷を負って自分から離れていった訳で、被害者ヅラばかりもしていられない訳です。
今は単独行動、ソロ・パフォーマンスばかりですが、「自分はこうありたい」という理想に忠実にはなれる。というか、そんな理想、誰にも侵す権利なんてないとようやく気づけた。勿論、自分も他人の理想を侵す権利はない。
舞台芸術というのは不思議なもので、いとも簡単に集団心理による暴力が横行する。だからそれを自覚してない人は平気で他人を傷つけるし、それが舞台の「常識」のように振る舞う。
これは偏に舞台に立ってる人間と観ている人間の間に圧倒的不均衡の権力勾配があるからである。あなたはこういう「つもり」だった?でもこう見えたよ、と言われたら抗弁できない、という寸法だ。それに、その不均衡に、自覚的な人間は、舞台関係者になんと!あまりに少ない。びっくりだ。
でもサービス提供してる訳じゃない。気付けよ。舞台芸術、特に小劇場やライブハウスは、新しい価値観や表現の創出に生活を賭けてるのであって、ハシタ金の出演料や3,000円程度の木戸銭払ったお客さんを満足させる為にやってる訳じゃないのよ。私を支配しようとするなよ。
※10/10追記:もちろん情によってつながっているお叱りや感想は謙虚に受け止めますし、協働する時は金額の多寡に関わらず真剣に参加します。理解しろとかなんとかを強要してるわけじゃないですよ。そりゃね。
まぁ、そんな私ですが、近々ライブがあります。ソロで、小型アンプをハウらせるだけの、シンプルで愚直な、ノイズ・インプロビゼーションです。
10/26火曜、東高円寺UFOクラブにて、19:20から。立ち会って頂けたら幸いです。
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