2021年7月5日月曜日

自明でない表現の捉え方、長いものに巻かれるな

今朝、子供を保育園に送り出した後、パートナーと「自分にとってダンス(もしくは音楽)は自明か」というようなことについて一回り語り合い、収穫の多い、充実した、瞬間、私にとっては音楽は自明なものとして扱う作業も大好きではあるが、「自分の表現」となった時には自明ではない、これは音楽だろうかと思いながらやることが殆ど、音楽として捉え始められた時は少しもう作品と距離がある感覚になっています。

パートナーは、ダンスは私にとって自明なものではない、非常に主観的、感覚的な、定義できない曖昧なもの、というようなことを言っており、共振してしまった。道のりは遠く険しく、道半ば、しかしそれもまた愉しい、というような心境に久々に還れた。

野田秀樹氏を指して「下の世代への影響という意味ではゼロ」と評した演出家がいたと伝え聞いたことがあったが、そんなことは往往にしてあることは前提として、それは後世に生きる人間にしか判断できないだろうよ、とも思う。

同時代的な共振の中に身を置くこと以外に、コンテンポラリーなアーティストで居続けることなどできないし、それは存命中に名声をどれだけ得たかとは全く関係ないことだと再認識。ちょっと上の世代のコンテンポラリーダンサーとかの話を聞くと、大劇場での上演に執着している方が多いのを残念に思う。大劇場ではイージーな結論しか見せられない、ということも多いのにな。あの人たちはそれを知っていて、現世的な成功に固執しているように見えるな。

解はひとつではない、という立場に立っていますと、本当に空虚な傷つけ合いの多さに目が眩みます。そして大抵の傷つけ合いの中身に目を凝らしますと、時代遅れの臭みが鼻をつくのです。

他人は他人、置いておいて、いいよ、いよいよ、やりますかよ、とは思っているんですよ、重い腰。6/26の配信、もしくは現場でお立ち会いくださった方、どうもありがとうございます。アーカイブまだ観れるみたいですよ。じゃあ、感想お待ちしてますね、それはそれ、では、これから私の、正念場です。配信向けの種と、それとは異なる種を、同時に2つ育てていこうと思う。それにはワクワクとした心の震えが必要でね。

長期スパンで、家事と育児の一部も担いつつ、自分の体調とも折り合いつけつつ、パートナーとも協働しつつ、考え抜こうと思います。上演とは異なる発表形式の、作品たち。って別に小説書くとかではないですよ、それはそれで楽しそうですけど。

私の仕事は、自明でない音楽を自明でない形のまま、聴衆の内側に熾すことです、から。

はは、言い切ったね!長い物には巻かれるな。

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