昨日今日と朝5時から30分、呼吸音の即興しているのだけれど、家族はまだ寝てますし、マイク、ミキサーからヘッドフォンしてる。というのも、6月4日土曜日の19:30から出演します、渋谷のValleyって場所でライブのお誘いを受けたのだが、ヘッドフォンしてサイレント(!)ライブをするらしいのですよ。予約はこちらから。それの予行演習ということもあってヘッドフォンして即興しているのだが、まぁ集中しますわな、ほとんど瞑想。とても気持ち良い、深い状態に行ってしまう。
といって、楽しいばかりでもなくて、反省や気づきについて述べますね。呼吸をコントロールしようとすればするほど、それは身体の基本的な機能でもあるわけで、コントロールできない。というか、コントロールされた音に反映している自意識に耐えられないので、コントロールできるかできないかの辺りを手探りしながら、きりきりと即興。時間を構成するというか、紡ぐ感じ。紡ごうとしても酸素足りなくなって、音の構成とは無関係な呼吸をして途切らせてしまう。
なぜ自分をコントロールしなければいけないのか、逆にわからなくなってくる。
「自分」を表現、Expressionという概念への反発、それは近代的芸術観を超克、つながるだろ、とか考え。ジョン・ケージのチャンス・オペレーション、賽の目振ったり、占いで選ぶ音は、自分には先達ではあるのだが、アンチテーゼ以上のものを見出せなくて、現代音楽史には詳しくないけど、自分は物音、それも音を立てない物質の質感などに音を見出していくライブ・インスタレーションをやっていた。それももちろん、現代音楽史的には既知ですが、ということで、その次は空き缶の上に不安定に立ちながら小物を落とすパフォーマンスしたら、身体に注目されてしまったこともあり、結局行き着いた果てが呼吸音。
呼吸音には「うまへた」が自分の中にあって、「これはうるさい」「これはよき」などの判定している、自意識の問題だと思っているが、「聴こえる音に集中する」または「呼吸に集中する」などはマインドフルネス瞑想、観瞑想、物事をありのままに観察する瞑想法として既にあるらしい。
だから私は、これは上演を前提にしてやっているのですよ、と声高に言うのだが、上演を前提にするとはどういうことか。そして観瞑想が目指す無我とはどう異なるのか。
呼吸音で即興する時、呼吸している物質的な自分と、それの手綱を持っている、ちょっと引いた自分がいる。物質的な自分は楽器で、手綱を持ってる方が演奏している自分、というようなイメージ。楽器としての自分に不安定な音の出し方を強いることで、音に自分を映しこまないようにしている。逆に不安定な音でも自分が映し込まれていると、演奏時は自分が拡張される感覚があって大変気持ちよいのだが、あとから録音を聴くと「うるさいな」と思ってしまう。楽器である自分の快楽に任せずに、演奏している自分が即時的に良し悪しを判断しながら一瞬一瞬を乗り継ぐ感覚、時間を紡いでいく感覚があると、あとから録音聴いた時に「悪くないね」となる。
演奏している自分がいるということは、やはり無我とは程遠いのですね、というのは簡単ですが、演奏している自分が目指しているところというのが、物質的な快楽とは異なる場所を目指しているので、またややこしい。今日はここまでにします。