2020年4月23日木曜日

"alive"と"survive"の間で

作品は見てないけど気になっているアーティストの一人、百瀬文さんのインタビューを読んだ。あと、哲学者ティモシー・モートンを紹介する記事を読んだ。

この投稿のタイトルはティモシー・モートンの記事から引用している。「活発に生きる」と「生き延びる」ことのジレンマということが記事の中では取り上げられていた。今、金武良仁の沖縄民謡を流しながらブログを書いている。

パラダイム・シフトが必要だとして、それに乗り切れない人や活動を淘汰していくような社会システムを僕は望まない。もちろん、自分は今までチケットを買ってもらって人を集め作品を発表するという作品発表の形式を取ってきたから、淘汰される側の当事者でもある。

「どうやったらコロナ以降の世界で生き延びられるか」ということは、多分、そんなに難しいことではない。僕なんかがここで特筆しなくても、億単位のリソースがそこに割かれるだろうし、あくまでまだ「答え」らしきものが留保されているにすぎないと思うのだ。

それより「どうやったらコロナ以降の世界で"他者"を生かせるか」を考えていくほうが、難しい。あまりにも難しくて、どこから手をつけたらいいかわからない。

でも、僕が信奉している「アート」は、「答え」を見つける為ではなく、「過程と実践」についての営為だと思っている。これは、アーティストとは共有できても、なかなかその外部の人とは接続しにくい考え方だと思う。

それは一つには、どれだけ売れたか×いくらで売れたか=アーティストの価値というようなアーティスト観が、この社会には満ちているからだと思う。それは近代資本主義発達以降の(今M・ウェーバー読んでいます)データを「客観的事実」とみなし評価するような人間観とイコールなので、"他者"に対し「成果」を要求するようになってしまっているのだろう。

往往にして自分自身にも、その要求の刃を向けてしまうはずで、だから、生きづらくなるからそんな考え方とは距離を取りましょうよ、というところにコロナ以前の自分はいた。

しかし、今はもうちょっと焦点が明瞭になってきたというか。もう生活の中で何を感じたかを、日々積み重ねるだけで、いいことにしませんか?と思う。

そして、その前提は少しでも発信して行きたい。自分にとって生きやすくなる社会は"他者"にとっても開かれている、と信じている。

2020年4月10日金曜日

私には一生を懸けてわかりたいことがある

2017年から障害福祉の仕事をしているが、今はカプカプという施設で働いている。非常に骨の太い活動をしている施設なので、興味のある方は一度訪問してみることをオススメします。私はそこでまだ2年の新米ではあるが、コミュニティの在り方や人間関係の多くを学ばせてもらってきた。

その詳細はここでは述べないが、この状況下でもひかりが丘の本店は開店している。とにかくそういう場所なのだ。もちろん、感染については細心の注意を払いながら。

しかし、2週間くらい前から私は通勤できずにいる。この状況下で発熱したことや病院で軽いコロナの可能性があると言われたことも多分に影響しているが、うまくは説明できない。もちろん、単純にコロナに感染して死にそうで働きたくないという気持ちがあるのは事実だが。

この2週間家に篭りおる。何をしているかと言えば、ずっと棚と白熊のバンドアレンジを録音したり編集したりしていた。朝も昼も夜も、動ける時間ずっとだ。パートナーと赤ちゃんは青森に疎開していったので、ちょうど自分だけの時間が久々に生まれたタイミングとなったこともある。が、なぜここまで盲信的なまでに自分が創作に集中しているのか、自分でもよくわからなかった。

今朝ようやく、WEB上に「積ん読」になっていた文章が読めるようになって、その一つが心に響いて何かは氷解した。その文章はこちら。
夜の果てへの旅だ。準備はいいか? 斎藤潤一郎『死都調布南米紀行』を読む

斎藤潤一郎さんという作家の新作を紹介する体のブログのようなのだが、おそらく書き手も射程距離をそこに絞っていないので、簡潔化させてもらうと、「芸術家は非常時に何も創れないかもしれないけど、それでもいい。オールOK。でも、創れたら、それは社会インフラの一部だから誰にとっても必要なものだよ」という、ロシアの大飢饉を目の当たりにして何も書かなかったチェーホフを引用しながら、芸術家に寄り添う視点で書かれたプロットであったと思う。

自分の、このバイトに行けなさみたいな感覚を肯定されたように思った。「つまり自分は本業であるところの創作にのみ全エネルギーを放出したいのだ」と今は解釈している。アウトプットの良し悪し、もしくは有無ではないのだ。ただエネルギーを放出したいと全身が願っている。現在、堰を切ったようにWEB上で友人たちが各々の活動を紹介し出していることへの違和感も、まるで「芸術は役に立ちます(だから私を救ってください)」と声高に述べているように感じてしまっているからだと思う。

ただ創れよ、というのが過言なら、ただ創ろうぜと思う。それは観客がいなくても創作は成立するという意味ではなく、私たち作家は「役に立つか/立たないか」なんぞ関係なく没頭してきたのではなかったか?と自分は信じているからだ。(だから一律にWEB上での発信を否定したいということでもない)

私はただ創りたいのだ。どこまでも深みに嵌りたい。そうやって理解できたことを少しだけ身体に蓄積していきたい。それはとても愚かしいことかもしれないが、私は受け入れてきた。これからもそうするだろう。バイトには行ける気持ちになれますように。

最後に宣伝ですが、友人でアメリカ文学研究・翻訳をされている坪野圭介さんが"Sound Sample Market vol.2"のレビューを書いてくださいました。
こちらも創造する行為そのものを肯定してくれるような温かみのある文章です。
よかったら、ぜひ。
期待と不安のあいだにあるリズム——“Sound Sample Market vol. 2”について