2017年度は"A=440"というプロジェクトをやっている。
ライブハウスにて、対バンたちは素敵なロックミュージックを奏でている中『試供品』で得たアイディアを発展・展開させて、20分ほどのパフォーマンスを上演している。
このタイトルは、『試供品』のコンセプト「無意味を肯定する」を下敷きに「調律とは何か?(それは可能か、必要か、いま有用か、誤読できるか、...)」といった興味を出発点にしていることからつけた。
当初は440Hzのチューニング用音波や音叉も用いていたのだが、先日8/9、東高円寺U.F.O.CLUBにて三回目の上演を迎え、もはや原型は跡形も無くなっている。
さて、ステートメントを公表したいとはずっと考えてはいるのだが、どうもまとまらないので、現時点で考えていることを羅列しておこうと思う。
ただし、私の考えていることが、この作品が持つ性格ではなく、作品はもう自律しているし、その程度には育った。なので、答え合わせの為に言葉を援用しているのではないことには留意して欲しい。私はあくまで直感的な戦い方を挑んでいるのである。
まず、「無意味を肯定する」から発展して、「何かある(かも)」という瞬間を積み重ねていけば、時間を実直に構成出来るのではないか、ということを試みている。
美しくなくても、何も言ってなくても、笑かせなくても、感情的でなくても、オチがなくても、立ち会った人間を納得させるだけの時間と空間の構成は可能なはずだ、と、いまさら考えているのである。
いわば「過程」の復権を目論んでいる。「で?」と片付けられる「結果」ではなくて、ただの「生」の時間の積み重ねを志向している。
そのとき、実直さを私は必要としている。
素朴であり、生々しい瞬間であり、内的慟哭である。
それはセックス・ピストルズや初期レッドホットチリペッパーズに人生をひらかれ、甲本ヒロトやベンジーに救われた私の個人史に由来している。
私に通底するのはパンク精神であり、自由を希求する魂の燃焼は、なんらかの形を経て他人まで伝播するという信念がある。
技術や安定性は副次的な物で、他人の心を動かすのに必要なものは、上記のようなエネルギーの噴火だと考える。
これら、一見矛盾するように思われる2つの志向性を統合するのは、「脱色された瞑想」という新たな概念だ。
それは瞑想、もしくは疑似瞑想のように用意された器に身を浸すのではなく、コンビニやカラオケのようにドライで即物的な時間の中に見いだす鎮静状態である。「ケ」に「ハレ」が必要なように、現代都市生活者たる私たちの欲望を制御するには瞑想が必要不可欠であると考えるが、それが前近代的な手法に寄ってしまう限り、私たちは真に瞑想には至れないだろう。そう考え私は、特定の信仰を持たない現代都市生活者(私)にフィットする「脱色された瞑想」を発明したい。
それに当たって、「チューニング」という概念を敷衍しようとしている。
つまり、小さく(しかし強く)振動する或る周波数に、自分自身がまずシンクロしていくこと、さらには立ち会っている人の内的な状態をその周波数に近づけていく時間を、まとめて「チューニング」と呼んでいる。
ここへ来て、"A=440"というタイトルが、もう一つ意味を広げたようだ。
しかし、ここまでしか未だ考えられてなく、とりあえず、ここまでで筆を置きます。
"A=440"、年末頃に一本予定がありますが、次回は未定です。
是非、お立ち会いくださいませ。
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