2025年12月7日日曜日

7度『東京ノート』レビュー



文・佐々木すーじん



イベントや公演をやる人間として身近な話からはじめます。恐縮です。


自分のイベントの時に上演中に空調の音がするのがイヤで、開演前にスイッチを切る。するとその「場」から空調の作動音が消え、自然にお客さんも黙ってしまい、まるでもう開演するかのようにシンと静まりかえってしまうことが、よくある。

7度の『東京ノート』はこの空調を切ったタイミングで山口真由さんが話しはじめた。油断ならない声のトーンだった。


そこからしばらく、平田オリザ作『東京ノート』がどのような戯曲か?という粗筋や、青年団『東京ノート』初演時が1994年で、91年に湾岸戦争、92年にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争があってPKO法の成立、それが何の略語か、当時子どもながらにどんな思いがあったか、などの「予備知識の補足」をアナウンスする。山田裕子さんも山口さんの横に着いて合いの手を差し挟むのだが、まるで仲の悪い漫才師のように不穏な空気が続いていた。


不穏さの原因は山口の語り口のようだった。その硬質な声のトーンは、不器用な人が親しげにしようと努めてるのかと最初は勘違いした。しかし、ぎこちなさはなくむしろ流暢なのだが、全く親密さを感じさせない語りかけが続いた。まるで観客を牽制するようだった。


そのトーンはシームレスに始まった上演中の台詞の発語も同質であった。ただ、上演中の台詞は全て、『東京ノート』からの引用だったようだ。(原作を購入する気はないので確かめない)


山口と山田、俳優2人で『東京ノート』を再構成するのだと私は勘違いしていたが、『東京ノート』に出てくる他愛もない親族たちの会話や、架空の戦争へのリアリティのある台詞たちのほとんどを山口が発語した。それも、イタコのように様々な登場人物を己に宿して発話する、というのではない。しかし、無機質に機械的に読み上げるわけでもない。登場人物とその台詞のトーン、抑揚、テンションやニュアンスの温度感を細かく使い分けている。これだけでも超人的な技巧であり気の遠のくような稽古量を想像させる。


亡霊が語っているような質感は、堀企画『トウキョウノート』を思い出さずにはいられなかった。だが、「上演前のアナウンス」の時間に「物理現象としての声は、どんなに時間が経ってもごく微量の波が残っていて、それを捉え拡張することで100年前の声でも再生できる」という唐突に挟まれたエピソードを思い起こす。それは「設定」ではなくある種「信仰のようなもの」に基づくのだと気づく。



開場中写真撮影可でした



ここからちょっと迂回していくつかの要素を確認しつつ、その直感を説明したい。


原田裕規氏の、とりとめもない家族写真をとりとめなく手にとっては眺める様子を長回しで撮影した映像《One Milliom Seeing》がプロジェクションされているなかで、山口が発語する『東京ノート』をコラージュした台詞たちは、誰のものかわからない、他愛ない「平和な日常風景」と、かけがえのなさ、とりかえしのつかなさとをつなげていく。上演中に何度も山口は古い(とアナウンスされた)デジタルカメラでシャッターを切り、その度に会場BUoYのコンクリート剥き出しの壁が、フラッシュで切り取られ照らされる。原田の映像作品とのつながり以上に、一瞬しか切り取らない即時性、しかしその一瞬にそれまでの被写体の関係性・連続性が残る写真というメディアの特徴が、7度『東京ノート』という演劇作品との相似形を連想させる。そして戯曲『東京ノート』にあらかじめ埋め込まれた「戦争」というトピックに対し、それまで佇まいや緩慢な歩みで存在を示していた山田(衣装も黒子のようだった)が発語する「戦争反対」(青年団の上演ではやや空疎に発話されていたと記憶する印象的な台詞である)の切迫感のあるリフレインによって、現在の我々が「互いに」、また「戦争」と、90年代とは異なる距離感にいることが暗示される。


では、なぜ山口(山田とは対照的に衣装はFunnyで不思議な質感のものを着ている)は、ノスタルジーに絡め取られるでもなく観客を牽制までしながら90年代に書かれた台詞たちを静かな強度で語り続けるのか。その衣装から「トリックスター」という概念が頭をよぎる。しかし安易にそれらと結びつけるには違和感が残る。それらの特徴が「社会秩序や既成概念を超越する(もしくは、してしまう)」強靭さや軽薄さであるとするなら、禁欲的で台詞とも観客とも一体化することを拒絶する山口の振る舞いは、何か大切なものに近づこうとする意志とその行為への贖罪を感じさせた。その真摯さ、誠実さが捧げられている対象は、しかし、西欧的な神のような絶対者ではない。ただの人の、匿名の、とりとめもない生活、会話、関係、それらをまた「ただの人」であるアーティストが肯定的に「かたる」ことへの、不均衡、傲慢さを、その時の自身の立ち位置の曖昧さを、直視し受け止めようとしていたのではないか。


1994年に書かれた戯曲を2025年に再構成して80分ほどの「一瞬」を切り取る、7度『東京ノート』は、写真とは異なり誰かが書き残した言葉でしか残らないが、その強度は私の心の中に像を結んでいる。




7度『東京ノート』2025/11/27- 30 会場・北千住BUoY

原作・平田オリザ 構成台本・7度 演出 伊藤全記(7度)出演 山口真由(7度)・山田裕子


2025年8月29日金曜日

アクセシビリティや障害者割引について思うことなどを

先日、今年の自主企画公演、仮定の微熱"kq Duo"の情報を公開しました。
昨年に引き続き、アクセシビリティ情報も公開しています。(リンクうまく貼れない...もうだめだ)

去年の仮定の微熱"kq"東京公演のアクセシビリティを大きく更新できていないのですが、去年のこれは友人であり尊敬するアーティストである武本拓也くんの京都芸術センターでの公演『庭の話』から一部を無断で借用、アレンジして、事後的に「これ作る労力大変だったよな...」と反省して武本くんやクリエーションメンバー・出演者である中谷優希さん(アクセシビリティの勉強会などやられていたので)に、無断で借用したことを伝え謝罪の連絡をして、全く問題ないですよ、とご快諾を得たものです。

イベント主催側はアクセシビリティをどんどん公開した方がいいよね、と思っているけど、つまり私も他イベントの文言を借用していたり、ツアー先などに関しては自分が現地に行ってないからノータッチだったりと、なにも威張れないのです。

ただ可能な限り公開したいと思っている。せめて「鑑賞に際して必要なサポートがあれば、お気軽にお申し付けください」の一文だけでも。(自分が悩んでる立場だったら「相談できそうかどうか」だけで、すでに大きなハードルだから)

というか、日本だったら文化庁?総務省?どっかガイドライン出してるのかな?と思って検索。ウェブにおけるアクセシビリティに関するページが大量に出てきて既になかなか難しい。ガイドブックがあった。2020年、5年前のか。

アクセシビリティに関する、基本的な態度として「完璧なものは存在しない(ので、相談やサポートする姿勢を明確に伝えるのが大切ですよね)」というのは、私もようやくわかってきたところです。だから、上記のガイドブックのように、それぞれの特性やどういう傾向があるか知ることは大切だが、それによって全てカバーできるわけではない。

たとえば、私は鬱病で2級の精神障害者手帳を持っているけど、それはつまり当日になって体調が悪くて出発できないリスクを常に抱えている状態で、チケットは売り切れるかもしれないので予約はしたい、だけど当日精算にしたい、というニーズがあるわけです。

それは会場や運営スタッフによる物理的・精神的障害というより、企画制作側に理解してほしいニーズ(近年はクレジットカードなどでの事前決済のみの舞台公演もあるので)なのですが、上記のガイドブックにはそういうことは書いてない。

アクセシビリティを公表することで排除を明文化してしまうのではないか?というような葛藤もあったが、ただの非障害者マジョリティ側の幻想でしかなかった(なぜなら明文化するしないに関わらず、さまざまな理由から対象外になってしまう人たちをゼロにはできないので)な、むしろ明文化しないことで問い合わせるコストを相手に支払わせているな、と今では思う。

あと、アクセシビリティや障害に関連して、おそらく多くの非障害者が知らないことをひとつ。「障害者雇用」とかあるから最低賃金くらいの収入はあるんでしょ?と誤解しがちなんですけど、一般企業の障害者雇用の多くは求人の時点で「これは身体障害しか想定してないね...」みたいな求人がほとんどで、精神障害者が「毎日出勤することは難しい」と思っていても、少なくとも私はそれに応えてくれる求人を見つけられなかった。

でも、私はバイトするなら障害者であることを隠せるし、多くの職場でそうしてきたけど、もちろん欠勤が続いて気まずくなると辞めるしかなくなるわけで。そうやって、障害当事者みんなが最低賃金が保証される仕事に就けるわけではないのです。

また、特性や程度によってはガイドヘルパー(外出時の付き添い介助者)なしに外出でいない人もいる。その場合、ガイドヘルパーの交通費や入場料は、もちろん障害当事者が支払う、ということは意外と知られていない。

もちろん、どこまで公に、オープンにしていきたいかという問題は、公共劇場主催ではないイベントだと作家側制作側が譲れない部分などは大切なはずだし大切にするべきで、どこで線を引くかの線引きの問題になると思うんだけど(たとえば、私だったらネット配信はしたくない、とか)、「障害者は割引があるからお得だ」というような単純なことではないんだ!ということはあまり知られていない気がするので、ここで言及しておきます。

というのと、どこで線を引くか?が曖昧だとさ、結局、来て欲しかったはずの相手に問い合わせや援助要求のコストを支払わせることになる、ということは、イベント主催側はみんな意識したほうがいいんじゃないかと思っている。オチはない。

2025年7月18日金曜日

嗚呼、参政党などには投票しないでね

【精神障害者手帳2級を持っている私からあなたにお願いです】

私は障害者手帳を持って生活しています。これは大した効力はなくて(障害年金とは別の制度なので)、公共のバスが半額になったり公営の美術館などに無料で入れたりするくらいしかメリットはありません。子どもを保育園に入れるために仕方なく取った手帳です。

が、私は毎日の精神的身体的状態が不安定な生活を10年以上続けていて、調子が悪いと布団から起き上がれない日もあるため、アルバイトなどの形でのお金をほとんど稼げません。毎日の服薬(4種7錠)と毎月の心療内科への通院にかかる医療費は「自立支援医療制度(精神通院)」という制度に大いに助けられています。

ここで本題です。お願いがあります。参政党(また自民党、維新の会も同様と思いますが)のように、外国人に関するデマ、発達障害は利権というデマなど、社会的弱者の属性を平然と攻撃する国政政党が大きく躍進する、それを支持する人がたくさんいることに非常に不安を覚えます。

いつか「障害者(もしくは高齢者、フリーター、低所得者などなんでも代入可能と思いますが)が税金を浪費している」という大号令のもとに、いまのなんとか小銭をやりくりしている自分の生活が、公に否定され、生活のサイクルも破綻してしまうのではないかと恐れているからです。

なので、まず、あなたが参政党のような政党に投票しないでください。もし期日前で既に参政党やその政党の候補者に投票してしまったなら、「佐々木が死んだら自分の責任である」くらいの責任感と罪悪感を持ってください。

そして、もし周囲に「参政党を応援したい」と思ってる方がいらっしゃったら、「私の知人(もしくは友人)で障害者として生活している人がいて、参政党の発言は怖い、危険だと言っていた」程度の話でもいいとので、どうか精一杯の説得をしてください。

参政党のような、なんちゃってファシズムをノリで応援してしまう人がたくさんいることが、マイノリティとしての属性を背負わざるを得ない人にとってどれだけ恐ろしいことか、どうかご一考を、ひらにお願い致します。


2025.7.18

佐々木すーじん

2025年7月11日金曜日

だらけるとすぐ死にたくなる弱さ

Twitterで排外的カルト政党へのニワカ人気を尻目に見ながら、どうしてもきちんとその政党を正面から批判する気持ちが起こらなくて、もやもやしながら1週間くらい過ごした。政治的なトピックに冷めてしまったのかな...?とか、歳とったってことなの...?とか自分に対する猜疑心多めで煩悶としながら、それらへの批判をSNSに投稿する気が起きなかったのは、SNS運営会社が対立や憎悪を煽って金銭にしている下劣な企業に成り果てて、イーロンマスクやザッカーバーグが儲けるために感情を消費されているように見えてしまっているからで、もちろん、心ある人たちは、最初からそうだったでしょうよと思うのだろうけれど、Twitterを信じていた日もあったのだよ、私は。

SNSいやだなといまは常々思っているのだけど、ごく一部の、心ある人との仮想空間のみでの出会いやリアルに発展するお客さんとの出会いもあるので、自分のような極小規模の自営業者には欠かせないものにもなっていて、本当に心苦しい。TwitterやMeta周りのSNS以外の選択肢を、強く訴えている知人もいたのですが、申し訳ない、人があつまるところで宣伝したい/せざるを得ないんだよね。申し訳ない。

まぁ、でも参政党はダメだよ。とは言っておくよ。支持している人をバカだとは思わないけど、論理で判断しないんだなとは思う。論理で判断しない人は主権者に向いてないな。感情を駆動されて消費されて検閲されて動員されて、自分たちも血を流したと、私たち日本マジョリティ人はまた被害者ぶるのだろうか。

東京の西の郊外に越してきて、もう7年くらい経つのですが、調子が悪い時に限ってSNSを見続けてしまったりして、どんどん昏い気持ちに落ちていくことがあるのですが、知人友人と対面でお茶など交えて話すとなんなく救われることの多さにびっくりする。

対面は大切、と思う。弱い弱い人間である自分にとっては特に。スマホを捨てよ町に出よう。

2025年6月30日月曜日

私がくたばるとき

私自身の創作に関して、昨年くらいから誰にも望まれていないのにシャカリキ頑張っているアホらしさのようなことを感じています。本来は誰にも望まれていないとしても、何かをつくること、それ自体が素晴らしいことだと思うのですが、「コンテンツ創出」として扱われて仕方ないかと割り切った瞬間から何かをつくることの潜在的な素晴らしさは地に堕ちている。

なんでこんなに何かをつくることに理由づけや結果が求められるのか、わからないなと思いながらも私の中にそういった価値判断が入り込んでいるのでしょう、「で?」「だからなに?」と、誰に言われたわけでもない心無い言葉を自分で自分に投げかけてしまう。

30歳になる前に某振付家の名前を冠したダンスカンパニーで「命懸けで舞台に立て」と吹き込まれて、危うく自死しかけた。私が命懸けで立ったところで私自身が評価されるわけでもない構造の中で、その時私が死んでも誰も責任を負わない何も変わらない意味ない死に様、ですよね?としか思えないので、舞台にもアートにも決して命を懸けてはいけない、生きてこの不当な世界と(戦えそうな状態のときのみ)戦うべしという思いは、下の世代に口を酸っぱく酸っぱく言わねばならないと思う。

中学で不登校児になって自分の将来に絶望し深夜ひとり映画のビデオテープを再生することだけが救いだったので、「作品」という単位によって自分の生が肯定される/され得るという可能性=私の生きる可能性だったわけだけど、私に関わる全ての存在が私の創作に影響を及ぼすわけで、せめて私がくたばるときはエンドロールを長めにお願いするよ、観客が席を立っても構わないから。


2025年6月27日金曜日

ゼロイチとベクトルの話

先月のゴールデンウィークに気の置けない友人たちと小ぢんまり飲んでいた時、人として中身があるとかないとか、っていう話になり、まぁシラフで字面を見ると大変傲慢なように思うけど、酔いが大いに回っていたということで、どうかご容赦ください。

で、人として中身があるとかないとかいう話になって、私は滔々と自分の意見を述べたのだが、それはつまり、中身があるとかないとかではなく人間は全てゼロである、そこにはゼロとイチしかなく、人がイチになるということもなくて、そのゼロの自分からイチに向かうベクトルにだけ、その人の存在意義が宿るみたいな私見を述べて、我ながらドン引き、というかそんなに禁欲的な思考をしなくてもいいのにと思う。

自意識肥大、夜郎自大、まぁそんなとこでしょうと思っても、自分の根底に張り着いた価値基準というものからは逃れられないもので、もっと大らかになりたいものだと思いながら、その実そんなことを思っていたんだな、と引きずっていた。

ということで切り離して相対化したいものだよ、と思って叙述するも、手前味噌にもそうだよねぇと共感する始末。というのは悪フザケにしても、あまりに自分の根底にあるものすぎて相対化もできないので、もうちょっとマイルドにならないかなと思う。

その、ゼロイチとベクトルとは、つまり人には個々に宿題や課題があり、それに向かい合い取り組むことでしか幸せになれないというような考えなのですが、あろうことか、私はやはりそこに家族含め他人が介在し得ないものだと思っている。それはあまりに絶望的な気分になるので、あまり深くは追わず、ちょっと焦点をぼかしてですね、あまり大袈裟に考えないようにする。

あまりに焦点がぼやけてもはや自ずと眠くなる昼下がり、私はまどろみに堕ちゆく意識の中で幸せを感じたりしている。

2025年6月24日火曜日

私、呼吸でケージを超えるぜ ー"kq"CD編

その昔、"kq"CDを某古書店さんに営業に行った時、「こんなんただ呼吸している音が入っているだけでしょう(大意)」というようなご意見をいただいて、全くもってその通りですな、と思ってしまってヘラヘラ適当に笑っていたのですが、そんなことはないのです。

"kq"という拙作は、たしかにほぼ呼吸している音だけで構成されてはいるが、CDに入っているスタジオ録音した呼吸音、スローな「非楽音(ノイズ)」を聴いていると、不思議と落ち着くという身体作用が発生する「グルーヴィな(ノイズ)音楽」だと思っている。

さて、表題でっかく出ましたが、やらなければならないと思ってます。ジョン・ケージ(リンク先wiki)超え!

ケージの有名な作品『4分33秒』(1952年)は、「演奏」と(演奏によってしか生起しないとされる)「音楽」への疑義だと思っているのだけど、西欧近代的な美学へのアンチテーゼとして尖鋭化するあまり「フレームがないというフレーム」しかない。いわば、フレームを外した先に広がる荒野に「これが真の自由である」という看板だけが立っていると感じる。

私の立場からすると、「自由」は餅の絵を描いて看板を立てれば成し得るものではなく、身体と知覚へのアプローチを経て個々人のなかに起こり得るのだと考えている。自由は状況や定義ではなく、個々が感じ得る内的感覚の問題だと考えるからだ。

なので、「ほら、自由だ!それやるぞ!」というような自由観・芸術観を更新して、私は地に足をつけたフレームを提案する。フレームとフォーカスの必要性を、(自身と他者の)主観への作用可能性という観点から主張する。フレームとフォーカスを設定する以上、実は「上手い下手」が付随するのだがそれは傍に。

"kq"は、スローな呼吸音で時間を構成することで、演奏者と聴衆の身体の緊張を緩め、またその知覚を柔らかく広げ、内なる自由を味わうことへフォーカスされているのです。達成されるものは20世紀的な「真の自由」とは似て非なる、あなただけの個人的な自由になると思っています。決して「ただ呼吸している音が入っているだけ」ではないのです。

とかとか。"kq"を「上演」することは、また別のものだと思っているのですが。
CD試聴はコチラから。