2025年8月29日金曜日

アクセシビリティや障害者割引について思うことなどを

先日、今年の自主企画公演、仮定の微熱"kq Duo"の情報を公開しました。
昨年に引き続き、アクセシビリティ情報も公開しています。(リンクうまく貼れない...もうだめだ)

去年の仮定の微熱"kq"東京公演のアクセシビリティを大きく更新できていないのですが、去年のこれは友人であり尊敬するアーティストである武本拓也くんの京都芸術センターでの公演『庭の話』から一部を無断で借用、アレンジして、事後的に「これ作る労力大変だったよな...」と反省して武本くんやクリエーションメンバー・出演者である中谷優希さん(アクセシビリティの勉強会などやられていたので)に、無断で借用したことを伝え謝罪の連絡をして、全く問題ないですよ、とご快諾を得たものです。

イベント主催側はアクセシビリティをどんどん公開した方がいいよね、と思っているけど、つまり私も他イベントの文言を借用していたり、ツアー先などに関しては自分が現地に行ってないからノータッチだったりと、なにも威張れないのです。

ただ可能な限り公開したいと思っている。せめて「鑑賞に際して必要なサポートがあれば、お気軽にお申し付けください」の一文だけでも。(自分が悩んでる立場だったら「相談できそうかどうか」だけで、すでに大きなハードルだから)

というか、日本だったら文化庁?総務省?どっかガイドライン出してるのかな?と思って検索。ウェブにおけるアクセシビリティに関するページが大量に出てきて既になかなか難しい。ガイドブックがあった。2020年、5年前のか。

アクセシビリティに関する、基本的な態度として「完璧なものは存在しない(ので、相談やサポートする姿勢を明確に伝えるのが大切ですよね)」というのは、私もようやくわかってきたところです。だから、上記のガイドブックのように、それぞれの特性やどういう傾向があるか知ることは大切だが、それによって全てカバーできるわけではない。

たとえば、私は鬱病で2級の精神障害者手帳を持っているけど、それはつまり当日になって体調が悪くて出発できないリスクを常に抱えている状態で、チケットは売り切れるかもしれないので予約はしたい、だけど当日精算にしたい、というニーズがあるわけです。

それは会場や運営スタッフによる物理的・精神的障害というより、企画制作側に理解してほしいニーズ(近年はクレジットカードなどでの事前決済のみの舞台公演もあるので)なのですが、上記のガイドブックにはそういうことは書いてない。

アクセシビリティを公表することで排除を明文化してしまうのではないか?というような葛藤もあったが、ただの非障害者マジョリティ側の幻想でしかなかった(なぜなら明文化するしないに関わらず、さまざまな理由から対象外になってしまう人たちをゼロにはできないので)な、むしろ明文化しないことで問い合わせるコストを相手に支払わせているな、と今では思う。

あと、アクセシビリティや障害に関連して、おそらく多くの非障害者が知らないことをひとつ。「障害者雇用」とかあるから最低賃金くらいの収入はあるんでしょ?と誤解しがちなんですけど、一般企業の障害者雇用の多くは求人の時点で「これは身体障害しか想定してないね...」みたいな求人がほとんどで、精神障害者が「毎日出勤することは難しい」と思っていても、少なくとも私はそれに応えてくれる求人を見つけられなかった。

でも、私はバイトするなら障害者であることを隠せるし、多くの職場でそうしてきたけど、もちろん欠勤が続いて気まずくなると辞めるしかなくなるわけで。そうやって、障害当事者みんなが最低賃金が保証される仕事に就けるわけではないのです。

また、特性や程度によってはガイドヘルパー(外出時の付き添い介助者)なしに外出でいない人もいる。その場合、ガイドヘルパーの交通費や入場料は、もちろん障害当事者が支払う、ということは意外と知られていない。

もちろん、どこまで公に、オープンにしていきたいかという問題は、公共劇場主催ではないイベントだと作家側制作側が譲れない部分などは大切なはずだし大切にするべきで、どこで線を引くかの線引きの問題になると思うんだけど(たとえば、私だったらネット配信はしたくない、とか)、「障害者は割引があるからお得だ」というような単純なことではないんだ!ということはあまり知られていない気がするので、ここで言及しておきます。

というのと、どこで線を引くか?が曖昧だとさ、結局、来て欲しかったはずの相手に問い合わせや援助要求のコストを支払わせることになる、ということは、イベント主催側はみんな意識したほうがいいんじゃないかと思っている。オチはない。

2025年7月18日金曜日

嗚呼、参政党などには投票しないでね

【精神障害者手帳2級を持っている私からあなたにお願いです】

私は障害者手帳を持って生活しています。これは大した効力はなくて(障害年金とは別の制度なので)、公共のバスが半額になったり公営の美術館などに無料で入れたりするくらいしかメリットはありません。子どもを保育園に入れるために仕方なく取った手帳です。

が、私は毎日の精神的身体的状態が不安定な生活を10年以上続けていて、調子が悪いと布団から起き上がれない日もあるため、アルバイトなどの形でのお金をほとんど稼げません。毎日の服薬(4種7錠)と毎月の心療内科への通院にかかる医療費は「自立支援医療制度(精神通院)」という制度に大いに助けられています。

ここで本題です。お願いがあります。参政党(また自民党、維新の会も同様と思いますが)のように、外国人に関するデマ、発達障害は利権というデマなど、社会的弱者の属性を平然と攻撃する国政政党が大きく躍進する、それを支持する人がたくさんいることに非常に不安を覚えます。

いつか「障害者(もしくは高齢者、フリーター、低所得者などなんでも代入可能と思いますが)が税金を浪費している」という大号令のもとに、いまのなんとか小銭をやりくりしている自分の生活が、公に否定され、生活のサイクルも破綻してしまうのではないかと恐れているからです。

なので、まず、あなたが参政党のような政党に投票しないでください。もし期日前で既に参政党やその政党の候補者に投票してしまったなら、「佐々木が死んだら自分の責任である」くらいの責任感と罪悪感を持ってください。

そして、もし周囲に「参政党を応援したい」と思ってる方がいらっしゃったら、「私の知人(もしくは友人)で障害者として生活している人がいて、参政党の発言は怖い、危険だと言っていた」程度の話でもいいとので、どうか精一杯の説得をしてください。

参政党のような、なんちゃってファシズムをノリで応援してしまう人がたくさんいることが、マイノリティとしての属性を背負わざるを得ない人にとってどれだけ恐ろしいことか、どうかご一考を、ひらにお願い致します。


2025.7.18

佐々木すーじん

2025年7月11日金曜日

だらけるとすぐ死にたくなる弱さ

Twitterで排外的カルト政党へのニワカ人気を尻目に見ながら、どうしてもきちんとその政党を正面から批判する気持ちが起こらなくて、もやもやしながら1週間くらい過ごした。政治的なトピックに冷めてしまったのかな...?とか、歳とったってことなの...?とか自分に対する猜疑心多めで煩悶としながら、それらへの批判をSNSに投稿する気が起きなかったのは、SNS運営会社が対立や憎悪を煽って金銭にしている下劣な企業に成り果てて、イーロンマスクやザッカーバーグが儲けるために感情を消費されているように見えてしまっているからで、もちろん、心ある人たちは、最初からそうだったでしょうよと思うのだろうけれど、Twitterを信じていた日もあったのだよ、私は。

SNSいやだなといまは常々思っているのだけど、ごく一部の、心ある人との仮想空間のみでの出会いやリアルに発展するお客さんとの出会いもあるので、自分のような極小規模の自営業者には欠かせないものにもなっていて、本当に心苦しい。TwitterやMeta周りのSNS以外の選択肢を、強く訴えている知人もいたのですが、申し訳ない、人があつまるところで宣伝したい/せざるを得ないんだよね。申し訳ない。

まぁ、でも参政党はダメだよ。とは言っておくよ。支持している人をバカだとは思わないけど、論理で判断しないんだなとは思う。論理で判断しない人は主権者に向いてないな。感情を駆動されて消費されて検閲されて動員されて、自分たちも血を流したと、私たち日本マジョリティ人はまた被害者ぶるのだろうか。

東京の西の郊外に越してきて、もう7年くらい経つのですが、調子が悪い時に限ってSNSを見続けてしまったりして、どんどん昏い気持ちに落ちていくことがあるのですが、知人友人と対面でお茶など交えて話すとなんなく救われることの多さにびっくりする。

対面は大切、と思う。弱い弱い人間である自分にとっては特に。スマホを捨てよ町に出よう。

2025年6月30日月曜日

私がくたばるとき

私自身の創作に関して、昨年くらいから誰にも望まれていないのにシャカリキ頑張っているアホらしさのようなことを感じています。本来は誰にも望まれていないとしても、何かをつくること、それ自体が素晴らしいことだと思うのですが、「コンテンツ創出」として扱われて仕方ないかと割り切った瞬間から何かをつくることの潜在的な素晴らしさは地に堕ちている。

なんでこんなに何かをつくることに理由づけや結果が求められるのか、わからないなと思いながらも私の中にそういった価値判断が入り込んでいるのでしょう、「で?」「だからなに?」と、誰に言われたわけでもない心無い言葉を自分で自分に投げかけてしまう。

30歳になる前に某振付家の名前を冠したダンスカンパニーで「命懸けで舞台に立て」と吹き込まれて、危うく自死しかけた。私が命懸けで立ったところで私自身が評価されるわけでもない構造の中で、その時私が死んでも誰も責任を負わない何も変わらない意味ない死に様、ですよね?としか思えないので、舞台にもアートにも決して命を懸けてはいけない、生きてこの不当な世界と(戦えそうな状態のときのみ)戦うべしという思いは、下の世代に口を酸っぱく酸っぱく言わねばならないと思う。

中学で不登校児になって自分の将来に絶望し深夜ひとり映画のビデオテープを再生することだけが救いだったので、「作品」という単位によって自分の生が肯定される/され得るという可能性=私の生きる可能性だったわけだけど、私に関わる全ての存在が私の創作に影響を及ぼすわけで、せめて私がくたばるときはエンドロールを長めにお願いするよ、観客が席を立っても構わないから。


2025年6月27日金曜日

ゼロイチとベクトルの話

先月のゴールデンウィークに気の置けない友人たちと小ぢんまり飲んでいた時、人として中身があるとかないとか、っていう話になり、まぁシラフで字面を見ると大変傲慢なように思うけど、酔いが大いに回っていたということで、どうかご容赦ください。

で、人として中身があるとかないとかいう話になって、私は滔々と自分の意見を述べたのだが、それはつまり、中身があるとかないとかではなく人間は全てゼロである、そこにはゼロとイチしかなく、人がイチになるということもなくて、そのゼロの自分からイチに向かうベクトルにだけ、その人の存在意義が宿るみたいな私見を述べて、我ながらドン引き、というかそんなに禁欲的な思考をしなくてもいいのにと思う。

自意識肥大、夜郎自大、まぁそんなとこでしょうと思っても、自分の根底に張り着いた価値基準というものからは逃れられないもので、もっと大らかになりたいものだと思いながら、その実そんなことを思っていたんだな、と引きずっていた。

ということで切り離して相対化したいものだよ、と思って叙述するも、手前味噌にもそうだよねぇと共感する始末。というのは悪フザケにしても、あまりに自分の根底にあるものすぎて相対化もできないので、もうちょっとマイルドにならないかなと思う。

その、ゼロイチとベクトルとは、つまり人には個々に宿題や課題があり、それに向かい合い取り組むことでしか幸せになれないというような考えなのですが、あろうことか、私はやはりそこに家族含め他人が介在し得ないものだと思っている。それはあまりに絶望的な気分になるので、あまり深くは追わず、ちょっと焦点をぼかしてですね、あまり大袈裟に考えないようにする。

あまりに焦点がぼやけてもはや自ずと眠くなる昼下がり、私はまどろみに堕ちゆく意識の中で幸せを感じたりしている。

2025年6月24日火曜日

私、呼吸でケージを超えるぜ ー"kq"CD編

その昔、"kq"CDを某古書店さんに営業に行った時、「こんなんただ呼吸している音が入っているだけでしょう(大意)」というようなご意見をいただいて、全くもってその通りですな、と思ってしまってヘラヘラ適当に笑っていたのですが、そんなことはないのです。

"kq"という拙作は、たしかにほぼ呼吸している音だけで構成されてはいるが、CDに入っているスタジオ録音した呼吸音、スローな「非楽音(ノイズ)」を聴いていると、不思議と落ち着くという身体作用が発生する「グルーヴィな(ノイズ)音楽」だと思っている。

さて、表題でっかく出ましたが、やらなければならないと思ってます。ジョン・ケージ(リンク先wiki)超え!

ケージの有名な作品『4分33秒』(1952年)は、「演奏」と(演奏によってしか生起しないとされる)「音楽」への疑義だと思っているのだけど、西欧近代的な美学へのアンチテーゼとして尖鋭化するあまり「フレームがないというフレーム」しかない。いわば、フレームを外した先に広がる荒野に「これが真の自由である」という看板だけが立っていると感じる。

私の立場からすると、「自由」は餅の絵を描いて看板を立てれば成し得るものではなく、身体と知覚へのアプローチを経て個々人のなかに起こり得るのだと考えている。自由は状況や定義ではなく、個々が感じ得る内的感覚の問題だと考えるからだ。

なので、「ほら、自由だ!それやるぞ!」というような自由観・芸術観を更新して、私は地に足をつけたフレームを提案する。フレームとフォーカスの必要性を、(自身と他者の)主観への作用可能性という観点から主張する。フレームとフォーカスを設定する以上、実は「上手い下手」が付随するのだがそれは傍に。

"kq"は、スローな呼吸音で時間を構成することで、演奏者と聴衆の身体の緊張を緩め、またその知覚を柔らかく広げ、内なる自由を味わうことへフォーカスされているのです。達成されるものは20世紀的な「真の自由」とは似て非なる、あなただけの個人的な自由になると思っています。決して「ただ呼吸している音が入っているだけ」ではないのです。

とかとか。"kq"を「上演」することは、また別のものだと思っているのですが。
CD試聴はコチラから。

2025年5月9日金曜日

「ここはどこかの窓のそと2」レビュー

窓の階公演「ここはどこかの窓のそと2」(脚本・演出:久野那美)2025年2月



文・佐々木すーじん(音楽家)



とても美しい演劇作品だと思った。


私は東京に在住しているが、東京公演のテルプシコール(中野)での拝見が叶わなかった。ので、記録映像で観せてもらった。

冒頭、テルプシコールのコンクリートの壁と、ごちゃごちゃした舞台美術の設えと、(たぶん、劇場の外での)電車の音と、秋の昼間を思わせる照明と、俳優の衣装と、それらの均整に惹きつけられた。

なかなか観ない均整だった。(といっても私は年間で演劇作品を10本観てるかどうか、程度の観劇好きなのだが)

ポップでも奇想でも気取ってもいない。抽象化されていないが、舞台上にあたかも現実的な空間を建て込んでいるわけでもない。どこかで見た美術作品や作家の顔を連想しない。劇場の壁や環境音を借景しながら均整のとれた具体的空間が在るのは、むしろ人工と野生みの秩序ある混淆というべきか、手の行き届いた庭園、のような種類の空間だった。


図書館の建物外、でも敷地内というような空間での、司書らしき人(エプロン)と本の返却をしたい人(返却女)が対話してこの演劇の前半は展開し、中盤以降ルポライター?のような人(喋る男)が迷い込んで、話はより複雑になる。


かつて、久野さんのインタビューを読んだときに「私は一人の人間の生きざまを描くことにはあまり興味がなくて、個ではなく関係性を描きたいんです。」*1という言葉の意味があまり理解できなかった。

窓の階「ここはどこかの窓のそと2」を観てからだと、それが把握できた気がする。


タイトルにも使用される「窓」という単語は、「図書館」を擬人化して語られる、異なる時間における「概念の反復と同一性」とでも捉えられそうなメタファーとして作中にも登場する。

以下、久野さんから共有してもらった上演台本から引用する。



**

返却女 ...図書館の話です。同じところにずっとある、たくさんの図書館の話です。

エプロン 図書館の話?ふうん。同じ敷地に図書館がたくさん並んで立ってるんですか?

返却女 いえ、それは同じところとはいいません。並んでいたら同じ場所とは言いません。

エプロン ...

返却女 その図書館たちは。おなじ場所にいるために、おなじ時間にそこにいることをあきらめました。図書館たちはそれぞれ違う時代に存在していて、そこにはそれぞれの本が集められています。それぞれの時代の人がそれぞれの時代の本を読みにやってきます。

エプロン ...

返却女 そして、同じ窓から外を見ている。

エプロン つまり、同じ図書館?(混乱している)

返却女 同じじゃないんです。

エプロン ...。

返却女 同じ窓から別々の風景を見ている、たくさんの図書館の話。

エプロン ... 。

返却女 長い歴史の中で、図書館は次々に入れ替わります。

エプロン 入れかわる... 。

返却女 外から見ていても中にいてもわからないんですけど、実は次々に入れ替わっていく

んです

エプロン ...

返却女 新しい図書館が生まれる瞬間、旧い方の図書館は同時にそこから消えていきます。

エプロン ...

返却女 図書館へ来る人たちは、そこにたくさんの図書館があることを知りません。図書館自身も。過去に自分とは違う図書館がそこにあったことを知りません。これから先、自分とは違う図書館がそこに現れるかもしれないとも思いません。ただ、同じ窓から外を見ている。まったくおなじ場所に建つっていうのはそういうことです。そういう、たくさんの図書館の話です。



**

「図書館」という具体物を指す名詞を擬人化しているので混乱するが、「文化」や「葛藤」などの抽象的な概念を代入すると、浮かび上がるようにイメージがつながらないだろうか。まるで、人類の歴史の積み重ねと繰り返しをはるか遠くから眺めているような、原子核と電子がつくる円環に太陽系を重ねて見てしまうような。


この演劇は虚構と現実(=虚構でないもの)という二項対立を柱にしているように思えるが、実はその二項対立自体が意味をなしていない(なぜなら、絶対に客観的な視点という存在自体が虚構だから)という視座が、第三の登場人物「よく喋る男」の登場以降、何度も暗示されている。

「よく喋る男」の台詞を引用する。



**

エプロン あなたは、本を書く人なんですか?

喋る男 本も、書きます。

返却女 物語を創る人ですか?

喋る男 僕は物語は作りません。事実を言葉にするんです。

返却女 事実を言葉したものは物語じゃないんですか?

喋る男 それは物語じゃないです。事実と言うのは、そこに一つしかないほんとうのことです。物語というのは、予めどこかにある別の枠組みを使って語られたもののことです。僕が書きたいのは、事実そのものです。自分の目で見た事実を、そのまま、嘘のない、そこにしかないものとして書きたいと思ってます。... 言葉で書くのは難しいんですけどね。

返却女 難しいんですか?

喋る男 うーん、人間は、今初めて見たものでも、自分の知識や経験を基にして理解してしまうし、言葉の背景にある文化や価値観を通して目の前のものを見てしまうし、無意識に、何かのパターンに当てはめてしまうし、... 事実をそのまま言葉にしようとしても、どうしてもその事実と関係ない物語が入り込んでしまう。言葉は、そこに在るもの以外のものを書いてしまいそうになる。でも、僕が書きたいことはそういうのじゃないんです。



**

なにかしら真理らしきものを語っている風であるが、学生時代哲学をかじった私は思わず「んなわけあるか!」とツッコミたくなるような絶対的真理が(アプリオリに)存在する、という認識の人物である。

先に引用した返却女が語る図書館の物語が「概念の反復と同一性」の話だとして、同じ本をこの喋る男が読んで要約すると全く別の話が立ち上る。同じ本を読んだはずなのに感想や着目点は全くの不一致という、誰もが体験したことのあるようなエピソードを拡張したような印象である。

喋る男は、以下のように要約する。



**

喋る男 妖怪の遺伝子の話?いや違うか。虚構の物語の... その... あれこれについて?

返却女 ... ん?

喋る男 ひとことで説明するのは難しいんです。

返却女 キョコウ?

喋る男 虚構。ほんとうじゃない架空の出来事。実体のない物。嘘の世界。

返却女 つまり嘘?嘘の話?そして、遺伝子????

喋る男 こんな説があるの知ってますか?「実は、遺伝子の方が本体で、遺伝子が、生き物の身体を乗り物にして、自分たちを増殖させて、自分たちを未来の世界へ運んでいく。」

返却女 ふうん。で?

喋る男 虚構の世界も、それと同じなのかもしれないって話です。

エプロン・返却女... ん?

喋る男 (説明する)虚構というのは事実と違って、個人が創った作り話なわけですから、創ったひとの生まれた時代や文化や価値観や個人の考え方によって違ってるはずです。なのに、地域も文化も民族も言語も違うところに、同じような神話や伝説が昔から在ったりする。現代でも、全然関係ない別々の虚構の物語に共通の気配とかイメージとか構造があったりする。

エプロン ふん、

喋る男 実は「虚構」にはその元になる遺伝子のようなものがあって、人間が生まれるずっと前からあって、それが場所や文化や時代を超えて遠くへ、未来へ、いろんなところに散らばっていった。世界中にある虚構の物語は実はみんな同じ遺伝子で繋がっている... 、っていう話です。

返却女 虚構の遺伝子も生き物が運ぶんですか?

喋る男 虚構の遺伝子は、人間の言葉が運ぶんです。

エプロン 人間の言葉?

喋る男 虚構は現実の世界に「言葉」だけで存在してるんです。たとえば、妖怪みたいな架空の生き物でも。「妖怪」っていう言葉で表せば、実体がなくても虚構のまま現実の世界に存在できる。

エプロン 現実の世界のどこに?

喋る男  どっかに。世界中のあらゆるどっかに。実体がない、つまり誰にも見えないわけですから現実世界では孤独ですけど、でも、時代も場所も超えて、彼らの仲間はあらゆるどっかに必ずいるんです。



**

クロード・レヴィ=ストロース(読んでないけど)のような文化や中心の相対性に関する言説と、リチャード・ドーキンス(読んでないけど)とを経て、「虚構の遺伝子」という概念にまで華麗に跳躍する。

作家のインスピレーションが作品を現前させるのではなく、「虚構の遺伝子」が自らを運ばせるために作家に作品を作らせている、という転倒は、西洋中心的な芸術観から脱却する視座とも捉えうる。が、私も「極東の辺境国」で日々音楽を創るものとして感じるのは「救い」である。


なぜ、生活費を別の仕事や家族から捻出しながらも日々創作の継続に苦しまなければならないか、という作家として背負う「さが」とでもいう問いに「虚構の遺伝子を運ぶため」という回答のように思えたのだった。そしてそれは「神さまが試練を与えたため」という宗教的な救済に類似するような超越的な視点であるように思った。

東京を中心にすれば久野が本拠地とする大阪は辺境だが、欧米を中心に据えれば東京も辺境でしかない、というように中心は相対的で流動的である。にもかかわらず、爆発的な評価を得られない限り、作品創りを生業にはできない。上演芸術なら(流通の難しさから)尚更である。

だからと言って、アーティストが皆んなひとにぎりの「選ばれたるもの」になる為に作品を創り続けているわけではない。ではなぜ?なぜ苦しまなければならないのか?評価という「中心」らしきものの対象から零れ落ち続ける、日々の無数の作品たち。私たち日本拠点のアーティストはそのような煩悶に日々回答を迫られているはずである。


その苦しみへの回答としての「虚構の遺伝子」という久野の概念に乗るなら、遺伝子たちは「ここはどこかの窓のそと2」において自己の存在を明示するだけではなく、その存在意義を何度も主張する。「虚構」は、ひとりの個人の主観にのみ存在している状態では存在も定かにはならないが、集積することで「現実」を形づくると暗示する。いや、むしろ「現実」と呼ばれるものは「虚構」の集積に過ぎないといっているように思える。いわば、「虚構の遺伝子」が現実を相対的・流動的に構成し、(まるで図書館の寓話のように)時代ごとに反復されることで同一性を保ちながら、ながらえていると考えられる。

一見するとニヒリスティックにも思える態度のようだが、そうではない。それは、日々の苦しみへの回答であり、真摯な祈りのように魂の救済を目的としている脱中心的なひとつの宇宙観に思える。なぜなら、作品の登場人物たちの誰をも、おそらく久野は完全に突き放していない、賢しらさも愚かさも不器用さもあきらめも引っくるめて、どこかに「愛」があることが伝わってくるような舞台だったから。


そのように登場人物が織り成す線から浮かび上がるように、幾何学模様/久野自身の「宇宙観」が立ち上るような演劇なのだが、その象徴のように作中では「円と直線の物語」という寓話が挿入される。

以下、引用する。



**

エプロン (唐突に)え、え、円と直線の物語!

返却女 え、え、え?えん?(びっくりする)

エプロン 知ってますか?えっと..

返却女 円と直線?

エプロン 円には円の物語があって、直線には直線の物語があって、どっちの物語にもある点が一点だけあって、でもその物語の世界では点には面積がないから、円と直線はそこで一瞬だけすれ違うんです。一瞬だけ出会って。そして別れていく... 。

返却女 それは悲しい物語ですか?

エプロン かなしい?

返却女 それとも、幸せな物語?

エプロン それは... 円によるし、直線によるんじゃないですかね?

返却女 面積の無い場所でどんな風に出会うんですか?

エプロン ... 円が?

返却女 線と。出会って、それからどうなるんですか?

エプロン 「そのとき円は直線の一部になる。直線は円の一部になる。」

返却女 それで?

エプロン それだけ。そして別れて行く。

返却女 それで?

エプロン おしまい。



**

まるで「ここはどこかの窓のそと2」が持つ物語としての展開を簡略化・抽象化したような「虚構」である。エプロンと返却女と喋る男とが、それぞれが全く別の主観にもとづき世界を認識していることが、一瞬だけ交わって別れゆく。

ここでも「何も(劇的な事件が)起こらない」という点のみに着目しすぎてはいけない。むしろ劇的な事件は起こっていると見るべきである。

なぜなら、登場人物のバラバラな世界観、「虚構」は、一瞬交わって私たち観客に共有可能なかたちでの「現実」を現前させたからだ。


そして、ここまで書いてきて、わかったことが一つある。

強く惹きつけられるこの空間の均整とは、ここでも「虚構と現実」と「抽象と具体」とが、パラレルな線を保ってつくられる緊張にほかならない。久野自身の「すべての現実(具体)は、虚構(抽象)の集積である」という美意識、確信の、徹底によるものだったのだ。





窓の階「ここはどこかの窓のそと2」販売ページ

↓(2025/05/09 00:00 〜 2025/06/30 23:59 初回セール価格で配信)https://xxnokai.stores.jp/items/6819e781e217856eb341cf94



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第12回せんがわ劇場演劇コンクール受賞者インタビュー(1) グランプリ 階(缶々の階)~久野那美さん(作・演出)

https://www.chofu-culture-community.org/pages/sengawa-theater-drama-competition-12th-interview01