2025年6月30日月曜日

私がくたばるとき

私自身の創作に関して、昨年くらいから誰にも望まれていないのにシャカリキ頑張っているアホらしさのようなことを感じています。本来は誰にも望まれていないとしても、何かをつくること、それ自体が素晴らしいことだと思うのですが、「コンテンツ創出」として扱われて仕方ないかと割り切った瞬間から何かをつくることの潜在的な素晴らしさは地に堕ちている。

なんでこんなに何かをつくることに理由づけや結果が求められるのか、わからないなと思いながらも私の中にそういった価値判断が入り込んでいるのでしょう、「で?」「だからなに?」と、誰に言われたわけでもない心無い言葉を自分で自分に投げかけてしまう。

30歳になる前に某振付家の名前を冠したダンスカンパニーで「命懸けで舞台に立て」と吹き込まれて、危うく自死しかけた。私が命懸けで立ったところで私自身が評価されるわけでもない構造の中で、その時私が死んでも誰も責任を負わない何も変わらない意味ない死に様、ですよね?としか思えないので、舞台にもアートにも決して命を懸けてはいけない、生きてこの不当な世界と(戦えそうな状態のときのみ)戦うべしという思いは、下の世代に口を酸っぱく酸っぱく言わねばならないと思う。

中学で不登校児になって自分の将来に絶望し深夜ひとり映画のビデオテープを再生することだけが救いだったので、「作品」という単位によって自分の生が肯定される/され得るという可能性=私の生きる可能性だったわけだけど、私に関わる全ての存在が私の創作に影響を及ぼすわけで、せめて私がくたばるときはエンドロールを長めにお願いするよ、観客が席を立っても構わないから。


2025年6月27日金曜日

ゼロイチとベクトルの話

先月のゴールデンウィークに気の置けない友人たちと小ぢんまり飲んでいた時、人として中身があるとかないとか、っていう話になり、まぁシラフで字面を見ると大変傲慢なように思うけど、酔いが大いに回っていたということで、どうかご容赦ください。

で、人として中身があるとかないとかいう話になって、私は滔々と自分の意見を述べたのだが、それはつまり、中身があるとかないとかではなく人間は全てゼロである、そこにはゼロとイチしかなく、人がイチになるということもなくて、そのゼロの自分からイチに向かうベクトルにだけ、その人の存在意義が宿るみたいな私見を述べて、我ながらドン引き、というかそんなに禁欲的な思考をしなくてもいいのにと思う。

自意識肥大、夜郎自大、まぁそんなとこでしょうと思っても、自分の根底に張り着いた価値基準というものからは逃れられないもので、もっと大らかになりたいものだと思いながら、その実そんなことを思っていたんだな、と引きずっていた。

ということで切り離して相対化したいものだよ、と思って叙述するも、手前味噌にもそうだよねぇと共感する始末。というのは悪フザケにしても、あまりに自分の根底にあるものすぎて相対化もできないので、もうちょっとマイルドにならないかなと思う。

その、ゼロイチとベクトルとは、つまり人には個々に宿題や課題があり、それに向かい合い取り組むことでしか幸せになれないというような考えなのですが、あろうことか、私はやはりそこに家族含め他人が介在し得ないものだと思っている。それはあまりに絶望的な気分になるので、あまり深くは追わず、ちょっと焦点をぼかしてですね、あまり大袈裟に考えないようにする。

あまりに焦点がぼやけてもはや自ずと眠くなる昼下がり、私はまどろみに堕ちゆく意識の中で幸せを感じたりしている。

2025年6月24日火曜日

私、呼吸でケージを超えるぜ ー"kq"CD編

その昔、"kq"CDを某古書店さんに営業に行った時、「こんなんただ呼吸している音が入っているだけでしょう(大意)」というようなご意見をいただいて、全くもってその通りですな、と思ってしまってヘラヘラ適当に笑っていたのですが、そんなことはないのです。

"kq"という拙作は、たしかにほぼ呼吸している音だけで構成されてはいるが、CDに入っているスタジオ録音した呼吸音、スローな「非楽音(ノイズ)」を聴いていると、不思議と落ち着くという身体作用が発生する「グルーヴィな(ノイズ)音楽」だと思っている。

さて、表題でっかく出ましたが、やらなければならないと思ってます。ジョン・ケージ(リンク先wiki)超え!

ケージの有名な作品『4分33秒』(1952年)は、「演奏」と(演奏によってしか生起しないとされる)「音楽」への疑義だと思っているのだけど、西欧近代的な美学へのアンチテーゼとして尖鋭化するあまり「フレームがないというフレーム」しかない。いわば、フレームを外した先に広がる荒野に「これが真の自由である」という看板だけが立っていると感じる。

私の立場からすると、「自由」は餅の絵を描いて看板を立てれば成し得るものではなく、身体と知覚へのアプローチを経て個々人のなかに起こり得るのだと考えている。自由は状況や定義ではなく、個々が感じ得る内的感覚の問題だと考えるからだ。

なので、「ほら、自由だ!それやるぞ!」というような自由観・芸術観を更新して、私は地に足をつけたフレームを提案する。フレームとフォーカスの必要性を、(自身と他者の)主観への作用可能性という観点から主張する。フレームとフォーカスを設定する以上、実は「上手い下手」が付随するのだがそれは傍に。

"kq"は、スローな呼吸音で時間を構成することで、演奏者と聴衆の身体の緊張を緩め、またその知覚を柔らかく広げ、内なる自由を味わうことへフォーカスされているのです。達成されるものは20世紀的な「真の自由」とは似て非なる、あなただけの個人的な自由になると思っています。決して「ただ呼吸している音が入っているだけ」ではないのです。

とかとか。"kq"を「上演」することは、また別のものだと思っているのですが。
CD試聴はコチラから。

2025年5月9日金曜日

「ここはどこかの窓のそと2」レビュー

窓の階公演「ここはどこかの窓のそと2」(脚本・演出:久野那美)2025年2月



文・佐々木すーじん(音楽家)



とても美しい演劇作品だと思った。


私は東京に在住しているが、東京公演のテルプシコール(中野)での拝見が叶わなかった。ので、記録映像で観せてもらった。

冒頭、テルプシコールのコンクリートの壁と、ごちゃごちゃした舞台美術の設えと、(たぶん、劇場の外での)電車の音と、秋の昼間を思わせる照明と、俳優の衣装と、それらの均整に惹きつけられた。

なかなか観ない均整だった。(といっても私は年間で演劇作品を10本観てるかどうか、程度の観劇好きなのだが)

ポップでも奇想でも気取ってもいない。抽象化されていないが、舞台上にあたかも現実的な空間を建て込んでいるわけでもない。どこかで見た美術作品や作家の顔を連想しない。劇場の壁や環境音を借景しながら均整のとれた具体的空間が在るのは、むしろ人工と野生みの秩序ある混淆というべきか、手の行き届いた庭園、のような種類の空間だった。


図書館の建物外、でも敷地内というような空間での、司書らしき人(エプロン)と本の返却をしたい人(返却女)が対話してこの演劇の前半は展開し、中盤以降ルポライター?のような人(喋る男)が迷い込んで、話はより複雑になる。


かつて、久野さんのインタビューを読んだときに「私は一人の人間の生きざまを描くことにはあまり興味がなくて、個ではなく関係性を描きたいんです。」*1という言葉の意味があまり理解できなかった。

窓の階「ここはどこかの窓のそと2」を観てからだと、それが把握できた気がする。


タイトルにも使用される「窓」という単語は、「図書館」を擬人化して語られる、異なる時間における「概念の反復と同一性」とでも捉えられそうなメタファーとして作中にも登場する。

以下、久野さんから共有してもらった上演台本から引用する。



**

返却女 ...図書館の話です。同じところにずっとある、たくさんの図書館の話です。

エプロン 図書館の話?ふうん。同じ敷地に図書館がたくさん並んで立ってるんですか?

返却女 いえ、それは同じところとはいいません。並んでいたら同じ場所とは言いません。

エプロン ...

返却女 その図書館たちは。おなじ場所にいるために、おなじ時間にそこにいることをあきらめました。図書館たちはそれぞれ違う時代に存在していて、そこにはそれぞれの本が集められています。それぞれの時代の人がそれぞれの時代の本を読みにやってきます。

エプロン ...

返却女 そして、同じ窓から外を見ている。

エプロン つまり、同じ図書館?(混乱している)

返却女 同じじゃないんです。

エプロン ...。

返却女 同じ窓から別々の風景を見ている、たくさんの図書館の話。

エプロン ... 。

返却女 長い歴史の中で、図書館は次々に入れ替わります。

エプロン 入れかわる... 。

返却女 外から見ていても中にいてもわからないんですけど、実は次々に入れ替わっていく

んです

エプロン ...

返却女 新しい図書館が生まれる瞬間、旧い方の図書館は同時にそこから消えていきます。

エプロン ...

返却女 図書館へ来る人たちは、そこにたくさんの図書館があることを知りません。図書館自身も。過去に自分とは違う図書館がそこにあったことを知りません。これから先、自分とは違う図書館がそこに現れるかもしれないとも思いません。ただ、同じ窓から外を見ている。まったくおなじ場所に建つっていうのはそういうことです。そういう、たくさんの図書館の話です。



**

「図書館」という具体物を指す名詞を擬人化しているので混乱するが、「文化」や「葛藤」などの抽象的な概念を代入すると、浮かび上がるようにイメージがつながらないだろうか。まるで、人類の歴史の積み重ねと繰り返しをはるか遠くから眺めているような、原子核と電子がつくる円環に太陽系を重ねて見てしまうような。


この演劇は虚構と現実(=虚構でないもの)という二項対立を柱にしているように思えるが、実はその二項対立自体が意味をなしていない(なぜなら、絶対に客観的な視点という存在自体が虚構だから)という視座が、第三の登場人物「よく喋る男」の登場以降、何度も暗示されている。

「よく喋る男」の台詞を引用する。



**

エプロン あなたは、本を書く人なんですか?

喋る男 本も、書きます。

返却女 物語を創る人ですか?

喋る男 僕は物語は作りません。事実を言葉にするんです。

返却女 事実を言葉したものは物語じゃないんですか?

喋る男 それは物語じゃないです。事実と言うのは、そこに一つしかないほんとうのことです。物語というのは、予めどこかにある別の枠組みを使って語られたもののことです。僕が書きたいのは、事実そのものです。自分の目で見た事実を、そのまま、嘘のない、そこにしかないものとして書きたいと思ってます。... 言葉で書くのは難しいんですけどね。

返却女 難しいんですか?

喋る男 うーん、人間は、今初めて見たものでも、自分の知識や経験を基にして理解してしまうし、言葉の背景にある文化や価値観を通して目の前のものを見てしまうし、無意識に、何かのパターンに当てはめてしまうし、... 事実をそのまま言葉にしようとしても、どうしてもその事実と関係ない物語が入り込んでしまう。言葉は、そこに在るもの以外のものを書いてしまいそうになる。でも、僕が書きたいことはそういうのじゃないんです。



**

なにかしら真理らしきものを語っている風であるが、学生時代哲学をかじった私は思わず「んなわけあるか!」とツッコミたくなるような絶対的真理が(アプリオリに)存在する、という認識の人物である。

先に引用した返却女が語る図書館の物語が「概念の反復と同一性」の話だとして、同じ本をこの喋る男が読んで要約すると全く別の話が立ち上る。同じ本を読んだはずなのに感想や着目点は全くの不一致という、誰もが体験したことのあるようなエピソードを拡張したような印象である。

喋る男は、以下のように要約する。



**

喋る男 妖怪の遺伝子の話?いや違うか。虚構の物語の... その... あれこれについて?

返却女 ... ん?

喋る男 ひとことで説明するのは難しいんです。

返却女 キョコウ?

喋る男 虚構。ほんとうじゃない架空の出来事。実体のない物。嘘の世界。

返却女 つまり嘘?嘘の話?そして、遺伝子????

喋る男 こんな説があるの知ってますか?「実は、遺伝子の方が本体で、遺伝子が、生き物の身体を乗り物にして、自分たちを増殖させて、自分たちを未来の世界へ運んでいく。」

返却女 ふうん。で?

喋る男 虚構の世界も、それと同じなのかもしれないって話です。

エプロン・返却女... ん?

喋る男 (説明する)虚構というのは事実と違って、個人が創った作り話なわけですから、創ったひとの生まれた時代や文化や価値観や個人の考え方によって違ってるはずです。なのに、地域も文化も民族も言語も違うところに、同じような神話や伝説が昔から在ったりする。現代でも、全然関係ない別々の虚構の物語に共通の気配とかイメージとか構造があったりする。

エプロン ふん、

喋る男 実は「虚構」にはその元になる遺伝子のようなものがあって、人間が生まれるずっと前からあって、それが場所や文化や時代を超えて遠くへ、未来へ、いろんなところに散らばっていった。世界中にある虚構の物語は実はみんな同じ遺伝子で繋がっている... 、っていう話です。

返却女 虚構の遺伝子も生き物が運ぶんですか?

喋る男 虚構の遺伝子は、人間の言葉が運ぶんです。

エプロン 人間の言葉?

喋る男 虚構は現実の世界に「言葉」だけで存在してるんです。たとえば、妖怪みたいな架空の生き物でも。「妖怪」っていう言葉で表せば、実体がなくても虚構のまま現実の世界に存在できる。

エプロン 現実の世界のどこに?

喋る男  どっかに。世界中のあらゆるどっかに。実体がない、つまり誰にも見えないわけですから現実世界では孤独ですけど、でも、時代も場所も超えて、彼らの仲間はあらゆるどっかに必ずいるんです。



**

クロード・レヴィ=ストロース(読んでないけど)のような文化や中心の相対性に関する言説と、リチャード・ドーキンス(読んでないけど)とを経て、「虚構の遺伝子」という概念にまで華麗に跳躍する。

作家のインスピレーションが作品を現前させるのではなく、「虚構の遺伝子」が自らを運ばせるために作家に作品を作らせている、という転倒は、西洋中心的な芸術観から脱却する視座とも捉えうる。が、私も「極東の辺境国」で日々音楽を創るものとして感じるのは「救い」である。


なぜ、生活費を別の仕事や家族から捻出しながらも日々創作の継続に苦しまなければならないか、という作家として背負う「さが」とでもいう問いに「虚構の遺伝子を運ぶため」という回答のように思えたのだった。そしてそれは「神さまが試練を与えたため」という宗教的な救済に類似するような超越的な視点であるように思った。

東京を中心にすれば久野が本拠地とする大阪は辺境だが、欧米を中心に据えれば東京も辺境でしかない、というように中心は相対的で流動的である。にもかかわらず、爆発的な評価を得られない限り、作品創りを生業にはできない。上演芸術なら(流通の難しさから)尚更である。

だからと言って、アーティストが皆んなひとにぎりの「選ばれたるもの」になる為に作品を創り続けているわけではない。ではなぜ?なぜ苦しまなければならないのか?評価という「中心」らしきものの対象から零れ落ち続ける、日々の無数の作品たち。私たち日本拠点のアーティストはそのような煩悶に日々回答を迫られているはずである。


その苦しみへの回答としての「虚構の遺伝子」という久野の概念に乗るなら、遺伝子たちは「ここはどこかの窓のそと2」において自己の存在を明示するだけではなく、その存在意義を何度も主張する。「虚構」は、ひとりの個人の主観にのみ存在している状態では存在も定かにはならないが、集積することで「現実」を形づくると暗示する。いや、むしろ「現実」と呼ばれるものは「虚構」の集積に過ぎないといっているように思える。いわば、「虚構の遺伝子」が現実を相対的・流動的に構成し、(まるで図書館の寓話のように)時代ごとに反復されることで同一性を保ちながら、ながらえていると考えられる。

一見するとニヒリスティックにも思える態度のようだが、そうではない。それは、日々の苦しみへの回答であり、真摯な祈りのように魂の救済を目的としている脱中心的なひとつの宇宙観に思える。なぜなら、作品の登場人物たちの誰をも、おそらく久野は完全に突き放していない、賢しらさも愚かさも不器用さもあきらめも引っくるめて、どこかに「愛」があることが伝わってくるような舞台だったから。


そのように登場人物が織り成す線から浮かび上がるように、幾何学模様/久野自身の「宇宙観」が立ち上るような演劇なのだが、その象徴のように作中では「円と直線の物語」という寓話が挿入される。

以下、引用する。



**

エプロン (唐突に)え、え、円と直線の物語!

返却女 え、え、え?えん?(びっくりする)

エプロン 知ってますか?えっと..

返却女 円と直線?

エプロン 円には円の物語があって、直線には直線の物語があって、どっちの物語にもある点が一点だけあって、でもその物語の世界では点には面積がないから、円と直線はそこで一瞬だけすれ違うんです。一瞬だけ出会って。そして別れていく... 。

返却女 それは悲しい物語ですか?

エプロン かなしい?

返却女 それとも、幸せな物語?

エプロン それは... 円によるし、直線によるんじゃないですかね?

返却女 面積の無い場所でどんな風に出会うんですか?

エプロン ... 円が?

返却女 線と。出会って、それからどうなるんですか?

エプロン 「そのとき円は直線の一部になる。直線は円の一部になる。」

返却女 それで?

エプロン それだけ。そして別れて行く。

返却女 それで?

エプロン おしまい。



**

まるで「ここはどこかの窓のそと2」が持つ物語としての展開を簡略化・抽象化したような「虚構」である。エプロンと返却女と喋る男とが、それぞれが全く別の主観にもとづき世界を認識していることが、一瞬だけ交わって別れゆく。

ここでも「何も(劇的な事件が)起こらない」という点のみに着目しすぎてはいけない。むしろ劇的な事件は起こっていると見るべきである。

なぜなら、登場人物のバラバラな世界観、「虚構」は、一瞬交わって私たち観客に共有可能なかたちでの「現実」を現前させたからだ。


そして、ここまで書いてきて、わかったことが一つある。

強く惹きつけられるこの空間の均整とは、ここでも「虚構と現実」と「抽象と具体」とが、パラレルな線を保ってつくられる緊張にほかならない。久野自身の「すべての現実(具体)は、虚構(抽象)の集積である」という美意識、確信の、徹底によるものだったのだ。





窓の階「ここはどこかの窓のそと2」販売ページ

↓(2025/05/09 00:00 〜 2025/06/30 23:59 初回セール価格で配信)https://xxnokai.stores.jp/items/6819e781e217856eb341cf94



*1

第12回せんがわ劇場演劇コンクール受賞者インタビュー(1) グランプリ 階(缶々の階)~久野那美さん(作・演出)

https://www.chofu-culture-community.org/pages/sengawa-theater-drama-competition-12th-interview01


2025年4月11日金曜日

勝手に他己紹介(4 佐藤駿さん

佐藤駿さんは俳優さんで、昨年のせんがわ劇場演劇コンクールで初めて話しました。なのに、佐藤さんはめちゃくちゃ気の良い人なので、速攻「さとしゅん」さんという愛称で呼んでいます。


佐藤駿さんアーティスト写真(撮影 瀧本信幸)↑プロフィール↓


佐藤駿

2016年ごろより、演者としての活動を始める。映画美学校アクターズコース一期初等科修了。横浜国立大学大学院Y-GSCスタジオ修了。2016-18年、パフォーマンス作品を作る集まりとして「犬など」を主宰し創作を行う。
近年の主な舞台芸術作品の参加団体に、バストリオ、Dr. Holiday Laboratory、屋根裏ハイツ、など。ソロでの発表は今回が初めてです。ふだん自分が舞台にいる時に大切にしていることを「即興」という観点から考える機会にできたらと思っています。

 

私は屋根裏ハイツ『すみつくす』という演劇で、さとしゅんさんを一方的に知っていたのだけど、その時は「この人は素でこういう人なのかな?」という妙な違和感と存在感を残しつつ、自然体過ぎてすごい技術なのかすごい天然なのか判断つかなかったのです。

それが、せんがわ劇場演劇コンクールで屋根裏ハイツ『未来が立ってる』を拝見した時、妙な違和感と存在感はそのままに別人のように居るではないですか!びっくりしたんだよね。すごい技術だと思った。

昨年、クラファンのリターンで屋根裏ハイツ主宰の中村大地さんとお話したとき、「すみつくすは、各上演の俳優たちのセリフの間の取り方やどういう動作を選択するかが毎回違って、セッションみたいだった」「さとしゅんは、(本番中に試して失敗すると良くないので)稽古場で試して失敗しておきます、と宣言してから演技したりするんですよね」と中村さんが仰っていて、共感しつつ、向上心あるスゴい人なんだな〜と思っていたので、今回お招きできてとても嬉しいです。(もちろん自分の企画に参加してくれるアーティストはいつでもみんな参加決まって嬉しいですが!)

さとしゅんさんはご参加が決まるや否や、「自分はソロが初めてなので、すーじんさんの稽古を見学させてもらえませんか?」ということで、3月の終わりにさとしゅんさんと稽古したのですが、私のリハーサルでの作業を見てからの言語化する精度と密度が高く、かつ情報量も多くて、すごい俳優さんだと改めて思いました。しかも気の回し方が上手で嫌味がないのよね。不思議。

そんなさとしゅんさん、その稽古でお会いした時に「まだ何も手をつけてないんですが」とハニカミつつ、興味深い即興のプランをいくつも話してくれました。おお...本当にすごい人だッ...!すごい俳優さんて作家脳なんだよねと思いつつ、4/19は何を見せてくれるのか楽しみです!

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2025年4月3日木曜日

勝手に他己紹介(3 星善之さん

星さんは、第12回せんがわ劇場演劇コンクールのファイナリストでして、私が第14回せんがわ演コンのファイナリストになったころ、ワーって資料に名前が載ってた人を、SNSでフォローしまくった中の、おひとりであります。その節は突然失礼しました。星さん、フォロー返してくれました。どうもありがとうございます。

さて、そんな星さんが演出を務める第12回せんがわ演コンの出場作品「『なめとこ山の熊のことならおもしろい。』」がこちら↓です。開場から始まっているタイプの作品なので、開始9分くらいから喋り始めています。


面白いですね。私も昨日ようやく拝見しました。現実と虚構の入り混じり方が面白い。


星善之さんアーティスト写真↑プロフィール↓

福島県西会津町出身。演出家・パフォーマー。
創作ユニットほしぷろ主宰・旅するたたき場代表、せんがわ劇場DELメンバー。
フリードリッヒ・フォン・シラーの美的自由をパフォーマンスの根幹におき、演出している部分と即興で立ち上げている部分との混在、現実と虚構の行き来、観客席と舞台との境界線の融解を狙って創作を行っている。

うんうん。フリードリッヒ・フォン・シラーのことは、私はよく知らないのだが、「現実と虚構の行き来」「観客席と舞台との境界線の融解」は、まさに「『なめとこ山の熊のことならおもしろい。』」で実現されていると思いました。

**

なんで今回星さんにお声かけしたのかな?というと、昨年、Twitterのスペースで星さんが活動報告みたいなのを懇々とひとりで語っていたのを聞いたんだよね。なんか誠実なお人柄だけでなく、自分のコミュニティ外の人ともつながろうという意志を感じて、気になっていたのでした。

しかしなかなか私も腰は重いし、一緒に暮らしている子どもは幼いし、パートナーはフルタイムで働いてるし、で、なかなか拝見できなかったのですが、先日3/15にゲーテ・インスティチュートでのパフォーマンスに立ち会い、その静謐で真摯な質感に一緒にイベントやってみたい!と霊感ビビビ訪れ3日後にオファーしたのでした。

だから、たぶん私が知ってる以上に星さんは様々な選択肢や発想を持っていると思うんだよね。どうなるのかな。4/19、本番が楽しみだぜぃ!

生きてますもの、屁も垂れます#2』、情報公開しております。

2025年3月28日金曜日

勝手に他己紹介(2 今成哲夫

哲夫との付き合いは実は相当ふるい。高校の先輩と後輩であった。けど、ひきこもり最前線だった自分は、はにかみながら会釈してくれた後輩としてのイメージが薄ら残っているだけである。再会は、2007年ごろ、京都大学の吉田寮(哲夫は寮生だったのかな...よく知らない)食堂でのライブイベントに呼ばれて行ったときに挨拶してくれて、お互いなんとなく覚えていた。

だから、「哲夫」と敬称略で呼ぶのは元後輩だからではなくて、吉田寮界隈の習慣であって、哲夫も私のことを「すーじん」と呼ぶし、なんとなく親しいのである。


今成哲夫アーティスト写真↑プロフィール↓

ピアノを弾いて、うたを歌う。

<最近の活動>ソロのアルバム『like a song』を発表。(2022)

画家の阿部海太の詩と絵に曲をつけての演奏(2024.長野 本・中川にて)

R星、suzmenba、岡田了との共作、白目の『pass』発表(2024)。

各地でお披露目ライブ。

2025年から、自宅の庭を作っています。



そんな哲夫のバンド「風の又サニー」と、対バンしたのが小岩BUSH BASHで2017年(のようだ)。出演の経緯は全く記憶にない。けど哲夫が誘ってくれたんだろうね。

哲夫は私の"a440pjt"というインスタレーションを即興で作るパフォーマンスを気に入ってくれて、私の出番終了後「風の又サニーにも出てよ」と誘われ、陽気で愉快なステージの片隅でワクワクしながら三点倒立をした思い出。

うん、よくわからないことだらけだ。でも哲夫の音楽が好きで、風の又サニー1st『manco monaco』、今成哲夫名義での『COINCASE』『LIKE A SONG』、そしてこの間、白目(今成哲夫+R星)『pass』も買ってしまった。どれもとても好きだ。

哲夫に「音源よく聞いてるよ」と言うと、「嬉しいな」とはにかみつつ、「でも俺は自分のことしか考えてないからね。自分を掘り下げたってだけだから」なんて謙遜するのである。そんな哲夫が大好きで、だから今回自分のイベントに出演してくれることになって、大変嬉しいのであった。

生きてますもの、屁も垂れます#2』、情報公開しております。