2025年6月30日月曜日

私がくたばるとき

私自身の創作に関して、昨年くらいから誰にも望まれていないのにシャカリキ頑張っているアホらしさのようなことを感じています。本来は誰にも望まれていないとしても、何かをつくること、それ自体が素晴らしいことだと思うのですが、「コンテンツ創出」として扱われて仕方ないかと割り切った瞬間から何かをつくることの潜在的な素晴らしさは地に堕ちている。

なんでこんなに何かをつくることに理由づけや結果が求められるのか、わからないなと思いながらも私の中にそういった価値判断が入り込んでいるのでしょう、「で?」「だからなに?」と、誰に言われたわけでもない心無い言葉を自分で自分に投げかけてしまう。

30歳になる前に某振付家の名前を冠したダンスカンパニーで「命懸けで舞台に立て」と吹き込まれて、危うく自死しかけた。私が命懸けで立ったところで私自身が評価されるわけでもない構造の中で、その時私が死んでも誰も責任を負わない何も変わらない意味ない死に様、ですよね?としか思えないので、舞台にもアートにも決して命を懸けてはいけない、生きてこの不当な世界と(戦えそうな状態のときのみ)戦うべしという思いは、下の世代に口を酸っぱく酸っぱく言わねばならないと思う。

中学で不登校児になって自分の将来に絶望し深夜ひとり映画のビデオテープを再生することだけが救いだったので、「作品」という単位によって自分の生が肯定される/され得るという可能性=私の生きる可能性だったわけだけど、私に関わる全ての存在が私の創作に影響を及ぼすわけで、せめて私がくたばるときはエンドロールを長めにお願いするよ、観客が席を立っても構わないから。


2025年6月27日金曜日

ゼロイチとベクトルの話

先月のゴールデンウィークに気の置けない友人たちと小ぢんまり飲んでいた時、人として中身があるとかないとか、っていう話になり、まぁシラフで字面を見ると大変傲慢なように思うけど、酔いが大いに回っていたということで、どうかご容赦ください。

で、人として中身があるとかないとかいう話になって、私は滔々と自分の意見を述べたのだが、それはつまり、中身があるとかないとかではなく人間は全てゼロである、そこにはゼロとイチしかなく、人がイチになるということもなくて、そのゼロの自分からイチに向かうベクトルにだけ、その人の存在意義が宿るみたいな私見を述べて、我ながらドン引き、というかそんなに禁欲的な思考をしなくてもいいのにと思う。

自意識肥大、夜郎自大、まぁそんなとこでしょうと思っても、自分の根底に張り着いた価値基準というものからは逃れられないもので、もっと大らかになりたいものだと思いながら、その実そんなことを思っていたんだな、と引きずっていた。

ということで切り離して相対化したいものだよ、と思って叙述するも、手前味噌にもそうだよねぇと共感する始末。というのは悪フザケにしても、あまりに自分の根底にあるものすぎて相対化もできないので、もうちょっとマイルドにならないかなと思う。

その、ゼロイチとベクトルとは、つまり人には個々に宿題や課題があり、それに向かい合い取り組むことでしか幸せになれないというような考えなのですが、あろうことか、私はやはりそこに家族含め他人が介在し得ないものだと思っている。それはあまりに絶望的な気分になるので、あまり深くは追わず、ちょっと焦点をぼかしてですね、あまり大袈裟に考えないようにする。

あまりに焦点がぼやけてもはや自ずと眠くなる昼下がり、私はまどろみに堕ちゆく意識の中で幸せを感じたりしている。

2025年6月24日火曜日

私、呼吸でケージを超えるぜ ー"kq"CD編

その昔、"kq"CDを某古書店さんに営業に行った時、「こんなんただ呼吸している音が入っているだけでしょう(大意)」というようなご意見をいただいて、全くもってその通りですな、と思ってしまってヘラヘラ適当に笑っていたのですが、そんなことはないのです。

"kq"という拙作は、たしかにほぼ呼吸している音だけで構成されてはいるが、CDに入っているスタジオ録音した呼吸音、スローな「非楽音(ノイズ)」を聴いていると、不思議と落ち着くという身体作用が発生する「グルーヴィな(ノイズ)音楽」だと思っている。

さて、表題でっかく出ましたが、やらなければならないと思ってます。ジョン・ケージ(リンク先wiki)超え!

ケージの有名な作品『4分33秒』(1952年)は、「演奏」と(演奏によってしか生起しないとされる)「音楽」への疑義だと思っているのだけど、西欧近代的な美学へのアンチテーゼとして尖鋭化するあまり「フレームがないというフレーム」しかない。いわば、フレームを外した先に広がる荒野に「これが真の自由である」という看板だけが立っていると感じる。

私の立場からすると、「自由」は餅の絵を描いて看板を立てれば成し得るものではなく、身体と知覚へのアプローチを経て個々人のなかに起こり得るのだと考えている。自由は状況や定義ではなく、個々が感じ得る内的感覚の問題だと考えるからだ。

なので、「ほら、自由だ!それやるぞ!」というような自由観・芸術観を更新して、私は地に足をつけたフレームを提案する。フレームとフォーカスの必要性を、(自身と他者の)主観への作用可能性という観点から主張する。フレームとフォーカスを設定する以上、実は「上手い下手」が付随するのだがそれは傍に。

"kq"は、スローな呼吸音で時間を構成することで、演奏者と聴衆の身体の緊張を緩め、またその知覚を柔らかく広げ、内なる自由を味わうことへフォーカスされているのです。達成されるものは20世紀的な「真の自由」とは似て非なる、あなただけの個人的な自由になると思っています。決して「ただ呼吸している音が入っているだけ」ではないのです。

とかとか。"kq"を「上演」することは、また別のものだと思っているのですが。
CD試聴はコチラから。