今、Yo La Tengoを聴きながら、文章を綴っている。どうしてこんなにアメリカのロック、特にパンク・ムーブメントの再来と言われた90年代のロックが好きなのか、自分でもよくはわからない。多分、そこには日本の音楽にはない鷹揚さと肯定感が溢れている気がする。もちろん、音楽家を名乗ってますし、今は様々なジャンル、時代の音楽を聴きますが、自分の心に響く音楽には通底している色があると思う。今日はそんなお話をば。
13歳で、お受験したボンボン中学に入学早々通えなくなった私は、地元の図書館で借りたセックス・ピストルズとレッドホットチリペッパーズのCDに、字義通り心踊った。自身の感情を自由に表現する人たち。怒りと音を直結させる人たち。何かを強制されたりしない。歌詞がわからなくても、自由になろうぜ、と言われた気がした。世界が啓けた。「この人、歌下手じゃない?」と姉にバカにされても、気に留めなかった。
そんな原初体験から始まる私的音楽史は、高度な計算や技術より、率直に響く音に魅せられてきた。(scscsのバンド時代をご存知の方には信じがたいかもですけど)
しかし、率直に「響く」ってなんだ?自身で作曲を始めてから、すぐにその問題にぶつかる。今持っているボキャブラリーで表現するなら、「自分が出したい音が明確にイメージできている」状態と「周囲の状況を受け入れて、自分の音が周囲に溶け込んでいく」状態とが、相互に作用しながら同時進行している瞬間に、率直に「響く」音が奏でられると思う。
なぜこんな回りくどい言い方で精確さを求めるかというと、「ロックは魂の叫びだから」とか「ヘタウマだよね」とか「ノリが命」とか「その良さは言葉にできないんだよ」とかとか、抽象的な神格化にウンザリしてきたからなのだけど、まだまだ言語化が遅れている分野だとは心から思う。(だからと言って、それが自分の仕事だとは思ってないけど)
イメージやモチベーションという概念は、完全に三上賀代、平田オリザ、岡田利規、山田うんなどから学んだので、私がライブハウスからいわゆる「舞台芸術」に活動を移したことは自分の中では繋がっているのです。
しかし。それでも一線引いて、音楽家を標榜しているのには理由があって、「自分が周囲に溶け込んでいる」状態というのが演劇やダンスに於いて起こり得るのか、まだわからないのだけど、音楽においては確実に存在する感覚で、自分でも手が届くことがあるので、やはり音楽にこだわりたいと思っている。
自由になりたい。自由とは?哲学でたくさん議論されてきたトピックであることは知っているけど、私は直にそれを体験したい。その意味に於いて、一見ストイックに見えるソロ・パフォーマンスも、"棚と白熊"というバンドも、劇伴音楽で舞台に関わることも、繋がっています。
0 件のコメント:
コメントを投稿