もし眼前に、兵隊が大挙して押し寄せ、子供や老人を嬲り殺す光景があったら、私は生涯忘れないし、それについて他者に語ろうとすることだろう。搾取やパワハラ体質の「アート」と、それを擁護する者も、消費する者も、加担する者も、根っこで同じことなのではないか。人間の業について何か述べたいなら、それに相応しい状況を自分で設定すればいいだけのことで、「パフォーマンス・アート」はそれに適しているのだから、搾取もパワハラも剽窃も、好きなだけ行えば良い、と半ば諦める。そして思考を終わらせて、ちょっと一息。
インターネットは自分の活動に馴染まないし、というのは、自分が作品を発表してきた場には大小差があれど、立ち会う人間に共犯になってもらっていたのですから。瞬間視聴率を、今度は目指さなくてはいけないなんて、莫迦げたことだよ、過去の自分と、ひいては歴史への裏切りだよ。
とは言うものの、想うことはある。「正義」は実践の中に於いてしか存在しないと確信してはいるのだが、その実践については問題だ。
育児がこの上なく、そうなのではないか、そうでないはずがない、と仮定してみるものの、育児は他者に開かれているのか、どうかな、乳児は、他者か、パートナーは他者だな。その意味では、自分史上最も自閉してない世界にいると言える。他者に晒されない正義の実践は、成果主義的にはNGでも、自分にとって意味があると思える限りOK、なぜなら他者への強い動機を産むから。と言う志向でここまで自閉と開示を繰り返してきたけど、それでは追いつかないくらいには、育児に勤しんでいます。
佐々木中さんの講義録を読んでいる。
それは、本当に素晴らしい仕事なので、私が何かしらその領域に追いつける可能性が残されてるとしたら、感性の実践についてだけだ。そこについて彼は、一歩譲ってくれてるから、私は、その吊り橋を渡れるかと自問してみる。
今は育児で疲れています、と答えた。フェイスブックの自動翻訳のような文体が自分の中で興る。コロナ流行の歳が暮れる。そう、現在は次を待つ時間だ。