もどかしさがある。触れたい物があるのに、手が届かない。手を伸ばせば、バランスを失い転ぶ。それでも触れたい。感触を確かめ、知りたい。自分に新しい色を吹き込んでくれる物、時間、空間。
育児は忙しく、持病の調子もままならないし、仕事にも行かなきゃいけないし。転んでる場合ではないと、手を伸ばすことをついつい諦めてしまう。それでも尚、自分の中に燻る想いは消えない。家族をどんなに想っても、この想いは消えない。
この感覚は、鬱が今よりもっとひどくて何も手につかなかった時代にもつきまとっていた。友人や当時のパートナーが私を様々な遊びに誘って過ごしてくれたが、一時どんなに楽しくとも、彼らには申し訳ないけど、後には虚しさと惨めさが残った。
私は自分が何を求めてるかわかっていたが、動かない体と共に、擦り切れた心は指一本動かすことにさえ臆病になっていた。
心の底を揺さぶってくれるような、感覚。私が中学生の頃からずっと求め続けている、その感触。私の一生を軽々と飛び越えて、颯爽としている圧倒的に純粋な存在。それを求めることさえできない苦しみ。あがき、もがき、手探りで触れようとする、探そうとする、その行為すらできないこと。その自身の無力さが、生活のあらゆる隙間に虚しさと惨めさを呼び込んでいた。
幸い今は、体が動かないわけではない(動かない時もままあるけど)。ただ時間が以前より自由にできないこと、そして家族への気兼ねや遠慮を自らに枷として課してしまっている。あの時とは違う。大切に思える家族の存在は決して自分の想いと相対しないはずだ。
このコロナ禍で、自分自身の活動の見通しは暗い。色々と助成金、給付金もあるし申請もしているが、それでももう一度「舞台」を創れるかはまだわからない。
そんな中でも同輩たちや下の世代が果敢に作品を発表し続けている。それに立ち会えないのはもどかしいが、彼らの必死な歩みに励まされると同時に、いつでも敬意と謝意を贈っているつもりだ。あなたが大切にしてくれたそれは、私にとっても大切な物です、永らえさせてくれてありがとう、と。
(余談だが、私の芸術観って宗教っぽいね)
そして、私も歯を喰いしばって歩むつもりだ。生活を。創造を。未来を。まだくたばっちゃいないぜ。
手始めに今日は良い本屋に詣でて本をたくさん買う魂胆。出版物に関する悪法がまかり通りそうだしな。