3/31に大久保ひかりのうまにて、新作を発表します。
詳細
そのリハーサルを休日に詰め込んで試行錯誤している。
新作のタイトルは"kq"、単純に呼吸と停止で構成する作品なので、暫定的にそう名付けた。
公表する作品としてはウン年ぶりの「作曲」作品である。どこまでが作曲でどこからが即興なのか、私はまだまだ不勉強で明確な定義を持っていないが、"kq"は3種類の呼吸の回数と停止のみが指示されている、ごく簡潔な「譜面」を目指して研鑽と検証とを繰り返している。
そのモチベーションは、前作"a440pjt"が、リハーサルを重ねた末の「即興」作品であり、自作自演が前提となっていたが、そこを捉え直す契機として、また、時空間の構成を予め決めることには構造的な強度が必要なのではないか、ということについて考えてみたかったからである。
そも、バンド時代から「譜面」を書くという作業をしたことがない私であるが、"kq"の「譜面」は、「戯曲」や「舞踏譜」、もしくは「コマンド」とも呼べるものに仕上げていっている。構成を手を使って書き出すという過程で、誤読される可能性をなるべく排除しようと整理、客観視「できる」とも「してしまう」とも言える、至って必然的な事象に初めて気づいた。いわば、構成を記号に置き換えて簡潔に表そうという過程で、構造という捉え方が不可避になってくる。
また、時空間を構造化していく時に、構造としての強さを模索(=簡略化なのではないかと考えています)していくと、既存の類型(起承転結とかソナタ形式とか)にもぶつかる。自分自身、つい類型を準えたりしている。それ自体が反省すべきことだとは思わないが、自分がこだわってきたこと;存在としての強度を強めるために、即時的な判断で時空間を構成していくこと、または、scscs時代のような口伝で構成する手法を大切にはしたい。つまり、類型の選択に、必然性や強い動機付けが必要なのだと思う。
"kq"に於ける暫定的な結論を述べると、類型に依る強さはある、が、構造を単純化していく中で必然性が失われれば、それは自分にとっては無味である。無味は一つの味なのかはさて置き、必然性に則ると類型がアレンジされていき構造は複雑化していく、いわば、個人の必然性と全体の構造的強度が相反する概念として自分の中にはある、という発見は何かしら含蓄があるように思った。
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