惜しくも第21回AAF戯曲賞で受賞を逃した拙作"kq"の自費出版、いよいよ大詰めに差し掛かって参りましたよ、朋友の素晴らしい寄稿も心強く、デザイン・ワークの伊東さんに助けられながら、着実に出版に向けて進んでおります。ということで、拙筆したイントロダクションではあまり踏み込まない予定の話を少し書きつけておこう、「ありのままに聴く」ことについてです。
「ありのままに聴く」は今回執筆中に手に入れた自作ワードで、観瞑想の「ありのままに観察する」を聴覚に置き換えたもの、言葉の通り「在る」ということを色つけずに「聴く」態度のこと、2017年以降の自分のソロ作品に通底する方向性、上演を通して「ありのままに聴く」ことを実践してきたと思った。
ちなみに私は観客の半分くらいが自分の目指している方向性に「乗って」くれれば、まぁ成功だと思っていて、全員が同じような見方をする、見方しかできない作品ってあんまり好きじゃないんだわ。作家の意図を答え合わせする感じ、別に読み解きが好きな人はそれでいいんだろうけど、上演芸術に本来備わっている感染力、爆発力のようなものに託してないと思ってしまう。
で、「ありのままに聴く」なんですけど、ジョン・ケージのチャンスオペレーションも、同じことを意図していたんじゃないかと解釈してる。不確定性に委ねられた音が鳴る時、耳がそば立つ感覚にはなりませんか、偶然耳にする良い音に私は惹かれる。物音、そこには自意識がないから良いと感じるのでは、と仮説を持っていたし、自分の作品に対して「自己表現」という言葉を避けてきたけど、今回の"kq"のように自分の出している音を聴き続けること、しかも呼吸音、そこで起こる微細な変容、これって「自己表現」の領域に足を踏み入れたことになるのかと逡巡していたが、ひとつの答えとして「ありのままに聴く」、また聴かせる為の時空間の設計だったのだと合点がいった。
呼吸音なら自己表現ではない、のではなくて、それを以て自意識に主張させることも可能だが、私は"kq"は極力自由度を保ちながら、演者の自意識に主張させないという方向づけはしたつもり。これは複数回実践しないとわからないことかもしれません。
自分語りをすればするほど、「正解」があるかのようになってきてしまうので、難しいところ、私が思う上演とは演者と観客とが相互に影響を与えながら同じ時空間を共に過ごすことなので、一つの方向に集約しない方がよろしいと思っています。"kq"を無事に出版できたらダウンライトのパーティーでお会いしましょう。2022年孟夏。