2022年2月21日月曜日

私は私を救いたい、私を救えるのは私だけだから

年始に、ひとりで実家に行った。パートナーと子供は、弘前の義両親の元で年を越していた。自分の家庭を持った今となっては、数少ない両親との時間だった。母親も同じことを思っていたのだろう、父が自室に引き上げると、「あなたに謝り続けていることがある。それについて打ち明けさせてほしい」というようなことを切り出された。私は混乱し、その混乱した感情が剥き出しになり、泣き、乱れ、「それはできない。でもお父さんのこともお母さんのことも愛してる」と言うのが精一杯だった。しばらく尾を引き寝込むほどに私の内面は、掻き乱された。

ヤングケアラーという言葉を、よく耳にするようになった。多分、最初は中村佑子さんが書かれていた何かで拾った言葉だと思う。精神疾患を持っている自分がいま育児中であることから、子供をヤングケアラーにしないようにとアンテナを張り始めたが、いつしか自分の幼少期の母子関係について思い起こされる言葉になっていた。

自分が幼い頃の母のことを思い出そうとすると、記憶はおぼろげだが、いつも彼女は苦しんでいたと思う。ワンオペで姉と私、幼い二人を「みなければならない」ことに常にイライラしていたし、姉が中学受験に「失敗」してからは自責の念から、荒れた姉の八つ当たりに私が抵抗しようとすると、私だけが我慢させられた。

母は毎晩夜遅くまでひとりで起きていては、朝は機嫌悪く、気怠そうに子供たちと夫の朝食を用意していた。昼過ぎに学校から帰るとだいたい母は居間で昼寝をしていた。その姿は私には醜く感じられた。父からの愛情は薄く、共に過ごした時間はほとんどない。私の相手は、母か、母と不仲の祖母か、荒れ狂った姉だった。制限や禁止事項は多く、中学受験に備えて同級生と遊ぶ時間は週1回と決められていた。

そういう外堀があった上で、母は「あなたたち(子供)がいるから離婚できない」と小学校中学年くらいの私(たち?)に告げた。夜、寝室の布団の上で蛍光灯に照らされながら、母は笑顔で誤魔化していたが、私の心にはつらく響いた。鮮明に思い出してしまう。

私はヤングケアラーだったというより、むしろ自分をケアし続けていたように思う。中学入学以降、自室に閉じこもってCDをかけたり、深夜無数の映画をひとりビデオで観たり、そして日中は眠っていた。誰とも顔を合わせたくなかった。学校には行かなかった。生きていたくなかった。大袈裟でなく、母親の期待に応えるだけの将来に、人生に、絶望していたのだ。

ただ自分を守るだけで私の中高時代は終わっていく。その傷の正体について知る術はなかったが、周囲からは「なぜ学校に行かない(来ない)のか」という疑問をぶつけられ続けた。両親は口に出さなくなっても、ずっとその疑問を持ち続けていると察していたので、期待を裏切り続けるのは暗く、苦しかった。

閉塞感と孤独感。今の私にも色褪せずに濃い影を落としている。

私が創作を続ける理由は、恐らくそのような欠乏感だ。いまは自分で選んだ家族がいて、庇護する子供もいて、この生活に幸せを感じている。それでも。私は私を救うことを諦められない。家庭と自己実現は対立する概念ではないと理解しても、尚もがいている。10代の頃の自分に響く何かを創り出す為に。私は私を救わなければならない。私の手で。