2018年10月30日火曜日

機能と遠景

現在、協働プロジェクトを進めている山下が、ACACにレジデンスしていることもあり、オープニングパフォーマンスの音楽担当で青森に行ってきた。

帰りに十和田市現代美術館に寄った。毛利悠子さんの個展。それより遥かに大きな分量が割かれている、所狭しの常設展示。
家族連れや若いカップル、中高年の夫婦、かなり多様な人々が美術館を訪れていた。
一見、十和田市現代美術館は地域に定着しているように思えたが、アミューズメント化している状態はあまり心地の良いものではなかった。

一方で、松本茶舗さんでの町中での毛利悠子さんの作品と栗林隆さんの作品はとても良かった。また、それらの作品をきちんと位置付けするトークを聞かせてくれた店主にも非常に好感が持てた。

無論、美術館があるからそのようなサテライト活動が可能なのであって、その逆はありえない。

しかし、「アート」の敷居を下げるなら、やはり作品が町中にある(そしてアーティストは町との共存を求められる)方が、骨太な活動になっているように思えた。

十和田市現代美術館は、複雑な建築、大量の常設作品で埋め尽くされ、そこには遠景に町がなかった。地方都市にアートが在る、とはどういうことなのだろうか。その問いに答える為には、まずは自分自身の機能を明確にさせなければいけないか。

東京も一つの地方都市に過ぎないが、東京にいるだけでは出会えない問題系というのも存在する。東京の美術館は、町と共存しようとしなくても、遠景があると思う。それがいいことかどうかはわからない。しかし、その遠景が思考や認知を進めさせる。

遠景には何を代入しようか。思想か、生活か。それは自身の活動を大きく揺さぶる体験だった。